第11話

「で、その知り合いを二週間も泊めてるの? いやあ、谷口さんも人がいいなあ」

 プラスティックのフォークを手に呆れ気味に目を丸くする久保村に向かって栄は取りつくろった笑顔を浮かべる。

「でも確かにロンドンの宿泊は高いですからね。うちには使っていない部屋もあるから、まあいいかなって」

 こんなときですら反射的に心にもない台詞がすらすらと出てくるのも、長年にわたって寛容で人当たりの良い男を演じ続けてきた成果だろう。とはいえ、内心どれだけ迷惑に思っていようとも栄が羽多野を自宅に置いてやっていることには変わりない。それだけで心が広いと言われる資格は十分すぎるほど満たしているはずだ。

 金曜日のちょうど午後三時過ぎ。スーツ姿の男三人が応接セットでケーキタイム……という構図はなかなか滑稽だ。もしこんな姿をあの男に見られたら、きっとまた笑われからかわれてしまうのだろう――そんなことを思いながら栄はティーカップを手に取った。

 気の早い英国人たちにとって金曜の午後とはすなわちすでに週末で、つまり彼らは基本的に仕事をしようとはしない。時差の関係上日本もすでに就業時間を終えているため、こちらも緊急の用事以外で連絡は来ない。邪魔の入らない落ち着いた空気の中で政府の経済報告書とにらみ合っていた栄がそろそろ一息いれたいと思っていたところに、ケーキ店のショッピングバッグを手にした久保村が戻ってきたのは十五分ほど前のこと。

 人気のケーキショップの前を通りかかったから、と照れくさそうに笑いながら久保村は机から紙皿とティーバッグを取り出した。ローストビーフやワインだけでなく甘いものにも目のない男はこうしてときおり、カロリーの高い菓子を食べる罪悪感すらシェアしようと同室の栄やトーマスを巻きぞえにするのだ。

 甘いもの自体は嫌いではないが、栄にとって脳天に甘さが突き抜けるこの国の菓子類はやや強烈すぎるし、久保村と違って常日頃から体形や健康には気を遣っている。胃潰瘍で体調を崩したとき以来ベルトの穴は元の場所まで戻っていないのでもう少し体重を増やしても良いと思ってはいるが、欲しいのは贅肉ではないから糖分と脂質の塊には躊躇してしまう。

 結果、三つのケーキのうち二つが久保村の皿に盛りつけられ、もうひとつは切り分けた上で栄とトーマスが半分ずつ引き受けることになった。つやつやと黒光りするチョコレートグレーズのかかったスポンジの内部からは真っ赤なベリーソースがあふれ、英国菓子にしては珍しく洗練された雰囲気すら漂っている。

「まあルームシェアしているんだと思えば」と、トーマスはお人好しを指摘された栄をフォローするつもりでいるのか、よくわからないことを口にする。

「でもいくらイギリス人だって三十超えた大使館員がルームシェアはしないだろ。暇な学生時代ならともかく、仕事やってる中で長期滞在されるのってけっこうなストレスだと思うよ。血のつながった家族ですらギスギスすることがあるんだからさ」

 久保村はそう言いながら眉をひそめた。

 雑談ついでにうっかり「自宅に他人を泊めている」と言ってしまったのが運のつきだった。久保村がこの話題に食いついてきたのは栄にとっても意外だったが、どうやら昨年のクリスマス休暇に日本から来た両親が半月ほども自宅に滞在し、その間は親と妻との板挟みでたいへんな思いをしたらしい。親族や友人というのは来てくれなければ寂しく、来たら来たで手がかかる厄介な存在なのだろう。

「しかも、その知り合いって、谷口さんとすごく親しい友人ってわけでもないんだろう? なかなか図太いよね」

「ええ、まあ……」

 栄は今家にいる男のことを「知人」としか告げていない。友安のようにほとんど現地社会に染まりきって生活していた人間と違ってここは日本国内の情勢にも目を光らせる在外公館だ。いくら一年以上経ってほとぼりが冷めたとはいえ、日々マスコミを騒がせた政治資金スキャンダルについて久保村やトーマスが記憶している可能性は否定できなかった。

 たとえ彼らがあの事件を記憶していなかったとしても、仕事で絡みのあった元議員秘書を自宅に置いているというのは決して胸を張るような話ではない。一切後ろめたいことはないとはいえ、栄は行政官として公私混同を疑われたくなかった。

 栄が中途半端にぼかして話をしたため、久保村もトーマスも栄の家にいるのは学生時代の旧友かなにかだと思い込んでいるようだ。

「しかし観光目的で二週間ってのも、よく間が持つもんだよな。もうあらかた観光地は見尽くしただろうに」

 久保村の言葉に栄は内心同意するが、ロンドン育ちのトーマスは納得がいかない表情で珍しくむきになって反論した。

「久保村さん、それは聞き捨てなりません。ロンドンは奥が深いですよ。第一、大英博物館だけでも本気で回ろうとしたら軽く数週間はかかります」

「いやいやトーマスくん、そんなのよっぽどの考古学マニアだけでしょう。悪いけど、観光客の九割はロゼッタストーンとミイラを見るだけで満足するもんだよ」

「さすがにそれはあんまりです!」

 あくまで冗談めかしつつも同僚二人のあいだにぴりぴりした空気が生まれはじめているのを察して、栄はあわてて割って入る。

「ええと、ものすごく有名なところは大体見尽くして、最近じゃマイナーな場所にも出かけているみたいです。一昨日は学生に紛れてUCLに入り込んでベンサムのミイラを見て来たとか、昨日は十七世紀の手術室を保存してあるミュージアムに行ってきたとか」

