第15話

 突然セックスが怖いなどと言われて驚いたのか、羽多野は不思議そうに栄の顔をしばらく見つめ、何度か瞬きしてから聞き返した。

「怖いって、失敗するんじゃないかって意味で?」

 失敗、というのは要するにいざベッドに入って勃起しないとか、中折れしてしまうとかを指すのだろう。別の不安の方がより大きくなってしまっただけで、もちろんそういった恐怖を抱いている時期もあった。

 そういえば尚人が栄を裏切って未生と寝ることになったきっかけやその理由については、羽多野に話したことはない。一瞬ためらうのは、それが尚人の名誉にも関わるからだが、浮気の事実を明かしてしまっている以上いまさらという気もした。

「体調の問題が起きる前からずっとなかったんですよ、俺たち。倦怠期みたいな感じで、俺の生活が不規則だから寝室も分けてたし」

 一緒に暮らしはじめた当初は栄の心も弾んだし、ふたりで眠るためのベッドはこだわって選んだ。ただ、仕事の責任が増すとともに帰りが終電以降になり始発で出かけることも増えて、栄はその度に尚人を起こしたり待たせたりすることを負担に感じるようになった。尚人は健気にも栄の帰宅や出勤にあわせて起き出してくるのだが、そんな気遣いすらむしろわずらわしかった。

 尚人になんの相談もなく新しいベッドを買って寝室を分けたのは衝動的な行動で、思えばああいった栄の勝手なやり方もまた尚人を傷つけていたのだろう。

「セックスレスくらい、長く付き合ってればそう珍しくもないと思うけどな」

「でも、あいつ――ナオは不満だったんですよね、俺に言えなかっただけで」

 羽多野の言葉をのんきだと笑えないのは、当時の栄も同じようにセックスレスについて甘く考えていたからだ。

 栄はぽつぽつと、尚人がカレンダーにしるしをつけてひとりで眠る夜を数えていたことを打ち明ける。冷淡な恋人が体すら求めてこないことに尚人が寂しさをつのらせた結果、一年のあいだセックスがなければ一晩だけ体の渇きを癒す他の相手を探そうと決めたのだという話を。

 一年間というのは共に暮らす恋人たちにとっては決して短い期間ではない。少なくとも尚人はそれだけの期間を耐えて待って、だが栄は最後までシグナルに気付けなかった。

「で、そこに付け込んだのが未生くんってことか」

 付け込むという表現が正しいのかはわからないが、事実関係としては正しい。栄の疲労や苛立ち、尚人の絶望、そんなものが積み重なったある意味絶好のタイミングで未生は尚人に声をかけたのだ。

「俺は馬鹿で、最後の方は体調のことも自覚してたんで、正直求められなきゃかえってラッキーくらいの気持ちだったんですよね。まさか他所であんな奴と寝ているだなんて思いもせず」

 酔いで意識がふわふわしているとはいえ、そこから先を話すには少し勇気が必要で、栄は視線を床に向ける。

「浮気の証拠をつかんで、ホテルから出てきたナオを捕まえて。俺、完全に頭に血が上ってたんです。汚いって言って真冬なのにあいつに風呂場で冷水ぶっかけて、なぜかその最中に興奮してしまって」

 手を伸ばせばすぐの距離にいる羽多野に語っているというよりは、ほとんどひとり言のように。王様の耳はロバの耳。人にはとても言えない不安や後悔を吐き出すのにちょうどいい人間が偶然目の前にいたという、ただそれだけ。

「だからそのときにEDも治ったといえば治ったんですけど。でも愛情とかじゃなくて……ただ怒りとか、人に奪われたものをとりかえさなきゃって気持ちとか、それだけだったから」

 だから今もセックスが怖い。自分という人間が怖い。

 自分が人を愛おしむ気持ちではなく、怒りや苛立ちを糧に欲情する男だったという事実はひどく重かった。不貞を犯した尚人を許せない気持ちや、他の男と寝た体に触れることをためらう気持ち以上に、もう二度と尚人を抱けないと思った一番大きな理由はきっと――。

