第21話

「利用?」

思わず栄が聞き返すと、羽多野はうなずいて続ける。

「〈だれにとってもいちばん不幸なことがあるとしたら〉〈それはだれにもなにごとにも利用されないことである〉」

 そらんじられた文句の意味がわからず栄は眉をひそめた。

「読んだことある? ヴォネガット。『タイタンの妖女』は名作だ」

「いや……俺はフィクションは……。それに、その本が今の話と何の関係が」

 作家の名前自体は聞いたことあるような気がする。もしかしたら尚人の本棚に何冊かあったかもしれない。しかし小説――とりわけ外国の小説は栄の読書の範疇外なので、羽多野の口にした書名もその内容も知らない。

「確かに、君の寝室にあるのは社会経済や政治の本ばかりだったな」

 谷口くんらしい、と羽多野は笑いながら栄を追い抜きキッチンに立つと、慣れた仕草でケトルに水を張り電源を入れた。栄が羽多野の使っている客用寝室でクローゼットの中身を確かめたのと同様に、羽多野はどうやら栄の寝室に置いてある本のタイトルを確認したようだ。

 これまで友人知人に小説の面白さを説かれても一切興味を抱かないどころか時間の無駄だと思ってきた栄だが、なぜだか羽多野に言われると自分がものを知らない人間であるような恥ずかしさを感じてしまう。瞬時にうまく言い返せず、結局視線から逃げるように背を向けカウチに腰をおろした。

「俺は人間って利用価値があるうちが華だって思うよ。谷口くんだって前は、笠井先生や俺や、職場の人たちにいいように使われることに必死になっていただろ。責任感や優越感やいろんなものがあったのかもしれないけど、人から利用されることが無意味だとは感じていないはずだ」

 羽多野は栄の知らない小説の話をすることはやめたらしい。かといって過去の仕事の話を持ち出されるのも面白くはないのだが。

「誤解ですよ。あれは望んでいたわけじゃなくて……」

 上手く周囲を頼ることができず仕事を背負い込んだ最大の原因は栄のプライドの高さだった。でも、上司たちだって栄の業務量が限界を超えていることも体調が良くないこともわかっていて倒れるまで手を差し伸べなかった。羽多野だって栄が決して自分から折れないことを知って、無理難題ばかりを押しつけてきた。決してあんな状況を望んでいたわけではない。

 とはいえ栄自身が当時の自分を心の底から不幸に思っているかといえば、必ずしもそうではなく――ここ最近は、手足を縛られて泳いでいるような今の仕事と比べれば、もしかしたらあの頃の方が充実していたのかもしれないと思うことはある。

「君みたいに極端な責任感で仕事に入れ込んで体壊すなんていうのは馬鹿なことだが、だからって何事においても利用すらされないっていうのも寂しいものだろう」

 ケトルがコポコポと沸騰しはじめ、やがてカチリという音をたてる。やがて羽多野は両手にマグカップを持ち栄のいる場所までやってくると、うちひとつを手渡してきた。中身はきっとコーヒーだ。特に飲みたい気分でもないがとりあえず受け取ると、羽多野は当然のように栄の隣に腰掛けた。思わず腰を浮かして距離を取った。

 とりあえず、ひと口。高級スーパーマーケットで買った「オーガニックでフェアトレード」の製品だが、所詮インスタントなので味はたかがしれている。だが適量よりかなり多い粉を使ったのか、やたらと濃く熱いコーヒーは味云々は関係なしに二日酔いの重い頭をいくぶんすっきりさせた。

「また適当なことを言って俺を丸め込む気ですか?」

 その手には乗らないという意思表明も込めて告げると、羽多野は口元をゆるめる。

「君がそんなに単純じゃないことくらいわかってる。第一、俺のほうだって谷口くんといると調子が狂ってばかりだ」

「調子がいい。まったくそうは見えませんけど」

 ――利用されるうちが華。

 実際、言われるまでもなく栄だって羽多野を利用していた。苛立つことの方が多いとはいえ、ホームシック気味で弱っている状況で家に帰って話し相手がいることはマイナスばかりではない。尚人のことを含め外聞の悪いことを打ち明けて自分の首を絞める結果にはなったが、話をすることで気が楽になったのもまた事実だった。だがそんなことは口が裂けたって羽多野には言わず、代わりに話を本題に戻す。

「二度とああいうことしないでください。その上眠れただろうなんて、恩着せがましい。利用云々以前の問題ですよ。羽多野さんは勘違いしているのかもしれませんけど、俺は男に押し倒される趣味はないですから」

