第13話

 土曜日も羽多野はひとりで出かけていった。申し訳程度に栄にも一緒に行くかと声をかけてきたが、断ると深追いはしてこない。

 栄は午前中に近所のカフェで英語のレッスンを受け、帰りに広場のマーケットで買い物をした。夏野菜が減り秋の野菜や果物やキノコが売り場を埋め尽くしているのに季節を感じる。羽多野がやってきた二週間前は夏が戻ってきたかのように暑い日だったが、今ではもう朝晩は上着なしで外出することはできない。

 帰宅してから洗濯機を回し部屋の片付けをする。もともと散らかす方ではないし床は毎日ロボット掃除機を走らせているとはいえ細かいところに埃は溜まる。ひとり暮らしをはじめた当初は何もしていないのに想像以上の速さで部屋や水回りが汚れることに驚いたが、何のとこはない、ふたりで暮らしている頃には尚人がまめに掃除をしてくれていたのだ。

 尚人ほどではないが、一応は居候の自覚があるのか羽多野も栄がいないあいだに多少は共有部分の掃除をしてくれているようだ。おかげで週末恒例の家事は思ったより短い時間で終わった。

 暑くもなく寒くもない一番いい季節だ。空気を入れ替えたばかりの心地よい部屋の中で仕事の資料でも読もうかと取り出すが、どうにも集中ができない。座ったりカウチに寝そべったり、しばらくもぞもぞと動き回ってから栄はようやく部屋が静かすぎることに思い至った。

 普段の羽多野はそう騒がしいタイプではないとはいえ、同じ家の中にいれば生活音や気配くらいは感じる。ひとりの生活にすっかり馴染んでいたはずなのに、他人の存在に慣れる速さには驚かされるが、それはイコール栄の人生の中で尚人と暮らした日々の大きさを思い知ることでもあった。

 英語のラジオニュースを聴きはじめ、集中できないので音楽チャンネルに替える。やがてうとうとと眠気が迫ってきたのは昨晩も深夜に目を覚ましたからだ。休日だからと昼寝で辻褄を合わせると生活リズムが狂ってしまい、ますます不眠がひどくなる。そんなこと百も承知だが、ひとりで過ごす午後の静けさは強い力で栄を眠りに引き込んだ。

 目を覚ますと部屋は薄暗い。

「ナオ……?」

 ぼんやりした意識の中で思わずそう口にしたのは、もしかしたら尚人の出てくる夢を見ていたからだろうか。だが次の瞬間に視界の端で動く人影――明らかに尚人よりも大柄な――を見つけて栄はあわてて口をつぐんだ。弾かれたように起き上がると頭に差し込むような痛みが走る。昼寝から目覚めたとき特有の頭痛だ。

「痛っ」

 その声に羽多野がゆっくりと顔を上げた。

「……水、持って来ようか?」

 目を閉じて小さく深呼吸すれば頭痛はすうっと消えていく。それを待ってから栄は首を振って羽多野の申し出を断った。一体いつの間に帰ってきたのだろう。まったく気づかなかった。

「自分で取るからいいです」

 そう言って立ち上がるとフローリングの冷たさが足裏に気持ちよく感じられた。

 そういえば以前はよく風呂上がりに素足で歩き回って尚人に注意された。学生アパートで暮らしていた頃に騒音で苦労したのか、尚人は室内では必ずスリッパを履く。栄がここは防音のしっかりした分譲マンションから大丈夫だといくら言っても納得していない様子だった。ささいなことだが思い出すと懐かしくて、甘いような寂しいような気持ちが胸を焦がした。

 羽多野はラグを敷いた床であぐらをかいてスマートフォンを眺めている。のんきに昼寝しているところを見られたのだと思うと体裁が悪いし、寝起きに口にした言葉も聞かれてしまったかもしれない。黙ったままでいるのも居心地が悪くて、栄はかつての恋人とは似ても似つかぬ男に声をかけた。

「今日はずいぶん早かったんですね」

「うん、まあね」

 返事には覇気がない。普段の羽多野ならば寝起きの失言を聞き逃すなどせずすぐさま栄をからかってくるはずなのに、この反応は多少不気味な気もした。

 水を飲んで、まだ頭がすっきりしないので洗面所に行って顔を洗った。鏡に映るのは寝起きの男。仕事でまともに寝る間もなかった時期と比べればだいぶ色艶も良くなったはずだが、どうもいまひとつ冴えない気がするのは加齢のせいか。

 いつの間にか三十を超えて、このまま忙しく仕事をする中で歳を重ねていく。結婚することも子どもを持つこともなく、永遠に今のような日々が続く。そんなことを考えると背筋がぞっとする。もちろんそのような人生を選ぼうとしているのは自分自身なのだが、少なくとも二年前であれば栄の隣には尚人がいた。すでに関係は冷え込んでいた。栄が家で過ごす時間は減り、尚人が笑顔を見せることも少なくなっていたにも関わらず、栄の中は尚人のいない未来など一切想定していなかったのだ。

 でも、壊れたものからいくら目を背けたところで、やっぱりそれは壊れている。だから長い葛藤を経てようやく手放した。それがお互いのためにベストな選択だった――なのにこんな後ろ向きなことを考えてしまうのは寝起きが悪いせいだ。もう一度冷水を顔に浴びせて栄は大きく深呼吸をした。

