顔ごと上半身をマットレスに伏せて腰だけを高く持ち上げた格好。マウンティングされた動物さながらの、栄にとってはこれまで経験したことないほどの屈辱だった。
ぴったりと押しつけられた体の熱さに、それでもあらがおうとする栄を羽多野は軽くいなす。
「剣道に水泳ね。確かに俺は竹刀を持った谷口くんには敵わないだろうけど、とはいえマットは俺のフィールドだからさ」
そう言いながら羽多野はわずかに腕の力を強めた。間違いない場所を的確な強さで押さえられ、栄は今度こそ自分が完全に羽多野のコントロール下にあることを認めざるを得なかった。羽多野はその気になればもっと暴力的な方法で栄を思い通りにできる、そうほのめかしているのだ。
「何やってたんですか」
そんなことをのんきに聞いている状況ではないのに、確認せずにはいられない。これは男としての力の差ではなくちょっとした経験やテクニックの問題なのだと自分を納得させたい。そう思わずにはやっていられない。栄にとってはぎりぎりの矜持だった。
「小学生をアメリカなんかに連れて行って、しかも現地校通いだと、親としては日本人としてのアイデンティティ形成が心配になるわけだ」
栄の腰や腹を相変わらずべたべたと撫で回しながら、羽多野は突然アトランタ時代の思い出話をはじめた。先日「今日は遅いから」と打ち切られた話の続きが、まさかこのタイミングで再開されるとは夢にも思わなかった。
「そんな話を聞いてるわけじゃなくて」
羽多野の指が腰骨に触れるたび、臍をかすめるたびに肌が粟立つ。誰にもこんなふうに触れさせたことはなかった。自分はいつだって触れる側で場をコントロールする側で、すがるように抱き返されればそれだけで満足だった。
怖いのは、まだ先があるということ。羽多野の手が栄の体のもっと下の――直接的に性欲をあおるような場所に向かったなら。もちろんこんな男に触れられてどうにかなる自分ではないと思ってはいるが、それでも不安がゼロであるとは言えない。
しかしまあ、こんな状況であるにも関わらず羽多野はよくしゃべる男だ。
「毎週土曜は日本語の補習校。周囲は大企業の駐在員とか、地元の領事館に来てた外交官の子ども。ガキのくせにエリートぶった嫌な奴ばっかだったな。あとさ、谷口くん知ってる? 古武道って日本人はほとんどやんないけど、外国人には意外と人気高いんだよ。アトランタにもなぜか道場があってさ」
忍者に憧れる延長なのかもしれないな、と一切興味の持てない余談を差し挟んでくるのはともかく、羽多野に古武道の覚えがあって、おそらくそのせいでこうもたやすく栄を押さえ込んでしまえるのだということは理解できた。
「ぶ、武術の覚えをこういう場所で使うのは卑怯です」
アメリカナイズされた古武道とやらがどのようなものかは知らないが、栄の通っていた剣道の道場では武術は正しい目的のためだけに使うべきだという心得を厳しく教え込まれた。柔道だろうが空手だろうが古武道だろうが、それは同じであるはずだ。だが、良識に訴える言葉すら不本意であるかのように羽多野はつぶやく。
「失敬な、俺は君を助けようとしているのに」
何が助けるだ、と言い返せなかったのは次の瞬間大きな手がスウェットの上から栄の股間をつかんだからだ。どうやら卑怯上等な羽多野にとって、栄の言葉は逆効果だったらしい。
「どこ触ってるんだよっ! 離せ!」
当然ながら手は膝よりも器用に動く。さっき膝頭でぐりぐりと刺激されたときとはまったく異なる柔らかく揉むような動きに栄はひどく動揺した。
耳元に押しつけてくる唇と、耳孔に注ぎ込まれる低い声。
「だから、怖いことはしないから。こっちに集中しろって」
嫌だ、嫌だ。嫌悪と恐怖と緊張とで体はこわばり、なのにやんわりと耳たぶを噛まれると膝からは力が抜けそうになる。
「っ、う。ふざけるな、この変態」
「いいかげん黙らないと、口をふさぐよ」
ぐっと背後から顔を寄せられ、拒むように首を振れば唇の端と端が触れそうになる。栄は反射的に口をつぐんだ。何でどうやって口をふさごうというのか、想像するだにおぞましい。
「ほら、ちょっと固くなってきたんじゃないか」
甘い響きの混ざる声が聞きたくなくて、栄は顔を枕に押しつけた。いくら触れても勃起しないことが屈辱的でたまらなかったかつての自分が嘘のように、今はまったく逆のことを考えている。こんな男に触れられて勃つなんてありえない、許せない。だったら不能だと笑われたほうがまだましだ。
抵抗したいのに、押さえつけられることがわかっているから動くことすらできない。徹底的にあらがって敵わないよりは相手が卑怯だからと自分に言い聞かせたほうがまだ傷は浅い。そんなことすら頭をよぎる。
