「谷口先生、今日は、わざわざありがとうございました」
うやうやしく頭を下げてくる壮年の男に、栄もあわてて礼をする。
「先生なんて、やめてください。ただ久しぶりに体を動かしたくて参加させてもらっただけで」
やや薄くなった栗色の頭髪やライトブラウンの瞳を見ればいかにもな英国人ではあるのだが、目の前の男は躾のなっていないいまどきの日本の若者――例えば笠井未生のような――と比べてもよっぽど礼儀正しい。
日本に留学してそのまま十年ほど働いていたという男は、イギリスに帰国してからも定期的に日本に稽古に通いながらここロンドンで剣道教室を主宰しているのだという。とはいっても段位は持っておらず、会社勤めをしながら週に一度だけ近所の体育館を借りているのだという話からしても、道場というよりはサークルに近い雰囲気なのかもしれない。
十人強の生徒のうち半数ほどが日本で暮らしたことがあり、残りは何らかの理由で剣道に関心を持って道場の門を叩いたイギリス人たちだ。
以 前イギリス人の集まる剣道グループを紹介してやると言っていた久保村が、代表者と連絡が取れたからと稽古場の住所と連絡先を知らせてきたのは三日ほど前のことだ。見知らぬ、しかも現地の人間ばかりの中に飛び込むことには戸惑いもあったが、代表者は日本語が堪能だと聞いたこともあり思い切って勇気を出した。
「急に参加させてほしいなんて、本当は迷惑だったんじゃないですか? 久保村さんの手前断りづらかったとか」
「まさか、本場の有段者なんていつだって大歓迎ですよ。中心部や西ロンドンだと日本の方が多い道場もあるんですが、皆さん普通はわざわざこんなところまで来てくれませんから」
確かに、ここまで来るのは思ったより大変だった。ロンドンの地下鉄は中心部を「ゾーン1」として、郊外に向かうにつれ同心円状に「ゾーン2」「ゾーン3」……と区切られている。ゾーンをまたぐごとに運賃が高くなる仕組みだ。
栄の普段の生活はほとんどがゾーン1でおさまるし、多少遠出したところでゾーン2を出るようなことはまずない。このグループが活動している東ロンドンの外れなど正直足を踏み入れたこともなかった。ロンドンでも比較的中心部や西側に住む傾向がある外交官や駐在員がここにやって来ないというのも理解できる話だ。
「でも、驚きましたよ。現地の方だけで稽古している場所があるなんて。日本でも最近は剣道の人気は低下傾向ですから。重い防具は必要だし、汗臭くて格好悪いとなれば若い人が敬遠するのもわかるんですけどね」
「大人になっても剣道を続けるような人はさらに少ないみたいですね。ただ、やはり剣道は日本人が強いですよ。こちらでもささやかながら大会があって、団体戦に出たりもしますが、強いチームには大体日本人がいますから」
規模も小さく場所も便利ではないが良かったらまた来てくれと言われ、栄は良い気分で練習場を後にした。他の生徒たちは近所のパブで一杯飲んで帰るのが恒例らしく栄も誘われたが、翌日も仕事があることを考え固辞した。
英語でのいわゆる「日常会話」が苦手な栄だが、剣道という共通の目的があって集まる場であれば比較的話に入りやすかった。日本在住経験のあるメンバーは巧拙はあれど多少の日本語が話せるし、何より周囲に日本人がいない環境だと人目を気にせずにすむ。
奇妙な心理ではあるが、周囲に日本人がいるとどうしても自分の英語が彼らにどう思われるか、みっともないと思われたり見下されたりしないかばかりが気になって口数が少なくなってしまう。一方今日のように自分ひとりだとあきらめてしまえば不思議と恥の意識も和らいだ。
何より彼らは栄の英語が多少拙くても、「日本人の有段者」というだけで一目おいてくれる。完璧な英語でなくとも、手を差し伸べて姿勢を直してやり手本の姿を見せればそれだけで多くのことも伝わった。
場所の問題や、稽古が平日夕方であるため仕事との兼ね合いもあるが、できれば今後も通いたい、そんなことを考えながら最近になく明るい気分で栄は帰路についた。
「おかえり」
自宅に帰り着くと、羽多野が玄関先まで出てきた。
無償で宿を提供する代わりに羽多野は栄の言うことをきく――そんな契約を交わして以来、この居候は本人なりに役割を果たそうとしているように見える。茶化すように「王子と使用人だから」と言われれば馬鹿にされている気もするが、かしずかれることはまんざらでもない。