 リビングに戻るとまだ部屋は暗いままだった。栄は壁のスイッチを探りながら声をかける。

「……暗い中で何やってるんですか」

「ちょっとぼーっとしてただけ」

 相変わらず反応は薄い。

 英会話レッスンの後で朝昼兼用の食事を摂ってそのままなので、栄は腹が減っていた。時計を見るとちょうど夕食どきで、だからといってこれから作るのも面倒だったので、栄は床に座ったままの男を横目で見た。

「俺、飯食いに行きますけど、羽多野さんはどうします?」

「一緒に行ってもいいの?」

 別に一緒に出かけたかったわけではない。だが疲れたように口数少ない羽多野の様子が気になったのもまた事実だ。結局ふたりは連れ立って部屋を出た。数ブロック歩いたところには栄が常々気にしていた店があった。感じの良いダイニングで、いつも賑わっていて口コミサイトの評価もいい。ただしひとりで入るには気が引けるタイプの店だった。

 栄の視線を追って、羽多野が足を止める。

「ここで食う?」

「入ったことないんで、味の保証はできませんけど」

「だったらちょうどいいじゃん」

 その言葉に背中を押されるように栄は足を踏み出した。

 店自体は当たりの部類だったと思う。欧州料理に中東やアジアのハーブやスパイスをうまく取り入れた料理は栄の口に合った。ビールの種類も豊富でそれぞれグラスで二杯ずつ飲んだ。だが食欲旺盛な栄と対照的に羽多野の様子は相変わらずどこかおかしい。話しかければ普段どおりの軽口を叩くのだが、ふとした拍子に黙り込み上の空の表情を見せる。絡まれればうっとうしいが、一緒に食事しているのにぞんざいな態度を取られればそれはそれでなんとなく面白くなかった。

「あれだけじゃ、飲み足りないでしょう。もう一軒寄りますか?」

 帰り際にそんなことを提案してしまったのも、いつもと違う様子の羽多野に落ち着かず、そのまま家に帰ることに息苦しさを感じたからだ。栄も決して酒に弱い方ではないが羽多野の方が量を飲む。翌日の仕事のことを考えてウィークデイはほとんど付き合わないが、羽多野は毎日のようにワインやウイスキーを買ってきてひとりで晩酌をしているようだった。今日は土曜だから多少なら付き合ってやっていいし。酔って羽多野が普段の調子を取り戻すなら、その方が居心地はいい。

 珍しい栄からの誘いに羽多野は少し考える素振りを見せたが、そのまま家に帰ることを提案してきた。この男が酒を断るとはよっぽど疲れているのかと思いアパートメントに戻ると、羽多野は客用寝室から木箱の入った紙袋を持ってきた。木箱の中には美しい瓶が入っていて、その中は琥珀色の液体で満たされていた。

「どうしたんですか、これ」

「先週かな、ぶらぶら歩いてて品揃えの良さそうなリカーストアを見つけて。いろいろ試飲させてもらったから手ぶらじゃ出られなくなってさ」

 そういって羽多野はテーブルの上に瓶を置いた。

「お土産にするつもりなんじゃ?」

 ラベルのデザインや文字列には見覚えがなく、日本でも広く出回っているような有名な品ではないものの決して安物もなさそうだ。わざわざ羽多野が日本に持ち帰るつもりでいるものを開封しなくたって、高級品ではないがワインやウィスキーならば他にも買い置きがある。栄がそう告げると、羽多野は首を振って迷いなく瓶のキャップに手をかける。

「せっかく谷口くんが付き合ってくれるっていうなら美味い酒が飲みたいじゃないか。俺もスコッチには全然詳しくないから、当たりか外れかはわからないけど」

 開封されてしまった以上遠慮する必要もなくなり、栄は食器棚からバカラのロックグラスを取り出した。ずいぶん前に買ったペアグラスだが、酒に弱い尚人はハードリカーを飲まないから結局ほとんど使わないままだった。それから氷と炭酸水、ついでに冷蔵庫に残っていたチーズとオリーブを皿に出した。

「ありあわせだから、こんなものしかないけど」

「十分だよ。……パブやバーもいいけど、やっぱり家飲みは落ち着くな」

 まずは少量をグラスに注いでストレートで。強い酒を口にして羽多野はようやくいくらかリラックスしたような表情を見せた。やはり疲れていただけなのかと安堵すると同時に、栄としてはうかつにも居候の機嫌に振り回された自分に腹も立つ。

「機嫌悪くなるほど疲れるくらいなら、いつでも帰国してくれてかまわないんですけどね。第一ここはあなたの家じゃありませんし」

 そう言ってから負けじとグラスを口に運ぶと、刺激と同時に強い芳香が鼻まで抜けた。洋酒には詳しい方ではないが、栄がただ酔うためだけに買ったウィスキーとは明らかにものが違う。香りと味を存分に味わってから飲みこむと喉には焼けるような刺激、それすら心地よかった。

 一瞬悪化しかかった栄の機嫌が高級スコッチのおかげで再び安全圏に戻ったことに気づいたのか、羽多野がふと表情を緩める。そしていつもの少し意地の悪い、からかうような口調で言った。

「そういえば今朝、出かけるときにコンシェルジュに会ったんだけど、どうやら俺は谷口くんのパートナーだと思われているらしいよ」