「オーラルは?」
羽多野の挑発的な問いかけに負けん気ゆえに答え続ける栄だったが、さすがにここに至って我に返る。
「……何でそんなこと答えなきゃいけないんですか」
「いや、気になるじゃん。潔癖な君に何がどこまでできるのか」
この男が下衆な好奇心を持つのは勝手だが、栄がそれに付き合う筋合いはない。このまま話に応じ続ければ尚人とのベッド事情を微に入り細に入り聞き出されてしまうだけだ。きっとその後には品のない駄目出しが続くのだろう。
「野次馬根性で人のプライベートを探らないでください」
きっぱりと会話を止めると、羽多野はにやりと笑う。
「つまり、できないと」
「そうは言ってません。何度かしてもらったことは……あ」
思わず言い返しかけて、すんでのところで言葉を止めた。いや、勘の良い羽多野の前ではここまで口にすればすべて明かしたも同然なので、「すんでのところ」どころか「致命傷」なのかもしれない。栄は赤面した。
案の定、嫌な笑いを浮かべたままで羽多野は勝手に言葉の続きを補う。
「ふうん、咥えられるのはいいけど逆はだめってことか。とはいえ意外と普通にセックスできてたんじゃないか。もっとあれも嫌これも嫌って感じかと思ってたけど」
羽多野の想像はあながち間違っているわけでもない。出会いの場所で即物的に肉体関係を求める人々に嫌悪感を募らせて帰ってきたのも、普段は飲み物の回し飲みすらしたくないことも、満員電車で生身の肌が触れあうことに抵抗があって夏場でも仕事に行く際は決して半袖シャツを着ないことも、どれも栄のこだわりゆえで、だからこそ恋愛にも慎重にならざるを得なかった。
だからこそその心理的障壁を越えようと思えた尚人は――。
「だってナオは……」
「特別だったから?」
割り込んでくる言葉には、ほんのわずかではあるが苛立ちが混じる。いつのまにか羽多野の顔からは笑みが消え、呆れたように続ける。
「いくら君にとって尚人くんが特別だろうと彼はもう戻らないし、そうやって『ナオは、ナオだけは』って言っている限り、谷口くんは一歩も前に進めない」
「知ってますよ。別にやり直したいわけじゃないって言ってるでしょう。しつこいですね。大体朝っぱらからどうしてこんな話を……」
苛立ちと苛立ちの応酬を止めたのは羽多野だった。栄の反論を遮るように手を伸ばし、その指先が唇に触れる。
「何するんですかっ」
またからかわれている。そう感じた栄が身をよじってその手を避けようとするが、意外にも羽多野は強い口調で続けた。
「ちょっと我慢して」
指先がつうっと唇を撫でる。
「尚人くん以外からだと、こうやって触られるだけでも耐えがたい?」
「き、気持ち悪いです」
相手があなただと格別に、という毒は飲み込む。コーヒーを淹れるときに豆が指先に触れたのか、羽多野の指先からは香ばしい香りがした。
率直な拒否の言葉に、しかし羽多野は手のひらを栄の頬に滑らせ、親指だけで上下の唇を押し開ける。内科診療で喉の腫れを看ようとする医師がするような仕草。正直あれも苦手だ。
「ちょっと……」
さすがにこれ以上エスカレートされてはたまらないと羽多野の手首をつかむ。だが、なぜだか相手も譲らない。
「別にキスしろとかあそこを舐めろとかとか言ってるわけじゃない、ただの指だろ」
そう言われるとつい黙ってしまうのは、プライドと劣等感のせいだ。羽多野の言葉は常に詭弁だとわかっているのに、絶妙に心の弱い部分をくすぐってくるから栄は何が当たり前でどこから異常なのかがわからなくなる。
「ちゃんと自覚しているようだが、君が前に進むにはこれまでと違うことを受け入れていかなきゃいけない。尚人くんと付き合いはじめたときはお互い子どもみたいなものだったんだろうけど、次の相手はきっとそうもいかないだろう」
つまり、恋愛やセックスについてそれなりの経験値が求められるということだ。いくら未生が奔放な男女経験があるとはいえ、尚人の反応を見る限りまだ二十歳そこそこの彼と比べても自分のセックスが拙かったことは確かで、それは栄の心を傷つけた。もし今後の恋愛でも同じことを繰り返すのだとすれば――想像するだけでぞっとする。
嫌な想像に硬直し、抵抗の力が緩む。その隙を狙ったように太い指が唇の狭間から滑り込んできた。洗っていたって他人の手なんて汚い。反射的に逃げを打つ体を羽多野は柔らかく制した。
「汚いと思う?」
口に指を入れられ言葉を発することができないので、栄はこくこくと首を縦にふる。それでこの意味不明のテストは終わるかと思いきや、羽多野は指をさらに口の奥深くに押し入れる。
「……っ、やめ……」
苦しさに無理やり声を上げようとして、止めたのは下手に口を動かすと唾液がこぼれそうになることに気づいたからだ。こういう状況でもなおみっともない姿をさらしたくないと思うのは本能のようなもので、きっと羽多野にも見抜かれている。
口の中に触れる指。キスでも口淫でもないと主張されたところで、その動きは限りなく性的だ。歯列を、歯茎を撫でて頬の内側を滑り粘膜のすべてを確かめようとする指。もしかしたら稚拙に舌を絡め合うキスなんかよりも、よっぽど。
「……ん」
両腕で胸板を押し返し、なんならその手を噛んでやろうと試みるが、指の付け根の固い部分に引っかかり、少し力を加えるくらいではどうにもならない。
何もしない、といっておきながらこれだ。内心で抱えている不安をあおられて、常識が揺らいで、いつのまにか相手の手のひらで踊らされている。
