羽多野が風呂場に向かう足音やドライヤーを使う音は聞こえていた。風呂上がりの髪はほんの少し湿って、スウェットとTシャツに着替えている。
怪訝な顔で栄は羽多野を見た。
「……何か用事ですか」
例えば歯磨き粉がなくなったとか、寒いのでもっと厚い布団が欲しいとか。そうでなければわざわざ羽多野が栄の寝室までやってくる理由などない。だが羽多野は質問には答えないままドアを閉めると、栄が横たわるベッドの方へまっすぐ歩み寄り、そのままマットレスの端に腰掛けた。
「どうせ眠れなくて悶々としてるんだろうと思って。あんな話をしたあとだし」
頼んでもいないのに尚人と未生が付き合っているなどという聞きたくもない話をしておきながら、罪の意識を感じているとでも言いたいのだろうか。あまりに自分勝手な羽多野の相手をする気にもなれず栄は寝そべった体を反転させて羽多野に背を向けると読む気もない本を再び手に取った。
「意地が悪いですよ、最初から知っていたのに。せめて最初に言うか、最後まで黙っているかがマナーだと思いますけど」
最初に言わなかったのはきっと、悪い情報を出せば栄の態度が頑なになり宿の提供を拒まれると思ったからだろう。でも、だったら最後まで明かさないという方法もあったはずだ。聞かずにすむのならそのほうがよっぽどましだった。
「俺の意地が悪いことなんか最初から知ってるだろ」
羽多野の声にはかすかに笑いが混じり、栄はため息を吐く。なんだ、謝罪に来たのかと思ったことすらとんだ買いかぶりで、まだからかい足りないのか――。
「あなたにはもう付き合いきれませんよ。出て行ってください」
「冷たいな。君を傷つけるようなことを言った罪滅ぼしにきたっていうのに」
その言葉が終わるかどうかのタイミングで羽多野が動いた。まったく身を構えていなかったので肩に軽い力をかけられただけで栄の体はぐらりと揺れて、背中からマットレスに倒れこんだ。頭はかなりはっきりしてきたものの、体にはまだ強い酔いが残っていて反射神経がうまくはたらいてくれない。
自分が男に組み敷かれている、そう認識するまで三秒。そしてその三秒間は羽多野にとって、栄の抵抗を封じるに十分な時間だったようだ。両腕と、脚。そこまで強い力ではないのに、押さえ込んでくる体を振りほどくことができない。
「君はずいぶん悩んでいるようだが、別にたいしたことじゃないと思うんだよな。勃起しないくらいで死ぬわけでもあるまいし。セックスの動機が愛情だろうが怒りだろうが、結局やることは変わらないわけだし」
「何わけのわからないこと言ってるんですか。そんなことより、退いてください」
相手は尚人だけなので経験豊富とまではいえないが、人を押し倒したことはある。でも逆ははじめてだ。男の腕で押さえつけられることにはっきりとした恐怖を感じ、しかしとがめる声にわずかな笑いをこめてしまうのは――相手が本気だと思いたくないからだ。
ふざけてばかりの男だ。さっきだって栄の腕をつかんで、普通のセックスができるか試してみるかなどとのたまった。でもあれは冗談で、すぐに腕は解放されて羽多野は笑った。だから、きっと、今度も。
祈るようにその表情をうかがうと羽多野はやはり笑った。笑いながら、栄の腕を押さえる力をむしろ強めた。そして体を低くして、唇を栄の耳に近づける。
「あのさ谷口くん、前に俺言ったよね。一晩中ぐっすり眠る方法を知ってるって」
栄は息をのむ。低い声はひどく近い位置から耳孔に吹き込まれて、その湿った熱すら直接肌に触れてくる。気持ち悪い、離れろ。そう言いたいのに上手く言葉が出てこなくて、自分がみっともないほどおびえているのだと知った。
「やっぱりさ、軽く体を動かして出すもの出すのが一番なんだよ」
そう言いながら羽多野は膝で栄の股間を軽く押さえた。ここまでされれば、さすがに何を言わんとしているのかはわかる。
「……ちょっ、こういうの聞いてないっ」
どうにかして男の体を押しのけようともがくが、着痩せするタイプなのか羽多野の体は予想外にずっしりと重くぴくりとも動かなかった。そもそも急所を膝の下に押さえられているのでどうしたって栄の動きは用心深くなる。思い切り力を込められればひとたまりもない。