「俺って普通の恋愛とかセックスができない人間なのかなって、たまに思うんですよね」

 よくできた外向きの仮面で隠しているだけで、横暴でわがままで常に人の上に立ちたがる性格は自覚している。恋人のことも優しいふりで、導いてやっているつもりで結局自分の思うように支配しようとしているだけだった。自らの優位性を確認するための行為、そういう意味であの乱暴なセックスは栄と尚人の関係を極端なまでにデフォルメしたものだったようにも思える。

 付き合いはじめた頃はそうではなかったはずなのに、初めての都会を不安がる尚人の助けになりたい気持ちを持ち純粋な愛しさゆえに触れたがったはずなのに、暗い思いは美しい過去をも塗りつぶす。

「尚人くんと別れた後は、誰とも?」

 羽多野の問いかけに、栄は小さくうなずく。

「この前もちょっと聞いたけど、その前は?」

 今度は首を左右に振った。

「十代の頃に何度かそういう場所に行ってみたことはあるけど、ちょっと無理だなって」

 男同士の出会いの場、いわゆるハッテン場と呼ばれる場所には興味本位で何度か足を運んだ。しかしあまりに即物的で動物的な雰囲気に恐怖と嫌悪を感じて、結局は声をかけてきた男の手を振りほどいて帰ってきた。愛情もない相手と性欲のためだけに触れ合うことなど不可能だとあの頃は信じていた。怒りと暴力で押さえつけた相手を犯す自分の姿など、想像もしなかったのだ。

 要するに栄はこの歳になるまでただ一人の相手しか知らない――そのことを聞いても羽多野は特に驚いた様子は見せなかった。

「そういえば結局風俗にも入れなかったって言ってたっけ。そういうとこまで潔癖なんだな、まあ君らしい気もするけど。どうせ相手が恋人でも、いろいろ気にしたセックスばっかりやってたんだろう」

 完全に言い当てられている。何か言い返したいのに、栄は反論することができず顔をしかめた。

 アダルトビデオでは当たり前のように恋人の性器に唇や舌で触れたり、精液を口で受けたりする。だがそれらは栄にとっては愛情の度合いとは関係なく生理的に抵抗のある行為だった。キスはするし、舌を絡ませるのも相手が尚人であれば大丈夫。手で性器を愛撫するのも問題ないが、口は使わない。挿入は基本、必ずゴムを着けて。それが自分にとって衛生的なセックスであると同時に尚人にとっても安全で無理のない行為なのだと信じていた。

「自分じゃずっと普通だと思ってきたんですけど、俺って異常なんですかね。フェアな関係でいたいから自分でできないことはナオにもさせないようにしてきたつもりです。でも最終的にはあんなひどいこともしたし……」

 疲れたように栄がつぶやくと、なぜだか羽多野がため息をついた。

「谷口くん、君さ、これまで変な性癖の奴に絡まれたことない?」

「え?」

 耳に飛び込む言葉の意味がわからず思わず顔を上げると、羽多野は珍しく当惑したような顔で栄を見つめていた。

「君みたいに澄ました顔して偉そうで、一見隙がなさそうに見えて、そのくせちょっとつつけば脆いって。そういうのに妙な征服欲くすぐられる人間ってけっこういると思うんだけど」

 いつもどおり品のない冗談に艶めいたものを感じてしまうのは気のせいだろうか。いや、気のせいではないとわかっているからこそ、あえて栄はしらばっくれる。

「変なこと言わないでください。今まで一度だってそんなことありませんから。大体こういう悪趣味な冗談を言ってくるのもあなたくらいで……」

「あーあ、優しくしてやろうって思ってたんだけど」

 聞こえるか聞こえないかの小さな吐息交じりの言葉に不安を煽られた栄は思わずグラスをつかんで水っぽくなったウイスキーを飲み干す。テーブルに目をやると、瓶の中身はかなり少なくなっていた。羽多野は何杯飲んだだろう。そして自分は?

 いつもどおりつかみどころのない、ただ栄をからかって遊んでいるだけであるはずの羽多野の目がやけに冷たく見えた。冷たい瞳と対照的に口元には薄笑みが残る。そして羽多野は言った。

「二ヶ月くらい前かな、偶然新宿で未生くんと会ったんだよ。で、ちょっとだけ話したんだけどさ、どうもその尚人くんと付き合ってるらしいよ」