「大丈夫、すぐに慣れるから」
親指の腹がすりすりと口蓋をなでる。ぞくりと寒気に似た快感が背中を走り抜けて、栄は体を震わせた。
「……っ」
さすがにもう限界だ。羽多野の胸を押し、動かないので拳で叩く。たまらず声をあげようとして、みっともなく唾液が口の端から伝うのがわかった。だがもう、そんなことに構ってはいられない。
解放は突然だった。はじめたとき以上に唐突に羽多野は栄の口から指を抜いた。
「あ……」
無理やり開かれていた顎が急に楽になり、残るのは間抜けに口を開けよだれを垂らす自分の姿。羽多野は栄の顎を伝う唾液を指で拭うと、当然のようにそれを舐めて笑った。
「ほら、指くらい大丈夫だろ。吐きもしないし、正直ちょっとくらいは気持ちいいって思ったんじゃないの」
「そんなことありません」
強引に口の中に手を入れられたこと、乱暴な言葉、唾液を舐められたこと。正直どこから文句を言えばいいのかわからないくらい要素だらけで、とりあえず一言ですべての否定を試みる。すると羽多野はわざとらしく首を傾げて見せた。
「まじで? 口の中って性感帯なのに、何も感じない方が問題だと思うけど」
栄は再び硬直する。
「第一さ、職場でも公衆の面前でもないのに谷口くんって何に格好つけてんの? キスもセックスも気取ってお上品にやるもんじゃないだろ。もっと本能剥き出しにっていうかさあ」
「……」
「そういうとこ、本当は自分でも気にしてるくせに」
ぐうの音も出なかった。唯一不満があるとすればなぜ指摘するのがこの男で、当然のように栄を矯正する権利を主張しているのかということだ。
だが羽多野の言うとおり、三年後に帰国した栄はもう三十代半ばが見えている。それなりに世慣れて経験を積んでいておかしくない年頃で、今のままというのはやはり――。
さっき羽多野は宿泊代としてリハビリの相手役を買って出るといった。気に食わない相手だが、栄の性的志向を知っている数少ない人間ではある。ただ問題があるとすればあまりに自分勝手で、栄の意図や希望と関係のない行動を取りがちだということだ。
手の甲で口を拭い、息を整えながら考える。まだ舌には羽多野の太い指の感触が残っているような気がした。そして栄は結論を出す。
「……わかりました。宿泊代として、俺はあなたを利用していいんですね。尚人以外の人間との生活や接触に慣れるために」
「悪い話じゃないと思うけど」
そう思っているのは多分羽多野だけだ。栄としては他の選択肢があるのならば是非ともそちらに賭けたい。ただ偶然にもここが慣れない異国の地で、思うようなリハビリ相手も他にいないからやむを得ずこの男の申し出に乗るというだけで。
「いい話でもないですけど、状況的に仕方ないです」
「つまり?」
柄にもなく羽多野はわくわくする子どものような表情で身を乗り出してくる。栄をここまで追い詰めたことが面白くてしかたないのだろうか。だがこちらだってそう簡単に思い通りにはなるものか。栄にだって絶対に譲れない一線はある。
「その話、乗ります。ただし条件があります。俺は人に組み敷かれるのは嫌いです。指図されるのも見下されるのも、いいようにあしらわれるのも全部大嫌いです」
「知ってるよ。そのいい性格を外向けにはひた隠しにしてるってこともな」
後半は余計だが、そこに突っかかっていると話が進まないの。とりあえず今は聞かなかったことにして、栄はおもむろに羽多野の鼻先に人差し指を突きつけた。
「だから、昨日みたいに勝手なことは絶対にしないでください。何かするにしたって、俺がいいと言ったことを俺のペースで。押し倒すとか無理やりとかは論外です」
「細かいなあ。要するに谷口くん、俺にやられるんじゃないか心配してるってこと? 尻には触るなって?」
あまりに露骨な言葉に顔が熱くなるが、つまりのところはそういうことだ。
今後の人生のためにも尚人以外の人間に触れたり触れられたりする経験を多少積んでおくことが必要だというのは、栄も理解している。羽多野の言うとおり「出すもの出して」ベッドに入れば深い眠りが得られるのも事実だ。だが、昨日の様なやり方は我慢ならないし、何よりあの調子だと羽多野はいつか栄の後ろに触れそうな、そんな恐怖すら感じたのだ。
「もちろんそんな真似するようなら全力で報復します。昨日は気を抜いていたけど俺だって別に非力なわけじゃない」
男同士のセックスで下になる方を見下すつもりはないが、かといって自分がそれに耐えられるかといえば答えはノーだ。栄はいつだってコントロールする側だし、上下があるなら常に上に立つ側なのだと信じて生きてきた。たとえ相手が不遜この上ない羽多野だろうが、それは変わらない。
もちろんこの可愛げのかけらもない男を抱きたいかといえば、まったくそんな気にはなれないので、羽多野とセックスという選択肢はない。だが多少触れたり触れられたりしてリハビリ兼性欲解消ということならば――。
「はいはい。要するに俺が君の言うがままにご奉仕するだけならいいですよってことね。ったく、本当にとことん負けず嫌いだな」
言い方は悪いがそういうことになるかもしれない。いくらか呆れた様子の羽多野に、栄は不承不承うなずいた。
「利用しろって言ったのはそっちじゃないですか」
もしかしたら勢いに任せてとんでもない契約をしているのかもしれない。そんな不安もよぎる中、しかしもはや栄は引き返せないところまできていた。