第19話

「……っ」

 ぐっと奥歯を噛みしめなんとか声は殺したものの、おののく体までは隠せない。吐精に合わせて何度かびくびくと腰を震わせたところで栄は膝からベッドに崩れ落ちた。みっともない姿勢のまましばらく荒い息を吐き続ける。射精なんてローティーンの頃から何百回、何千回とやってきたことなのに桁違いの疲労だった。

 やがて呼吸が整うとともに自分の身に起こったことをはっきりと意識する。突然寝室に入ってきた羽多野に、ろくろく抵抗もできないまま強引に組み敷かれた。服の中に手を入れられ卑猥な言葉であおられて高められ、最後には自分から腰をなすりつけるような真似すらした。最悪という言葉では到底足りない。公文書と法令作成で鍛え上げた栄の豊富な語彙力を以てしても言い表せないくらいひどい気分だった。

 なんとか指先が動くようになったところで下着を引き上げ、シャツを腹まで下ろしたとき――背後で「濃いな」とつぶやく声が聞こえた。

 不穏な予感にゆっくり首を後ろに向けると、羽多野が自らの手のひらをまじまじと見つめていた。瞬間の記憶はないが、ベッドが汚れていないところを見ると栄が出したものはすべてこの男が受け止めていたようだ。

「それに量も多い。何日ぶりだ?」

 粘度の高い白濁が男の大きな手のひらを汚しているさまを呆然と眺め、栄は息をのんだ。ここのところ自己処理すらしていなかったのは事実だが、それも羽多野がこのアパートメントに居着いたせいだ。

 いや、今はそんなことどうだっていい。人の精液を興味深そうに眺める男というのはまぎれもなく異様な光景だ。しかもそれだけでは飽き足らず、羽多野は栄の視線を浴びながらゆっくりと手のひらを唇に近づけた。手を濡らすものを舐め取るなまめかしい赤い舌から、つうっと白く糸が引く。まるで見せつけるようにゆっくりとした仕草に鳥肌が立った。

「やめろよ……汚い……」

 たまらなく気分が悪いのになぜだか目が離せない。そんな栄にちらりと視線を投げかけてから、羽多野はわざとらしく喉を鳴らして口の中のものを飲み込んだ。

「汚くないよ、君が出したものだ」

「へ、変態」

 涼しい顔で理屈にならない理屈を述べられて、まともに言い返すことができない。子どもの悪口のような言葉を投げ、にらみつけるだけで精一杯だった。

 押し倒されて、触れられて、導かれた。それだけでもショックは大きいが、出したものを舐めて味わい、飲みくだされたことは何より耐えがたい。暴力でねじ伏せる以上に圧倒的な雄の力を見せつけられた気分だった。

 顔とか学歴とか社会的地位だとか、これまで気にしてきた何もかもがちっぽけに思えるほど、羽多野は常識外れの行動でいとも簡単に栄を打ちのめす。さっき彼に言われたことは事実で、羽多野といるといつだって栄は自分の知らない未知のゲームに引きずり込まれている気分になり、ただ翻弄されてしまうのだ。

「俺が君に触れれば汚い、君の出したものを舐めれば汚い。まったく谷口くんにかかれば色気もくそもないな。第一、このくらい誰だってやってるとまでは言わないが、いまどき珍しくも……」

「やめろってば!」

 不満をこぼしながら再び手に舌を伸ばそうとする男に栄は思わず飛びかかっていた。手首をつかみ口元から引き剥がすと、羽多野の手のひらを自分のシャツになすりつける。

「あー、せっかく受け止めたのに、わざわざ服まで汚しちゃって。何やってるの」

 羽多野が呆れたように言うが、そこまで栄を追い詰めたのは一体どこの誰だ。栄には羽多野のゲームのルールはわからないから、できることは隙をつくことだけ。ティッシュペーパーに手を伸ばせば、きっとそのあいだに羽多野は再び手のひらに口を寄せて――もしかしたら一滴も残すことなくあれを舐めとっていたかもしれない。想像するだけで冷たいものが背筋を走った。

 栄が寝間着代わりにしている紺色のTシャツの前面は、白濁でべっとりと汚れてしまった。あまりに惨めな有様を哀れんでか、ベッドサイドのティッシュケースに手を伸ばした羽多野が中身を数枚抜き出し栄に手渡した。

「何やってるって……それはこっちのセリフだろ。俺が男と付き合ってたからって馬鹿にしてるのか? こんな、こんなこと無理やり……」

 怒りと混乱と羞恥と、あまりに多くの感情が押し寄せたせいで声を震わせながら、栄は受け取った紙でシャツをぞんざいに拭う。自分がこんなにも取り乱しているのに羽多野が平然としているのがなおさら気に障った。しかし平然どころか羽多野は栄の怒り自体がさも心外であるかのように眉をひそめてみせた。

