第25話

 栄が風呂から上がると、羽多野はキッチンに立っていた。リビングには肉の焼ける芳しいにおいが漂い、急に空腹を感じはじめる。我ながら現金だがこういうときには羽多野を置いてやって良かったと思わないでもない。

 羽多野はちょうどフライパンから肉を下ろすところだった。しばらく休ませるとちょうどいい加減に火が通るのだと知ったようなことを言って肉をアルミホイルに包む。どうやら夕食にありつけるまではもう少々かかりそうだ。

 乾ききっていない髪を拭いながら冷蔵庫の扉を開け、少し迷ってから栄は水を手にする。先日の失態以降、酒は控えているのだ。もちろんたかがビール一本くらいで正体を失うまで酔うことはないが、羽多野と酒を飲むたびに弱みが増えていく気がするから精一杯の警戒はしておく。

「飲まないの?」

 迷いを見透かしたように問いかけられると体裁が悪い。すぐさま栄は別の言い訳を口にする。

「せっかく健康的に体を動かした後だから、やめておきます」

「そういうときのビールこそ美味いのに」

 栄は横目でちらりと羽多野の姿を再確認する。ベッドで押し倒されたとき、栄は下を脱がされシャツも胸元まではだけられたが、一方の羽多野は服を着こんだまま涼しい顔をしていた。衣類越しでは腹が出ているようには見えないが、栄の目から見ても日々の酒量はなかなかのものだ。

「……体形とか健康は気になりません?」

 視線に気づいたように羽多野は服の上から自らの腹部に触れた。

「俺の腹が出てたら、谷口くんはがっかりする?」

 まさか、がっかりなんてしない。ただ滑稽だと思うだけだ。とはいえこういう切り返しをすること自体、羽多野が体形にコンプレックスを抱いていない証拠だ。それに、玄関に自分のものではないランニングシューズがあることには栄だってずいぶん前から気づいている。

「羽多野さんが中年太りしようが生活習慣病になろうが、俺は別にどうだっていいです。……でも格好つけて無頓着ぶって、実は日頃の不摂生を走ってチャラにするタイプなんでしょう?」

「なんだ、気づいてたのか。でも健康のためっていうよりは気晴らしだよ。このあたりってテムズに近くて走るのに絶好の立地だし。谷口くんもたまには一緒にランニングどう?」

 冗談じゃない。もし羽多野と走れば負けず嫌いの栄は無駄にペースを上げてしまい「軽いランニング」で済まないことは確実だ。何より栄は昔から走るのは嫌いだった。

「俺、ランニングって効率悪くて嫌いなんですよ。紫外線も体に良くないっていうし、走るよりプールの方がずっといいと思いますよ」

 楽しくもないランニングに時間をかけるならば、短い時間で運動効果の高い水泳か、単純に楽しむことのできる剣道の方がいいに決まっている。

「そういえば君は泳ぐのも好きだったんだっけ」

「好きっていうほどじゃないです。霞ヶ関で働いていると忙しくて時間がとれないから、体力維持のため一番効率のいい方法だったってだけで。面白さでいうなら剣道の方がそりゃあ断然」

 肉の準備が整ったのか羽多野が皿の準備をはじめるので、栄はテーブルにカトラリーを並べる。見たところ赤身肉の火の通り具合は絶妙で、本当ならば赤ワインの一杯くらい合わせたいところだが、運動後のアルコールを否定した手前我慢するしかない。栄はグラスに水を継ぎ足した。ひとりで飲む気にはならないのか、羽多野も酒を取り出そうとはしない。

「で、イギリス人だらけの剣道場ってどうだったんだ」

 肉を切りながら羽多野が思い出したようにたずねる。遅い時間の夕食に炭水化物を取りたがらないことは想定済みなのだろう、皿には焼いた肉と野菜。不似合いなインスタントの味噌汁にやたらと食欲をかきたてられて、栄はナイフとフォークを手にする。

「作法はちょっとおかしかったりしますけど、思ったより楽しかったです。日本人と比べてパワーのある人が多い感じですね。打たれたときの衝撃も大きいし、体当たりでは吹っ飛ばされそうになりました」

