第20話

 まぶしくて目が覚めた。なぜだか部屋のブラインドが下りておらず、朝の光がさんさんと栄の顔に降り注いでいる。

 まぶたが重くて、頭も重い。とりあえず今が何時であるかを確かめるためサイドテーブルに置いてあるはずのスマートフォンに手を伸ばすが、そこにはなにもない。いや、スマートフォンどころかサイドテーブルすら存在せず栄の手はむなしく宙をさまよった。

 妙なのはそれだけではない。肩の辺りがやたら涼しくて、手で探ると裸の肌が触れた。普段の栄は寝具を汚すのが嫌なので裸では寝ない。

「……あ」

 そこでようやく前の晩の記憶がよみがえった。

 頭痛は、羽多野が買ってきたスコッチを飲み過ぎたから。まぶたが重いのも飲み過ぎで目が腫れているからだろう。そして上半身裸で寝ているのは羽多野のせいで汚したシャツを脱ぎ捨ててきたから。栄は上掛けを頭の上までかぶって、少しずつよみがえる恥辱の記憶に身もだえた。

 ――きっと今日は夢も見ずに眠れるよ。

 悔しいがその言葉は事実だった。時計がない部屋では正確な時刻はわからないが、部屋の明るさからも普段栄が起きるよりずっと遅い、日曜でなければ確実に仕事に遅刻していたであろう時間であることは確かだ。そしてあれだけのことがあったにも関わらず栄はベッドに潜り込んですぐに眠りにつき、朝まで一度だって目を覚まさなかった。

 昨日は昼寝だってした。普段ならそういう夜はなかなか寝付けなかったり、眠ってもすぐに悪い夢で目覚めたりするものだ。尚人と未生についての嫌な話を聞かされた後にもかかわらず何の夢も見ないというのは、むしろ奇妙だった。

 だが、さすがにちょっと寝過ぎたようだ。栄はのろのろと起き上がる。秋が深まってきたとはいえ、まだヒーティングを入れるほどではないので部屋はひんやりとして上半身裸では風邪を引きそうだ。まずは服を、と思うが内鍵を掛けた客用寝室から出ることにはためらいがあった。

 羽多野はもう起きているだろうか。すでに外出していればいいのだが。しかしよく見ると栄が眠っていた客用ベッドの枕元には、財布とキーリングが無造作に置いてある。栄がここに籠城している以上、羽多野は羽多野で寝間着から着替えることも荷物を取ることもできない。出かけている可能性は限りなく低かった。

 もちろん栄だって自分の寝室に行かなければ着替えはない。だが、廊下もしくは寝室で羽多野と出くわすことを思うとこのまま出て行く気にもなれない。何しろ冗談だか悪戯だか知らないが、羽多野は昨晩栄の体に性的に触れたのだ。

 選択肢その一は、ブランケットをかぶって出て行くこと。でも、それこそ過剰に視線を意識していると思われやしないだろうか。そして、選択肢その二。良識のある大人を自負している栄は普段なら決してとらないであろう手段。でも、今はある種の緊急事態だ。

「まあ……自業自得だし」

 罪悪感を打ち消すようにつぶやいてクローゼットの扉を開ける。そもそも今もこの中には栄の冬物衣類も置いてある。勝手に開けたからといって責められることもないだろう。

 自宅さながらに使われているのだとばかり思っていたが、最初に栄が告げた「荷物を広げすぎるな」という言葉を真に受けているのか、意外にも羽多野の私物は数枚の上着とボトムだけだった。引き出し部分も特に使われている気配はない。シャツでもあれば借りようと思っていた栄にとっては正直いって拍子抜けだ。

 がっかりしながらも、どうせならばと栄は羽多野のワードローブを確認することにした。それなりに仕立ての良いものを着ているようなので、この際タグを確かめてやろうと思ったのだ。だが、一番奥――ちょうど自分の冬物と羽多野の服の境目になっているところに見覚えのないガーメントケースを見つけ、栄は手を止める。

「なんだ……?」

 自分の持ち物でないのは明らかで、ということはつまり羽多野のものだということになる。

 議員秘書の習い性というわけでもないだろうが、仕事の場を離れた普段の羽多野はカジュアルダウンしつつも、シャツやジャケットを中心とした、それなりにきちんとして見える服装をすることが多い。だが他の服は剥き出しで吊してあるのに、一着だけわざわざガーメントケースを使って持ってくるというのは奇妙に思えた。