今日は剣道に行くから帰宅が遅くなるということは事前に伝えてあった。巨大な防具袋を背負って長い距離を移動したので栄の肩も限界で、重い荷物をその場に下ろす。荷物を運ぶのは使用人の務めだと認識したのか羽多野は黒い大きなバッグに手を伸ばし「うわ、重」と声を上げた。
「防具と道着合わせて6、7キロくらいはあると思います」
最近はキャリーバッグタイプもあるようだが、就職して以来道場に通う回数が激減し、数少ない機会には横着してタクシーを使ってばかりだった栄は大学時代使っていたままの用具袋をこちらに持ってきた。当然車輪などという便利なものは付いておらず、持ち上げるしかない。
「へえ、じゃあ腰にも気を付けなきゃいけないな」
具体的な重量を聞かされた羽多野はそう言って姿勢を改めた。
「それ、俺の部屋の入り口に置いておいてくれればいいですから」
ぎっくり腰のことを言いたいのか、もっと何か下ネタ的なことが言いたいのかわからないのであえて聞き返すことはせずバッグの運び先を指示すると、栄は羽多野を置いてバスルームに向かった。
すっかり秋も深まったとはいえ、厚手の道着に防具を付けて体を動かせば汗をかく。しかし剣道の練習のため借りている小さな体育館にはシャワーの数も限られていた。順番を待つのも億劫だし、あまり掃除も行き届いていないシャワーブースを使うのも気が進まず、栄はタオルで体を拭うだけに留めて帰ってきた。
道着の下にはTシャツを着ていたものの、荷物を増やしたくないので余計な着替えは持って行かなかった。帰りは再び仕事用のスーツを着て帰ったが、汗をかいた肌にワイシャツが張り付いて気持ち悪い。運動で汗をかく爽快感はすでに肌がべとつく不快感へと変わっていた。
アンダーシャツを着れば少しはマシなのだろうが、日本と違ってこちらの人間はワイシャツの下に何かを着るということをほとんどしない。素肌にそのままシャツを着ている人と比べれば、いくら肌色のものを選んでもアンダーシャツを着た場合のシルエットはもたつく。そのことに気づいて以来栄も素肌にそのままシャツを羽織るようになった。湿気が少なく夏でも発汗は少ないので、普段ならばそれで問題ないところだが、今日に限っては失敗だった。
服を脱いでいると、廊下から声がする。
「何か手伝う? 背中流すとか」
栄はあわてて内鍵を確認する。この国のバスルームは、広めの空間に風呂場と洗面台とトイレが一緒になっている。栄の衛生観念からすればトイレと風呂場が同じ空間にあるというのも歓迎できないし、何よりこんなふうにドア一枚隔てたところまで他人がやってきてしまうというのは大きなデメリットだ。とりわけ――相手が羽多野であれば。
「いりません! っていうか落ち着かないから風呂に入ってるときに話しかけないでくださいって言ってるでしょう」
羽多野にとっては三助も使用人の仕事に含まれるらしく、たびたび栄の入浴中にこうして声を掛けてくる。もし冗談ででも「頼む」と言えば遠慮なしに踏み込んでくるのは確実で、だから毎度この不毛なやり取りを繰り広げることになる。
「あ、そう。じゃあ飯は? 食ってきたの?」
栄が断ればしつこいことはしない、というのはあの日以降のちょっとした変化で、今日も一度拒絶すれば羽多野はあっさりと引いた。
「……食べます」
食事の準備も平日は羽多野が率先して行うようになり、生活面でも役には立っている。あとの問題は――羽多野をここに置くことにした一番の目的について、栄が方向性を決めきれていないことくらいだろうか。
足音が消えるのを待ってから全裸になり、シャワーを浴びながら湯船に湯を張る。久しぶりで体がなまっていたことに加え、こちらで剣道をやっている人間の動きはローカライズされていて予測しづらい。栄の知る剣道とは異なるチャンバラのような動きをする生徒もいて、不覚にも何度か胴を激しく打たれた。
裸の脇腹を確かめると薄赤くなっているだけでまだ痛みも出ていないが、明日になればきっと青あざになっているだろう。熱心に剣道に取り組んでいた学生時代はあざや、防具のない場所のミミズ腫れなどいつも生傷が絶えなかった。そんなことを思い出せば、歓迎すべきではないはずの痛みすら懐かしくて思わず笑みが込み上げた。