第16話

 喉のあたりを締め付けられたような、胸を強く押されたような感覚に息が詰まる。突然羽多野から投げつけられた言葉は完全に栄の虚をついた。

 いや。でも――栄は心を落ちつけようとする。

 尚人と笠井未生が付き合っているとしたって、まったくの想定外というわけではない。尚人の心はずっと栄への情と未生への未練のあいだで揺れていた。栄がはっきりと別れを告げた以上後者に傾くのはあまりに当然だった。

 渡航前に送ったメールへの返事がなかったことからも、尚人に新しい恋人ができたのではないかと考えてはいた。尚人は決して惚れっぽいタイプでもなければ積極的に出会いの場に出かけていくようなタイプでもないから、相手として一番可能性が高いのが未生だと正直半ば覚悟していたのだ。

 それでも栄はショックだった。想像することと事実を突きつけられることはまったく違っている。尚人が未生と寝ていることを知ったときのあれを怒りや絶望と呼ぶのならば、今栄の心を塗りつぶそうとしているのは喪失感。そして今度こそ本当に自分だけが過去の恋愛からも尚人からも置いていかれてしまったのだという、胸の奥に穴が空いたような孤独だった。

「……そう……ですか」

 言葉がうまく出てこないのは決して酔いのためだけではない。

 あまりにも突然で、あまりに残酷な報告。しかも未生からその話を聞いたのが二ヶ月も前ということは、羽多野はロンドンに来た当初から彼らの関係を知っていたということになる。なぜ今までそれを黙っていて、なぜ今になってわざわざ告げる気になったのか。酔いで鈍麻していた感覚が急に研ぎ澄まされ痛みを感じはじめ、一方で思考は混乱する。

「ごめん、ショックだった?」

 淡々と問う羽多野だが、栄に対して本心から申し訳なさを感じているようには思えない。動揺を気取られたくない栄はこわばる顔になんとか笑みを浮かべようとした。

「いや、俺たちもう別れてますから。別にナオを縛るつもりなんてないし、あいつと一緒にいて幸せだっていうなら……」

 途切れ途切れに絞り出す言葉が嘘であることなど自分が一番よくわかっている。理性では自分がもはや尚人に対してなんの権利も持たないのだとわかっていて、それでも御しがたい感情が胸の中をうずまく。

「傷ついたって素直に言うのは、君のプライドが許さないだろうな」

 栄は答えない。確かなのは羽多野が、栄が傷つくとわかった上でわざわざ彼らの話を聞かせたということ。

「未生くんもいろいろやらかして、それなりに成長したみたいだよ。猛勉強してどっか国立の看護学部に入りなおしたって言ってた。親父さんにできるだけ金を頼らないようにしているとかでバイト三昧らしいけど、あの日は週末で、待ち合わせて尚人くんの家に行くとこだって言ってたよ」

 聞きたくもない話を垂れ流す男の口を、できることなら塞ぎたい。いや、喉を絞めてもう二度と口がきけないようにしてやりたい気分だった。未生の話など聞きたくない。あんな考えなしでいい加減なクソガキに尚人を奪われるのだと思うと不快だったが、改心したと聞けばそれはそれで面白くない。

 幼さや未熟さを認めて前を向こうとする未生の姿は、きっと尚人の心を打つだろう。「同情ならばやめたほうがいい」と忠告した気持ちに嘘はなく、栄はただ尚人の幸せを願っていたはずなのに、いざ彼らが逃避でも依存でもない関係を築きはじめたと聞けば栄は嫉妬する。前向きに変わることのできる未生に――そして栄を置いて先へ進んでいく尚人に――。

「以前の未生くんはそれなりに男女関係も奔放だったようでよく笠井先生が愚痴をこぼしていたけど、今は尚人くんに夢中って感じで。彼は谷口くんとは違って単純でわかりやすいタイプだから、尚人くんを寂しがらせることはないんじゃないかな。若いから体力もあるだろうし」

「そんな話、聞きたくないです」

 とうとうこらえきれなくなった栄の口から感情的な言葉がこぼれた。「体力」というのが何を指すかは考えるまでもない。あからさまにセックスの話を持ち出して、よりによってついさっき栄が打ち明けた劣等感を刺激するような言い方をして。無神経なのも意地が悪いのも知っているが、さすがに度を超している。

「俺、ナオとあいつがどうなろうと興味ないんですよ、もう他人ですから。今になってわざわざそんなこと聞かせて、どうしたいんですか」

 震え出す指先に気づかれたくなくてぎゅっと拳を握りしめる。そうしてこらえていないと、返事によっては羽多野に殴りかかってしまうかもしれない。議員秘書を役人が殴れば新聞沙汰だが、ここは遠い異国の地で羽多野はもう秘書ではない。一発や二発殴りつけたところで問題はないのではないか。酒のせいで自制心の弱まった頭をそんなことすらかすめる。