 人のものを勝手に見るのが品のない行為であることはわかっているが、栄は思わずファスナーに手をかける。隙間からは黒い布地が見えた。観光旅行には不似合いな黒いジャケットとスラックス、シャツとネクタイの一式。ビジネスに使うにしてもいささかかしこまりすぎている、それはフォーマルスーツだった。

 なんでこんなものを。そう思ったところで廊下から足音が聞こえた。内鍵をかけてあるにも関わらず、のぞき見がばれたかのような気まずさを感じ栄はあわててファスナーを閉じてクローゼットの中身を元通りにした。

 そっと鍵を開けて外の様子を確かめると、リビングの方から物音がする。どうやら羽多野はすでに起き出しているらしい。栄は足音を忍ばせて寝室へ向かい、無事自室を奪還して着替えることに成功した。

 ダブルベッドのシーツは乱れたままで、目にすれば嫌でも昨晩のことを思い出す。その上、羽多野が我が物顔で寝ていたのだと思うと腹が立ち、栄はすべてのベッドリネンを剥がすと洗濯機に投げ込んだ。ついでに昨晩脱ぎ捨てたままのシャツを回収するが、ティッシュペーパーでの拭い方が不十分だったのか布地は嫌な感じに固まっていた。どう見ても洗濯機に任せる前に下洗いが必要だ。

「……朝から洗濯?」

 水音を聞きつけたのか、羽多野が洗面所にやって来た。栄がシンクでシャツを手洗いしているものを見て納得したようにうなずくのが腹立たしい。

「ええ、うかつにも気づきませんでしたが、家の中に性犯罪者がいたみたいで。後始末をしているんです」

「犯罪者呼ばわりとは穏やかじゃないな。でもよく眠れただろう?」

 ひとまず無視して栄は洗濯に集中する。こんなとこ、夢精した中学生でもあるまいし。しかもそんな自分の姿を凝視されていると思うとますます恥ずかしかった。

 石けんと洗剤であらかたの汚れを落として、それでも汚い気がする。たらいに湯を張り、酵素系の漂白剤を入れてからシャツをそこに浸した。そして、改めて振り返る。

「何を恩着せがましいこと言ってるんですか。あなた、自分が何をやったかわかってます? 人を無理やり押さえ込んで……犯罪以外のなにものでもないですよね」

「君が本気で逃げようとするなら、腕を折ってまで続けるようなつもりはなかったけど」

「当たり前です!」

 腕を折るだなんて、どこまで冗談で、どこまで本気なのかわからない。栄は濡れた手をタオルで拭うと羽多野には目もくれずリビングへ向かう。もちろん足音はぴったりと後をついてきた。

 羽多野は、あきれるほどに羽多野だった。さすがにあれだけのことをやって、殴られて逃げられて少しくらいは気まずそうな素振りや反省の態度を見せるのでは、などと考えるだけでも馬鹿馬鹿しい。

 まるで性的に触れて、出したものをちょっと口にするくらい何でもないとでもいうように――。いや実際、羽多野にとってはたいしたことではないのかもしれないが。問題はむしろ、栄がどれほど嫌がるかを知っていて羽多野が強引な行為に及んだことだ。

 リビングに入ると、片付いたテーブルが目に入った。昨晩だか今朝だか知らないが、酒盛りの後始末は羽多野が済ませたらしい。でもそんなことでごまかされたりはしない。栄は脚を止める。

「ああいうことやって、追い出されるかもって思わないんですか?」

「俺は谷口くんの優しさを信じているからな」

 軽薄な言葉に、体の内側がきしむような気がした。

 優しさだなんて嘘だ。羽多野は本当は見透かしている。栄が慣れない生活で疲弊していること、尚人との別れへの心の整理が十分でないこと。そういった弱みを知った上で、何をすればどう反応して――どこまでならばぎりぎり許されるかを見極めて、栄を体よく暇つぶしの道具にしたり、宿泊場所を提供する便利な存在として使ったりしているのだ。

「そう言えば俺が強硬手段をとれないって思ってます? 腹立つんですよ、あなたは都合良く俺を利用しようとしてばかりだ」

 自然と声が大きくなり、二日酔いの頭痛も大きくなる。だがそんな栄に羽多野はあっさりと言い返した。

「だったら君だって、俺を利用すればいい」