第22話

 すっかり不味くなったコーヒーをそれ以上口に運ぶ気にもなれず、栄は手を伸ばしてマグカップをテーブルに置いた。

「誰も悪くなくたって壊れるものはあるんだ。タイミングとか運とか、いろいろと。どうしようもないこともある」

 栄が何も言い返さないことをどのように受け止めたのかわからないが、羽多野はそのまま勝手な説教を続ける。

「説教くさいおっさんは嫌われますよ」

 さすがに我慢できず毒づいた。こういう精神論のような説教を、いまどきの若者は一番嫌う。上下関係を気にする旧来型組織人の栄はこれが上司であれば黙って聞いてやるところだが、あいにく羽多野はただの無職の居候だ。

 だが、羽多野にとって栄の言葉は不本意だったようだ。

「説教……そんなふうに聞こえる?」

「まさか自覚がないとか? それ、救いようがないですよ」

 栄はわざと大げさに驚いて見せる。万が一、本人は説教でなく慰めのつもりであったとしても、とてもではないがそんな風に受け止める気にはなれない。いや――なおさら腹が立つ、というべきか。

 言うまでもなく栄は慰められることが嫌いだ。たとえ口にする側にそのような意図がなくなって、人を慰める行為にはどうしたって哀れみが混ざる。そして、人が人を哀れんだり慰めたりするとき、多少の差はあれそこには見下しの感情が含まれるのではないか。

「俺はあなたを反面教師に、将来はうだうだと説教ばかりして若者に嫌われることのない管理職を目指します」

「手厳しいなあ」

 つれない態度に羽多野はわざとらしく肩を落として見せた。

 着替えの置いてある部屋を栄に占拠されていた羽多野は、昨晩のままのスウェットにTシャツ。顔は洗ってひげは剃ってあるが整えられていない髪にはまだいくらか寝癖のようなものが残っている。栄は無意識に自分の同じ場所に触れて髪が跳ねていないことを確認した。

「ともかく君にはまだ呪いがかかっているみたいだ。それを解かなきゃ先に進めないって、自分で言ったじゃないか」

 だから「俺を利用すればいい」と? 栄は思わず苦笑する。この男はまさか本気で、彼自身が栄の抱えている問題を解決する特効薬だとでも思っているのだろうか。だとすれば、どこまで思い上がっているのだろう。

「あなたは俺をプライドが高いとからかうけど、俺にしてみれば羽多野さんの方がよっぽど傲慢に見えますよ」

 人はそう簡単に他人を変えたり救ったりすることなどできない。長く一緒にいて互いを思い合っていた栄と尚人すら、いつしか向かう方向はばらばらになっていた。良かれと思ってやったことが相手を傷つける結果になった。いつも飄々といい加減で物事にこだわらない羽多野が人の「呪いを解く」などという夢のような言葉を口にすることは意外を通り越して滑稽にすら思える。

 羽多野は栄の言葉を肯定も否定もせずに薄く笑った。何を考えているのかは相変わらずさっぱりわからない。

「……大体こんなふうに俺にちょっかいを出して、あなたに何の得があるんですか」

 そう質問しながら羽多野の顔を見ることができなかったのは、どのような答えが返ってくるかを多少は怖がっていたからなのかもしれない。得体のしれない男だから、栄の想像を超えた――よくわからないけれど何かひどく忌々しいことでも言われたら。不安がわずかにあった。

 だが、羽多野はあっさりと「ちょっかいっていうか、宿泊代ってことじゃ駄目?」と返した。

「……は?」

 一切互換性のない概念を、羽多野はあっさりとつなげて見せた。そして続ける。

「ずっと尚人くんといたから他のイメージがない、って言ってたろう。だから、尚人くん以外と一緒にいることで見えてくるものもあるんじゃないか。君の探している間違いの原因とか」

 惚れ込んで自分から口説いた尚人と、望まざる客人である羽多野は栄にとってはまったく異なる部類の存在だ。だが、尚人以外の他人と生活イメージを持つという意味では羽多野の言うことが百パーセント間違っているわけでもない。

「それに、少なくとも尚人くん以外に触れたり触れられたりする免疫がつかない限り、君に新しい恋愛は難しいと思うぜ」

「……それを、どうしてあなたとしなきゃいけないんですか?」

「他に誰か付き合ってくれるような酔狂な奴がいるのか? 君みたいな気難しい奴がそういう相手を都合良く見つけられるっていうなら、俺は別に無理強いはしないけど。しかもこの異国の地で」

 栄は黙り込んだ。やはり羽多野は狡猾だ。まさかこんな方向から昨晩の行為を正当化してくるとは。しかも栄が内心ひどく気にしていることを盾にして。

「でも、それじゃ最終的に一方的に俺が損をするような気がします。具体的な根拠はないけど、なんとなく」

 こうして話していると相手の言い分にもそれなりの正当性がある気がして流されそうになるが、何しろ相手は羽多野だ。ひとつ譲ればそれをいいことにどんどんつけ込んでくる、そういう人間なのだ。ただ、この男の申し出を一蹴できないのは栄の弱さで――それに加えて今は、尚人と未生の話を聞いたことによる動揺で正しい判断ができなくなっている。

「まったく、疑り深いな」

 そう言いながら羽多野はさりげなく体の位置をずらす。さっきまで二人の座る間には人ひとり分空いていたのに、じわじわと距離が詰まっていく。座面に手をついてそれ以上近寄ることができないようにガードしてから栄は羽多野をにらんだ。

「疑わせるのは誰ですか。あなたと関わって良かったこと、ほとんどないですから。それに今だって……何で近づいてくるんですか。まさか、また妙なことを……」

 昨晩あんなふうに触れてきた相手と、こんな距離で。栄はまた羽多野がおかしなことをはじめないよう警戒を強めるが、当の本人は口の端を押さえて顔をしかめてみせる。

「まだ口の中が痛むんだ。これ以上殴られたくはないよ」

「次に俺に触ったら、歯か鼻を折ります」

「物騒だなあ。昨日だってまるで人を汚物みたいに、あれじゃ大抵の男は傷つくだろ」

「あんな卑怯なことする人間、傷ついたって自業自得ですよ」

 本当に殴られた場所がまだ痛むのだろうか。ただのポーズだという可能性はある。いや、ポーズであるに違いない。なぜなら羽多野が次に口にしたのも相変わらず無神経な質問だったからだ。とても反省して用心深く振る舞おうという人間とは思えない。

「……尚人くんとはキスはしてたの?」

「そりゃしますよ。付き合ってましたから」

 栄は即答した。あまりに免疫がないだとか潔癖だとか揶揄してくるので、自分だって人並みに恋人とスキンシップはできるのだと主張してやりたい気分だった。

「舌は入れた?」

「……それは、まあ」

 粘膜を触れあわせる深いキス。回し飲みすら許容できない自分に可能なのかと当初不安に思ったが、相手が尚人である場合に限っては嫌いではなかった。戸惑いながらおずおずと舌を迎える尚人の姿を見るのは好きだったし、溶け合うような感覚には否応なく性感も高まった。

 栄が拒否しないことに気を良くしたのか羽多野の質問は少しずつエスカレートしていく。

「体を舐めたりは?」

「……多少は」

「挿れる前に触ったりほぐしたりするのは? やってあげてた?」

「俺だってそれくらいはしますよ」

 尚人は事前に風呂場で準備をしてきていたが、挿入直前には栄がほぐしてやっていた。とはいえかならず手指にはゴムを使っていたのだが、なんとなくそのことは言わずにおいた。