せめて何も感じないように。これ以上羽多野の思いどおりにはならないように。だが、局部から意識を遠ざけようとすればするほど、布地越しにやわやわとさすり揉みしだく動きが生々しく感じられる。唇を噛み、ぎゅっと手を握りしめて爪を手のひらに食い込ませることで栄は内側から湧き上がる淫らな感覚を押し殺そうとするが、それはあまりにむなしい努力だった。
下着の締め付けを窮屈に感じはじめたところで、ふっと体が楽になる。だがそれはスウェットと下着をひとまとめに腿まで下ろされ陰部があらわになったからだった。羽多野は栄のシャツを胸の下あたりまでまくりあげて、感心したように言う。
「ちゃんと勃つじゃないか。立派なもんだ」
あまりの屈辱に顔を上げることも声を発することもできない。だが羽多野が栄の下半身の状態を直接目で見て確かめているのはあまりに明白で、枕に埋めた顔が燃えるように熱くなった。
セックスへの不安を羽多野なんかに話したことが間違いだった。でもこんなことは頼んでいないし、EDならば治ったと告げたはずだ。勃起なんかどうだっていいから離して欲しい。これ以上追い詰めないで欲しい。必死の思いで力の抜けかかった膝をなんとか半歩前に進めたところで、直接握られた。
「あっ……」
思わず悲鳴が出たが、恐怖したような痛みはなく――さっきまでとはまったく異なる感触――熱くて大きな人間の手が直接そこをやんわり包み込んでいた。栄は混乱した。羽多野が直接自分の体の、しかも性的な場所に触れている。
「触るな……汚い手で」
言葉自体は強いものだが、ほとんど懇願のような響き。惨めでたまらない気持ちと相反して温度を上げる体。意味がわからない。自分でコントロールできない熱があることを、栄は知らない。
「本当に口が悪いな。それともあおってるのか? そんなふうに言われると、俺の汚い手でもっとひどいことして欲しいのかと誤解したくなる」
羽多野は手の中のものを強弱つけて何度か握り、芯がとおりかけたところで上下に擦る動きに切り替えた。
「……あっ」
もう罵りの言葉を吐くこともできない。何か口にすればきっと、切羽詰まった吐息が、もしかしたら声すらこぼれてしまう。
羽多野は具体的なことは何も言わないが、男に触れるのがはじめてでないことは確かだと思った。いくら同性とはいえ自慰だけではわからないであろうことを知りすぎている。どうやって相手を焦らしてどうやって追い詰めるのか、動きは巧みで無駄がない。
「これくらいが完勃ちかな」
袋を揉み、茎の裏筋を幾度も指先でたどりながら十分な大きさまで育てたところで指先が先端へ向かうくびれをくすぐる。かと思えば固く厚い手のひらで先端を撫でる。
「んっ……ぁ」
自分の意思とは関係なしに、そこがぬるつくのを感じた。羽多野はぬめりを広げるように円を描いてしつこく栄の先端を弄ぶ。手が離れようとすれば反射的に腰がその方向を追った。嫌だという気持ちは確かなのに、快楽にあらがえない男の性。
「谷口くんは濡れやすいんだな。先から俺の手に糸引いて、見ろよ、すっげえやらしいから」
ひどく満足そうに告げるその内容が本当か嘘かはもはやどうだっていい。背中の重みはいつの間にか消えている。手も脚も、もはや押さえつけられてなどいない。ただ恥ずかしい自分の姿を認めたくなくて、絶対に導かれた方向に視線を向けないと決める。とはいえ栄の温度はどうしようもなく高まり、どれだけ歯を食いしばってももう絶頂を見るまでは終われない。悔しいけれどそれが事実だった。
「ほら、出したければ自分でも腰を使って」
嫌だ。嫌だ。そう思っているのに、手の動きを緩められればたまらず腰が揺れる。男の手で握られて、甘く意地の悪い言葉であおられて、その手で達したくて腰を振っている自分。気が狂いそうだった。でも、終わらなせなければそれはそれで気が狂う。
「嫌だ、こんなの違う……んっ、やだって」
「大丈夫だって、ちゃんとできてるから。ほら、上手だ」
あやすような声が栄の理性を溶かす。
相手を気遣い、怖がらせないよう痛がらせないよう細心の配慮をする――それが栄にとっての正しいセックスであり普通のセックスだった。これは決してセックスではないけれど、自分の意思でコントロールできない強い力で、かなわない力で押し込められ強引に高められる行為。そんなひどい状況に下肢を濡らして、先を欲しがる自分。
やがて何もかも頭の中から消える。自分が羽多野にひどいことをされているという事実も。尚人を笠井未生に奪われたことも。何も考えられなくなる。ただ欲望をとげたいという、それだけ。
真夜中の寝室に響き渡るのは荒い息と、くちゅくちゅと濡れた場所が立てる音だけ。もはや羽多野が栄のものを擦っているのか、栄が自ら彼の手に欲望をなすりつけているのかもわからない。やがてぎゅっと閉じた目の奥が白くなると同時に、栄は自分の欲望がはぜるのを感じた。