「俺は君の周りにいる賢くて理性的でお育ちのいい紳士たちとは違う。そんなこと谷口くんだってわかってたはずだ」
「くそ、卑怯だ。あんた男に興味あるなんて一言も」
毒づいたところで、そんな反応すら愉しむような笑いが返ってくる。もはや羽多野は醜悪さを隠そうともしていないようだ。
「言わなかったから、何? 他人が常に自分の決めたルールのなかで動くと信じているんだな。さっき、よくも今まで無事だったなって言ったのはそういうところだよ。俺は抵抗する相手を組み敷く趣味なんてないはずだけど、君を見てると妙な気持ちになる」
「……やっぱりあんたみたいなクズ、家に入れるんじゃなかった」
「だとしても君のミスだ。俺みたいな奴を簡単に家に入れて、目の前で酔っ払ってぺらぺら秘密を話して、元恋人の話を聞かされれば落ち込んだ顔をして。その上、寝室に鍵もかけずに。賢い谷口くんならそのくらい見抜けたはずじゃなかったのか?」
羽多野はわざとらしく「賢い谷口くん」という部分を強く発声した。どこまで人をこけにすれば気が済むのだろう。だが羽多野の性悪さをいくら責め立てたところでこの状態でほとんど意味がないことくらいはわかる。だから栄は普段ならば決して出さない惨めな、慈悲を乞う声色で訴える。
「俺、そっちじゃありません」
まさかとは思うが羽多野は誤解しているのではないか。いくら男がセックスの対象であるとはいえ、栄は決して組み敷かれる側ではない。こんなことは間違っている。
すると羽多野は不意に右手を持ち上げ、栄の頬に触れた。熱い大きな手、男の割にすんなりと細い尚人の手とはまったく違う手のひらが頬を撫でる。
「心配しなくたって大丈夫。今日はただ、君が何も考えずに眠れるよう手助けするだけだから」
そんな言葉、ほとんど聞いていない。片腕が自由になった隙をついて逃げだそうと、肘をついて体を反転させようとする――その動きを利用された。
「……っ」
そのまま転がすように背中を押され栄の体は裏返る。今度はベッドの上に四つん這いになった背中に体重をかけられた。両手と膝だけで押さえ込まれていたさっきまでとは違って羽多野の体の前面がぴったりと栄の背に張り付いている。
大きな手がシャツの裾から差し込まれて確かめるように脇腹に触れると寒気に似た感触に腰が抜けそうになった。
「細いな。防具って重いんだろ? これでよく剣道なんかできてたな」
確かめるように腰を撫で回しながら羽多野は感慨深げにそう言う。体のことは栄自身も気にしていたが、まさか諸悪の根源にこんなふうに揶揄されるとは想像もしなかった。
「誰のせいだと……っ。い、胃潰瘍になる前はこんなんじゃなくて」
体重は今より五キロほども重くて体つきだって違っていた。一番痩せていた頃よりは多少ましになったが、ベルトの穴の位置は戻っていない。三十を超えたら一気に太りだすと誰もが言うので、だったら今は多少痩せているくらいでちょうどいいかと気を抜いていたが、まさかこんなところで仇になるとは。
「そういえば見る見る間にやつれていってたもんな。泳いでるだけあって体つきはなかなか立派だけど、もうちょっと食ってもいいんじゃないか」
のんきな言葉とともに、今度は熱い手のひらがうっすら浮き上がった腹筋を確かめるように触れてくる。
「そ、そんなの羽多野さんには関係ないから。とにかく離れろ、重いっ」
数センチに過ぎないはずの身長差のせいとは思えないくらいに背中に触れる体はとにかく重い。なんとか押し返せないかと持ち上げた右手をやみくもに振り回すが簡単に制圧されてしまう。羽多野は羽多野できっとそれなりに体を鍛えている。今になって気づいたところでどうしようもないことに気づいて栄は唇を噛んだ。
「俺に触りたいっていうならいくらでも触らせてやるが、それは暴れないって約束してからだな」
そう言って羽多野は栄の腕を痛まない程度にねじる。片腕を拘束されバランスを失った栄の上体は情けなくマットレスに崩れ落ちた。