「押し倒す方専門ってことか」

 そう言われて思わず自分が羽多野を押し倒す場面を想像して、鳥肌が立った。

「だとしても、相手は選びます」

 叱責が中途半端になるのは、心のどこかでは慣れないここでの生活で感じている不便さや寂しさを多少なりとも埋めてくれる羽多野を追い出したくはないと思っているから。かといって昨晩のような行為を望んでいるわけではないので、栄自身も正直どのような着地点を設定すべきか迷っている。

「夢は見た?」

 栄の不平不満をいつものようにさらりと無視して、羽多野が聞いた。何の夢とも、誰の夢、とも言わない。でもその言葉が何を指しているのかわからないほど栄は鈍くなかった。

「……いいえ」

 首を振ると、短い沈黙。マグカップのコーヒーをひとくちすすって、羽多野は意外にも真剣な顔をする。急にこんな話をして、どういうつもりだろうか。

「正直ちょっと驚いたよ。あんなに傷ついた顔するとは思わなかったから」

 嘘つき、という言葉を飲み込む。あんなに傷つくと「わかっていた」からこそ尚人と未生のことをわざわざ伝えてきた。羽多野はそういう男だ。

「まだ彼に未練が?」

 そう言葉を重ねながら羽多野はちらりと横目で栄をうかがう。栄は視線をそらしてさっきよりも大きな仕草で首を振った。

 未練ではない。そういうことではない。この気持ちはどう表現すれば正しいのか、栄はゆっくりと言葉を探し羽多野はそれを待つ。

「そういうんじゃないです、ただ上手く言えないけど……羽多野さん、前に言ってたでしょう? 俺がつまずくことに慣れていないって」

「ああ」

 あれは栄が倒れた後。病室を訪れた羽多野は辛辣な言葉ばかりを投げつけた。言い方はひどかったがあれが正論かつ羽多野なりのいたわりの言葉であったことを、今では多少は理解している。

 転び方を知らないから過剰に怖がっているだけで、一度の失敗くらいたいしたことはないのだと言われても、あのときは信じることなどできなかった。だが、確かに無傷とはいかなかったものの、仕事に復帰して時間が経てば腫れ物に触るような扱いは和らぎ今回のような新しいチャンスだって与えられた。

 でも一度転んで立ち上がれたからといって、失敗を怖がる気持ちは消えてなくならない。とりわけ、恋愛については。

「どこで間違ったんだろうって考えてしまうんです。何が違ってたら失敗せずにすんだのかって。ナオとやり直したいとかそういう意味ではなく、原因を見つけて解決しないと先に進めないっていうか」

 性格的に譲れない部分があるとはいえ、仕事についてはまだ自分の欠点や、どう振る舞えば周囲と上手くやっていけるのかを頭では理解しているつもりだ。一方で恋愛については――正直よくわからない。

 自分が尚人に押しつけすぎたこと、尚人の不満に耳を傾けなかったこと、生活スタイルや考え方の変化に適応できなかったこと――理由ならばいくらだって出てくるのだが、何が決定的な原因で、何をどうすれば「次は上手くやれる」のかがわからない。だからいつまでも尚人との過去を反芻してしまうのだろう。そして栄だけがいつまでも前に進むことができずにいる。

「谷口くんは、自分のせいで尚人くんとの関係がだめになったと思ってるんだな」

「俺のせいだっていうのは事実ですよ。笠井未生はくそみたいなガキでしたけど……ナオにとっては多分あいつの方が……」

 そこから先は言葉にならなかった。別れを決めたとき栄は尚人に、誰が悪いわけでもないと告げたが、あれは嘘だ。尚人の裏切りの原因を含め、すべては自分のせいだと今でも感じている。

 栄は自分なりに尚人にいろいろなものを与えてきたつもりだった。でもそれは、最初から間違っていたわけではないにしろ、いつからか見当違いの自己満足になっていた。家柄も育ちも良く社会的地位もある洗練された男だとうぬぼれていた栄だが、尚人に必要なのは何も持たない愚かな未生だったのだ。

 温くなったマグカップを両手でぎゅっと握り込み栄はうつむいた。

「えらいよ」

 その言葉と同時に、ぽんと頭を叩かれる。反射的にその手を振り払いながら栄は羽多野をにらみつけた。

「嫌味ですか?」

「たまには素直に人の言うことを受け止めろ。プライドの塊みたいな君が、他人を認めて許すことを覚えたのは大きな進歩だって言ってるんだ。でも……」

 行き場をなくした手をひらひらと宙で振りながら羽多野は苦笑いする。

「次は、自分自身を許すことを覚えないといけないな」

 栄にはまだ、その言葉の意味が理解できない。

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