「どうしたいっていうわけでもないけど、君を見てるとたまにちょっと意地悪したくなるんだ」

「わざと怒らせるようなことをして面白がってるくせに。とにかくその話はもう、やめてください。ちょっと飲み過ぎたみたいだし、俺はもう……」

 スコッチの瓶は底が見えている。結局ふたりで一本開けてしまったのだ。だから、栄が余計なことを話しすぎたのも、羽多野が調子に乗ってあまりにひどいことを言い出したのも、きっと酒のせい。そう思わなければやっていられない。栄はチェイサーグラスに残った気の抜けた炭酸水を飲み干した。

 後片付けは明日の朝でいい。風呂に入って――いやこれだけ酔って湯に浸かるのは危ないからシャワーですませたほうがいいか――寝室に引き上げよう。そう思って立ち上がろうとすると視界がぐらりと揺らいだ。すぐに立てばよろめいて倒れてしまいそうだから、ゆっくりと。そう自分に言い聞かせながら膝立ちで一度動きを止めた栄の腕を、羽多野がつかんだ。

「責任取ろうか?」

 問いかけは唐突だった。

「……はい?」

 意味がわからず、腕を振り払うにはあまりに体勢が不安定で、栄はただ目を丸くして羽多野を見つめた。口元だけで笑って、どこまで本気なのかわからない。いや、そもそも何の責任を取ろうと言っているのかすら不明だ。

 腕を握る力が強くなる。

「普通のセックスができるかどうか、試してみようかっていう意味だよ。尚人くんとの大事な時期に勃たなくなったの、俺のせいだって言ってただろう。だから責任とってやるよ」

「羽多野さん、いいかげんふざけたことばかり言うのも……」

 声が震えて、背中を冷たいものが伝う。嫌な奴で失礼な奴だと思っていた。だが、絡んでくるのはあくまで自分を利用するためだと思っていた。かつては栄の仕事上の地位を、今はロンドン滞在中の安価な宿主として。でも、それ以上の警戒をしたことはない。

 栄は事故のような偶然で性志向を羽多野に知られた。飄々と自らに降りかかった災難にすら興味なさそうな男だから、栄に同性の恋人がいると知って驚かないのはそういう性格なのだと思っていた。そして羽多野のことはストレートで男に関心はないのだと、「そういう意味では」安心な男だと思って家にも入れて――。だが、もしかして自分の隣にいるのは予想以上に危険な存在なのだろうか? 決定的な問いを口に出す前に栄の腕はあっけなく解放される。

「そんな怖い顔するなって。せっかくの男前が台無しだ」

 そう言って笑う男に、ほっと気が抜けた。

「……あなたが変なこと言うから」

「君はなんでも真に受けるから面白いんだよ」

 もう、怒りをぶつける気力も残っていなかった。ゆっくりと立ち上がり、ラグにあぐらをかいたままの羽多野に告げる。

「飲み過ぎたし、羽多野さんはおかしなことばかり言うし、俺もう疲れました。風呂行って寝ます。テーブルは片付けなくていいんで、あとはご自由に」

「了解。風呂場、足下気をつけろよ」

 羽多野の指摘は今度こそごもっともで、栄の足取りは確かにふらついていた。本当はシャワーも朝にした方が良いのだろうが、このまま布団に入ることには抵抗があるから用心深く服を脱いで風呂場に入った。

 まずは、熱めの湯をしばらく浴びる。混乱した頭を落ち着けるため湯の熱さに集中して目を閉じる。いろいろな話をした気がするけれどほとんどは酔っ払いの戯言で、頭をすり抜けていく。それでも忘れられないのは未生と尚人のこと。未生は尚人のために変わろうとして、尚人はそれを受け入れて、彼らは今は一緒にいる。

 寝室を分けてからのの期間も長かったとはいえ、とりわけ付き合いはじめの頃は頻繁にセックスをした。八年間の交際の中で尚人を抱いた回数もそれなりであるはずだ。でも、未生はたった数ヶ月の、しかも限られた夜だけで尚人を変えた。怒りにまかせて尚人を抱きながら、その体の変化に驚き嫉妬したことを思い出す。セックスはもちろん、それ以外にも未生はきっと多くのものを尚人に与えたのだろう。栄には与えられなかったものを。

 今頃彼らは――考えるとたまらなくなって、シャワーの温度調節のレバーに手を伸ばすと一気に水の方にひねる。冷水を頭に浴びながら、余計な考えをなんとか頭から振り払おうとした。ここで滑って転んだら頭を打って、下手をすれば裸のままで間抜けに死ぬ。そんなことを妙に真剣に考えながら髪と体を洗う。ドライヤーを使うのも面倒だったのでタオルで全身をぞんざいにぬぐっただけで寝室へ向かった。

 冷水を浴びたせいで少しずつ酔いがさめていくのがわかる。体はだるいのに思考がはっきりしてくるのは良くない兆候だ。酔いが抜ければ目が冴える。何も考えたくない。眠いような眠くないような、気持ち悪い感覚。赤ん坊がむずがって泣くのはきっとこんなときなのだろう。

 目を閉じたら眠れるだろうか。でも、起きていても考えるのは嫌なこと、眠っても見るのは悪夢。逃げ場なんてない。上掛けはかぶらずベッドの上に横たわり、気を紛らわすため枕元の本を引き寄せたときドアが開いた。

 そこには羽多野の姿があった。

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