「君こそちょっと触られたくらいで、処女でもあるまいし。って、そうか。今まで上になったことしかないなら、後ろは処女なのか」

 その瞬間、栄は腕を振り上げていた。

 マットの上は自分のフィールドだと自信たっぷりに言った男も、さすがに不意打ちの右フックはよけられなかった。不安定な体勢からの一撃なのでフルパワーとはいかないが、栄の拳が羽多野の左顎を叩き寝室にゴッと鈍い音が響いた。

 続けて攻撃を加えるという選択肢がないわけでもないが、とりあえずはこれで許してやる――というよりは、二発目はきっと羽多野も身構えるから下手をすれば反撃されるのではないかという計算が働いた。

 羽多野は顎を押さえながら、何かを確かめるように口をもごもご動かす。どうやら殴られた勢いでどこかを噛んだようだ。

「……いて、口の中切った」

 栄としてはその程度で済んだことに感謝してもらいたいくらいだ。心の中では、どうせならば余計なことばかりぺらぺらしゃべるその舌を噛み切ってくれれば良かったとすら思っている。

「俺だって黙って好き放題されてるわけじゃないんだよ。わかったら出て行けよ」

 にらみつけた先には、痛みをこらえるように口元を押さえながらも不敵に笑う男。

「嫌だと言ったら?」

「力ずくでも」

 栄の本気が伝わったのかどうかはわからないが、小さく息を吐き羽多野は体をずらしてベッドから降りる素振りを見せた。しかし両足を床に下ろしたところで一度動きを止め、振り返る。

「取っ組み合ったらどうなるかは、もう結論がでたはずだけど」

 そして、男は素早く身を乗り出して腕を伸ばした。勢いのまま首を抱き寄せられ、顔と顔が近づく。口を塞いでやろうかと言われたことを思い出した栄は両手で唇をガードして不意打ちから逃れようとするが、強い力で引き寄せられ熱い唇が押しつけられた。

 キス。でも、口を塞がれたわけではなくて――羽多野は栄の額に押しつけた唇をゆっくりと離すと余裕の笑みを浮かべた。

「君が望むなら、もっと違うことも俺はしてあげられるんだけどね」

 殴られたくらいでは全く懲りていない。これ以上付き合うだけ時間の無駄だ。

「……ひとりで勝手にやってろ」

 栄はベッドを飛び降りると、そのまま廊下に逃げ出した。

「おやすみ、谷口くん。きっと今日は夢も見ずに眠れるよ」

 そんな言葉を背に受けながら、力任せにドアを閉めると床にへたりこんだ。

 一体何をやっているのだろう。結局寝室に侵入されて好き放題されたあげく、部屋そのものを明け渡してしまった。でも、これ以上あの男と一緒にいたら何をされるかわかったものではない。敗走ではなくこれは勇気ある撤退なのだと必死に自分に言い聞かせる。

 額にまだ熱く残る唇の感触を消し去りたくて手の甲でごしごしと拭うが、とても足りない。シャワーを浴びて何もかも洗い流さないと。どこもかしこも、触られた場所すべてきれいにして一刻も早く着替えないと。わかっているのになぜだか体が動かなかった。

 射精後特有の疲労感だけではない。もっといろいろなこと。羽多野がやってきてからの、いやもっとずっと前、尚人の手を離してからずっと抱えていた喪失感が一気にあふれだしたような激しい脱力感。

 もうどうだっていい。栄はのろのろと立ち上がると精液で汚れたシャツを脱ぎ捨て、脱衣所に放り投げる。着替えは寝室のクローゼットに行かないと手に入らないからひとまずあきらめて、上半身裸のまま再び廊下に出た。

 左に進めばリビングのカウチがあるが、少し迷って右側に踏み出した。ここ二週間は羽多野に占拠されている客用寝室のドアを開けて中に入ると、内側から鍵をかける。ふたつある寝室のどちらも扉は施錠できる。まさかあんな目に遭うと思わないから使っていなかっただけだ。

 とりあえずこれで羽多野が入ってくることはできない。ほっとした栄は疲れた体を引きずるようにしてベッドに潜り込んだ。他人に使わせたまま洗濯もしていない寝具。普段だったら絶対に使いたくない代物だが今は疲れと脱力が何にも勝る。信じられないことだが――栄の感情を裏切り、腹の奥に溜まっていた欲望をすべて吐き出した体は疲労を心地よく感じてすらいた。

 自分のものでもない、尚人のものでもない、他人の匂いのする枕に顔を埋めて栄は目を閉じる。意識を失うまでは、ものの数分もかからなかった。