第10話

 顔は見えないから、羽多野に聞かせるためというよりはほとんどひとり言のような気持ちで栄は続ける。

「亡くなった俺の祖父は多少名の知れた法学者で、親父は日本橋で弁護士事務所をやっています。有名な経済事件の弁護を担当したこともあって……そういう家系だからうちの実家、近所でもちょっと有名らしいんですよね。でもガキの頃は家の事情なんてわからないから」

 だから幼い頃の栄はいつも不思議に思っていた。なぜ行儀の良い振る舞いをしたり、誰かに親切にしたり、人より早く読み書きができるようになったことについて褒められるのは自分ではないのだろう。いつだって「さすが谷口先生の息子さんね」と、称えられるのは父だった。

 小学校に入ってしばらく経った頃から、自分を取り巻く環境を理解するようになった。都内でも屈指の文教地区で育ったので周囲の家庭も一般に経済・教育ともに水準は高かったが、中でも栄は目立っていたらしい。そして周囲の子どもは自宅で親が口にする言葉を悪気なく真似る。

 容姿が良いのは生まれつき。賢いのは血筋のせい。運動ができるのは小さいころから習い事をしているから。そして――有名校への受験に成功するのはOBである父親が多額の寄付をしてきたから。歪んだ羨望の込もった周囲の視線はときに栄を窮屈にした。

 おそらくそんな家に嫁いだ母もそれなりの重荷を背負っていたのだろう。長男を産んだところはまず合格。でもそれで終わりではない。病気もケガもなく健康に育てなければいけないから、間違ってもアレルギーなど起こさないよう朝昼晩と家の中を拭きあげ手洗いうがいをはじめとする衛生面でのしつけは厳しかった。親を責めるつもりはないが、栄のやや潔癖な部分は育ちゆえだと思わなくもない。もちろん最低限父と同じ学校に入れることは当然で、栄が頑なな反抗をはじめるまでは、栄を父の後継にすることもまた母にとっての至上命題だったのだろう。

 努力はそれなりにした。努力も才能のうちなどと言われれば腹が立つ程度には頑張ってきたつもりだし、他人からの羨望を自信に変える図太さだって身につけた。一方で自分が同性愛者であることを自覚してからは、両親の望む人生を送ることができない以上、父の跡を継ぐことは拒みその分違う世界で成功しようという野心も育ててきた。

「成功すれば谷口の子だから。でも失敗すれば谷口の子なのにって、俺のせいにされるでしょう? それが嫌だったからとにかく勝ち続けようと。でもまあ――実際、多少努力すれば大抵のことは人よりも上手くできたわけだし。つまり、何て言ったらいいのか……」

 過去のことなんて本当はもうどうだっていい。問題は今目の前のことだ。

 これまでと同じように努力しているつもりなのに人に追いつけない、人並みにすらなれない状況が栄を焦らせる。自分は銀の匙を口にして生まれてきて、それにプラスして自己を律することもできる。仕事量プラスプライベートの問題でパンクした昨年のようなイレギュラーはあったとしても、たかが言葉や環境くらいでこんなに苦労するとは思っていなかったのだ。そして――今ここにいる男は、栄が願って止まないものを手にして余裕の笑みを浮かべる。いや、それどころか憐れみすらかけてくる。

 じっと耳を傾けていた羽多野は、栄が完全に言葉に詰まったのを確認してからゆっくりと口を開いた。

「谷口くんは、ここに来て三ヶ月だっけ。で、苦労しながらも一人で生活して、英語でのインタビューに出かけたりしてるんだろう?」

「はい……」

 何が言いたいのだろう。もちろん仕事だから、情けなくても未熟でもとりあえずは出かけるしかない。だが成果が出ない努力に意味などないことを栄は知っている。あれだけやめろといったのにまだ慰めの言葉をかける気かと唇を噛む栄に、羽多野は静かに「俺は一年半だよ」と続けた。

「一年半?」

 意味がわからず栄が聞き返すと、男は同じことを繰り返した。

「そう、一年半。人前で声を出せるようになるまで一年半かかったんだ。しかも一般的に順応が早いって言うガキの頃でね」

 栄は顔を上げる。視界の隅には立ったままの羽多野。

「まだ小学生だった頃、親父の勤めてた工場が倒産したんだ。ショックでおかしくなってたんだと思うんだけど、突然アメリカンドリームとか言い出してさ。アメリカに渡った親類の農場が上手くいって、手伝いが欲しいって言ってたのを思い出したらしい。で、ガキの意思なんか関係なしに突然片道切符でアトランタ。せいぜいABCしか知らない下町のガキなのに」

 羽多野が栄に彼自身のプライベートについて話すのは初めてだ。もしかしたら栄の「一方的に経歴を聞きだした上にからかった」という恨み言を気にしているのだろうか。だがそれ以上に羽多野の言葉は栄を驚かせる。この男がコロンビア大学出身であることを知り、てっきりどこかの企業の駐在員の息子とか、日本国内の有名校から直接海外進学とか、恵まれたバックグラウンドを持っているのだと思い込んでいた。栄の周囲の海外大学出身者は軒並みそのような経歴の持ち主だから当たり前のように羽多野も同じなのだと考えた。しかし、どうやら羽多野とアメリカ合衆国との繋がりは栄の想像したものとは異なっているらしい。

 羽多野の両親は親類の所有するアトランタ郊外の農場に仕事を得たが、英語もままならない日本人中年にできることなどたかが知れている。もちろん日本人学校やインターナショナルスクールの高額な学費を払う余裕はなく、羽多野は現地校に転入するしかなかった。そこは他にただひとりの日本人生徒すらいない環境だったのだという。