 羽多野は毎日頼んでもいないのに、その日の観光の成果を栄に報告してくる。どこで見つけるのかマイナーなミュージアムやイベントを回っては暇を潰している様子で、もしかしたらすでにロンドン観光については栄より詳しいくらいかもしれない。

 功利主義を提唱したイギリス人哲学者であるベンサムは、自らの遺体を標本にして大学に展示するよう遺言をしたため、今もそのミイラはユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンに置いてある。栄からすればまったく悪趣味な話だが、何が楽しいのか羽多野は大学に入り込みそんなものまで見物してきたのだという。

「興味ないのか? 君だって行政法だか国際法だかでベンサムは読んでるんだろ」

「読んだかもしれませんけど、だからってミイラを見たいだなんてこれっぽっちも思いませんね」

「冷たいなあ。ベンサムはあの時代に同性愛を擁護した男だぜ。谷口くんの味方じゃないか。まあ悪魔崇拝者サタニストでもあったらしいが」

 そう言われたときは本気でぶん殴ってやろうかと思った。ちなみに学生によるいたずらを避けるため、現在ミイラの頭部は模型とすげ替えられているのだという。

 十七世紀の手術室に至っては、かつて手術が見世物として扱われた時代の設備を保存しているグロテスクなミュージアムだったらしい。おどろおどろしい手術器具や、トカゲやネズミといった呪術としか思えない材料が記載された薬品レシピの写真を差し出し、嫌な顔をする栄を見て羽多野は面白そうに笑っていた。

 不愉快な記憶が蘇り、しかし同僚の前で嫌悪感を顔に出すことがはばかられる栄はかろうじて苦笑いでこらえる。トーマスは呆れたのか感心したのかわからない調子でつぶやいた。

「……その人、なかなか細かいところつぶしていきますね」

「マイナーだろ? 俺は、せっかくの長い休みならロンドンだけじゃなく、どこか遠出すればって言ってるんだけどね」

 そう、この二週間に栄は少なくとも十回は羽多野に対してロンドンを出ることを勧めた。英国は広い。日本人に人気のあるコッツウォルズや湖水地方、中世の雰囲気が味わえるバースやチェスター、ウイスキーが好きならば車を借りてスコットランドを回るのもいいだろう。わざわざガイドブックを開いて他の地域をアピールしてみるが、羽多野はまだロンドンを見尽くしていないとかなんとか言って出ていくことを拒むのだ。

 だが、ある意味のんきな「困った知り合いトーク」は突如として深刻さを帯びる。苦笑する栄を眺めながら二つ目のケーキに手を付けた久保村がふと声を低くしたのだ。

「その人、本当に大丈夫?」

「え? 大丈夫って?」

「まさかとは思うけど、闇金に追われて日本から夜逃げしてきたとかじゃないよな。谷口さんの知り合いなら身元は確かだと思うけど、念のため家には貴重品を置かない方がいいと思うよ」

 真顔でそんなことを言われると、ひやりと背中が冷たくなる。

「いや、さすがにそれはないでしょうけど……」

 否定しつつも久保村の冗談半分の脅し文句を笑い飛ばせないのは、栄が羽多野について知ることがあまりに少ないからだ。

 仕事を介して知り合い、尚人と笠井未生の件などもあったせいで腐れ縁のようにここまできてしまった。だが、彼が日本でどこに誰と――もしくはひとりで暮らしているのか、どのような生活ぶりなのか、そういったことを栄は何ひとつとして知らない。嫌味な議員秘書としての顔と、調子よく栄を利用する今の姿、それが栄が知る羽多野のほとんど全てだ。

 このあいだ聞かされたアトランタでの少年時代の話、さすがにあれが嘘だとは思いたくない。だが、なぜその後日本に帰国することになり、どういう経緯で再びアメリカの大学に進学することになったのか。ニューヨークでマスターを修了した後で、なぜ日本に戻り議員秘書になったのか。興味を持つこと自体が敗北であるように思えてあえて聞くことをせずにきたし、羽多野も進んで話そうとはしない。

 羽多野がそれなりに信用を得て議員秘書を務めていた――彼を信頼する担保などそれだけだ。だが、ときたまではあるが、実は借金まみれだったとか犯罪を犯していたとか、ろくでもない議員秘書は存在する。羽多野がそうではないという保証がどこにあるだろう。

 第一、いくら笠井志郎が横暴な雇用主で金を使う暇がなかったからといって、秘書ごときにこんなにも長く定職に就かず平気な顔をしていられるほどの貯蓄が可能なものなのだろうか。頭に浮かぶ最悪の想像をあわてて打ち消しながら栄は、念のため今晩、日本から持ってきた預金通帳など貴重品の入った引き出しを確認しようと思った。

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