「体当たり?」

「剣道の練習風景で見たことありません? 互いに面を打ち合ってから、胴体ぶつけるやつ」

 栄にとっては当たり前すぎる「体当たり」だが、羽多野は「剣道は全然わからない」と首を振った。少年時代は古武道、学生時代にはレスリングをかじったことのあるという話だったが、剣道については「防具を付けて竹刀で殴り合う」程度の貧困なイメージしか持っていないらしい。

 剣道について深い話ができない以上、話題が妙な方向に流れるのは必然だ。肉を頬張りながら羽多野は言う。

「それにしても、谷口くんの剣道姿っていうのも一度見てみたいよな」

 どう考えても競技としての剣道や選手としての栄に関心を持っている口ぶりではない。栄はあらかじめ釘をさすことにする。

「ルールを知らない人が見たって、たいして面白いものじゃないですよ」

 すると案の定羽多野は不謹慎な笑みを浮かべた。

「いや、もちろんルールはわかんないんだけど、君の袴姿ってのもなかなか色っぽいだろうなと思って」

 結局そういう話になるのだ。栄はため息をつくしかない。第一剣道なんてむさ苦しくて汗臭いスポーツだ。何をどう勘違いしているかわからないが色気とは程遠い。

「断固お断りします。こっちは真面目に競技としてやってるんで、変な目的で道場に来られても迷惑ですよ。ったく、最近少しはおとなしくしてるかと思ったら、やっぱりろくなこと考えてないんですね」

「そう? 使用人らしく謙虚にお仕えしているつもりだけどな。あえて言うなら、うちの王子は奥ゆかしいから、なかなかご奉仕を命令してもらえないのが悩みって感じ?」

「……っ!」

 露骨な言いぶりに栄はむせそうになった。

 しかし――羽多野の指摘は事実で、あれから一週間と少々経つが、この間栄と羽多野は肉体的な接触を持っていない。

 不安を煽られた結果とはいえ、栄が羽多野をここに置くことにした本来の目的は、荷物を運ばせることでもなければ夕食を作らせることでもない。尚人しか知らず、尚人との生活しかイメージできていない自分の視野を広げて年齢にふさわしい経験値、とりわけ他人との身体的な接触への免疫をつけるためだったはずだ。

 あの日、栄は羽多野の提案を受け入れた上で強引な男への不安感から「嫌がることはせず、栄の言うことを聞くこと」という条件を付け、羽多野はそれを受け入れた。自分の言い分が通ったことにいい気になっていた栄だが、それが諸刃の剣だということに気づいたのは数日が経ってからだ。

 栄が望まないことや嫌がることはしないという約束を羽多野が守るというのはつまり、こちらから指示しないことには羽多野は栄に触れてこないということになる。もちろんこのあいだのように無理やり押し倒されるのは問題外だ。だが、自分から要望を出さなければ羽多野が動かないというのも、それはそれでややこしい。

 こうしてただ毎日家事を押し付けているだけでは本来の目的は果たせないし、羽多野がやがて帰国する身であることを思えばずっと悠長にしているわけにもいかない。屋根を貸してやった見返りを得ないのは癪だが、かといって何をどこから「練習」すればいいのかもわからないのだ。

 そもそも問題は羽多野が栄にとっては好みのタイプではないことで、こんな男に押し倒されたくはないが押し倒したくもない。馴染みのない異国でちょっとした孤独感に苛まれながら何の因果か目の前にいるのはこの男だけ。自分の置かれた状況について考えると栄は、以前テレビで見たジャイアントパンダのドキュメンタリーを思い出す。

 どこかの動物園で、雌と雄それぞれ一頭ずつしかいないジャイアントパンダ。飼育員たちはいかに二頭を繁殖させるかで頭がいっぱいで、あらゆる手でつがわせようとするが、なかなか上手くいかない。思うにあのパンダは互いに好みのタイプではなかったのではないか。野生であれば交尾相手を選ぶ余地もあるだろうが、よりによって彼らの狭い世界には互いしかいないのだ。見ていて哀れな気持ちになったことを記憶している。

 さすがに周囲から番いのプレッシャーをかけられるパンダほどではないが、年齢的にも状況的にも差し迫る中で、頼る相手が羽多野だけというのもやるせない。そんな迷いを抱えている最中だったからか、食後に羽多野が冗談めかして「肩でも揉みましょうか」と声をかけてきたときに、栄は一瞬答えをためらった。