「見たことないような髪や肌の奴らに委縮しちゃってさ。授業もわかんないし人が話している内容もわかんないし。で、今思うと場面緘黙かんもくみたいなもんだったと思うんだけど、家を出たら一言もしゃべれなくて」

「緘黙……」

 不安や緊張が理由で特定の環境で話すことができない状態である場面緘黙については聞いたことがあったし、かつて栄が通っていた小学校にもそのような症状を持つ女子生徒がいた。彼女は小学校の六年間、学校ではただのひと言も口をきかないままだったが、家に帰れば普通に話すのだという噂だった。

 うるさいほどよく喋る今の羽多野からは想像がつかないが、かつて彼にもそのような時期があったというのだ。

「学校でも完全に黙ったままほぼ一年。とうとう親が学校に呼び出されて、英語わかんないから親戚に通訳代わりについてきてもらったら、教師から『息子さんには何らかの知能や発達の問題があるのではないでしょうか』って言われたらしい。英語が話せないせいで黙るなんて思ってもみなかったんだろうな」

 羽多野の声には思い出し笑いが混ざるが、栄はそれを不謹慎だと思った。不安と無力感の中でひと言も話したくなくなる気持ちが今の栄には痛いほど理解できる。

 もちろん教師の指摘に驚いたのは羽多野の親だ。母は驚き混乱して、アメリカなんかに来るんじゃなかったと涙を流し、いまさら引き下がれない父親はそれに対して甘えるなと怒る。一時期は家庭内もそれなりに荒れたようだ。

「それからは?」

「ひと通りの検査を受けた気がするな。でも結局は時間が解決したんだと思う。そのうちなんとなく喋れるようになって、友だちもできて。まあ、あっちじゃ嫌な目にも遭ったし、やっと英語覚えたところで帰国して今度は日本語が下手くそになってて困ったりもしたけど……今日は遅いから、その話はまた次回な」

 ちょうどこれで栄の打ち明け話と同じだけの過去を明かしたつもりなのか、羽多野は唐突に話を打ち切った。

 栄はどうしようもない居心地の悪さを感じる。努力は才能などと言う奴が嫌いだ。そう言って自分を羨む人間を軽蔑していたくせに、栄自身同じような気持ちで羽多野への理不尽な嫉妬を募らせた。

「……俺、若いうちに現地にいれば勝手にバイリンガルになると思ってました」

「そりゃあ半分は勘違いだ。最初はやっぱ苦労するよ。日本語の維持の問題もあるしな。でもまあ馴染みはじめたら早いし発音をマスターしやすいのは確かだから、有利な面もあるよな。半分は正しいんじゃないか」

 栄が神妙な態度を見せると、反比例するように羽多野の口調は普段どおりの軽薄さを取り戻す。

「まあともかく、俺は口をきけるまで一年半。だから三ヶ月で多少不便はあっても仕事ができて、買い物して飯注文できてる谷口くんは立派なもんだ」

 なんだその無理やりな理屈はと栄は呆れた。だって栄は無理やり異国に連れていかれた小学生ではない。それなりに英語を学び自ら選択してここに来た。かつての羽多野少年と比べること自体が間違っている。やっぱりこの男は栄のことを見下しているのではないか――とはいえ羽多野が栄に償うつもりで一連の話をしたことはわかる。だから栄も、不本意ではあるが今日の一件は手打ちにしてやろうという気持ちになった。

「そんな風に言われたって全然慰めにはなりません。ともかくもう二度と俺を憐れんだりはしないでください。そういうの死ぬほど嫌いなんで」

「知ってるよ。今日のことは俺が悪かったって」

 重ねて謝罪を口にする羽多野に、栄はわざとらしく尊大ぶって続ける。

「よくよく考えると、四十手前で無職のあなたよりも俺の方がまっとうな社会人ですよね。だから多少いい大学出ててマスター持ちで英語が話せるからって、羽多野さんを羨む必要なんて全然ない気もしてきました」

「……ひどい言いようだけど、谷口くんらしいよ。それにしても君はそういう性格で今までよくも……」

「よくも?」

 言葉を濁されたことが気持ち悪くて、栄は思わず聞き返した。褒められる流れではないのはわかるから、もちろん声には再び棘が混じる。

「なんでもないよ」

 せっかく収まりかけた怒りに再び火をつけかねないことに気づいたのか、羽多野はひとつ咳払いしてわざとらしく話を止めた。そのまま栄に背を向けリビングを出て行こうとする。

「とりあえずまだ夜中だし、俺は寝直すことにするよ。君は眠れそう?」

「わかりません。でも今日は日曜だから多少寝不足になっても別に……」

 羽多野はきっと朝起きてからひとりで観光に出かけるだろう。栄は一切付き合うつもりがないから、仕事や家事の合間に昼寝だってできる。そんなことを考えているとふと羽多野が足を止めた。

「朝までぐっすり眠れる方法、知ってるけど」

「なんですか?」

 風呂、乳製品、温かいお茶、羊を数える、アイマスクと耳栓。どれも試したが効果などなかった。他に何があるのかと首をかしげるが、羽多野はなぜだかもったいぶった。

「やっぱりやめた。そのうち気が向いたら教えてやるよ」

 じゃあおやすみ、と言い残して男の背中が廊下に消える。客用寝室のドアが開いて、また閉まる音を最後まで聞いてから栄もゆっくりと立ち上がった。とりあえずシャワーを浴びて部屋着に着替え、それからもう一度ベッドに入ろう。

 そういえば土産の礼を言うのを忘れていたが、それはまた明日にでも。