第27話

「谷口さん、最近調子良さそうですね」

 トーマスから声をかけられ栄はキーボードを打つ手を止める。唐突すぎる質問だが、怪訝な気持ちで振り向くと栗色の髪の青年は含意ゼロの笑顔を浮かべていた。

「調子……?」

「はい、顔色も良いし表情から険が取れたというか。前は一日中眉間にしわを寄せてパソコンを眺めているか、死地に赴く兵隊みたいな顔で外出するかでしたから」

 自信たっぷりの答えに、自分の顔色を確認したくなる。が、手元に鏡はないので代わりにスマートフォンのスリープ画面に顔を映してみた。

 画面が真っ黒いので色艶はわからないが、栄の目には以前も今も変わらず三十過ぎの日本人男性としては申し分のない男前の顔が映っているように見える。だがトーマスから見て以前の栄はそんなひどい顔をしていたというのだろうか。職場では不機嫌もプレッシャーもできるだけ顔に出さないようにしてきたつもりなので、指摘を受けたこと自体に複雑な気分にはなる。

「……トーマスは、非ネイティブとは思えないような凝った言い回しをするよな」

「私の夢は駐英日本大使のスピーチライターになることですから、日本語の研鑽は欠かしません」

 胸を張る若者に対しては、もはや嫉妬の念も浮かばない。もう一度、黒い画面に映る自分の顔を眺め、眉間に皺が寄らないよう指先でぐりぐりとそこをマッサージしてみた。

 実のところ、調子がいいという指摘はあながち間違ってはいない。最近は以前と比べると、仕事と私生活の線引きははっきりしている。家には部外者の男がいるので機密に関する仕事は持ち帰れないというのが理由のひとつ。もうひとつは、語学に関する軽微な悩みについて相談する相手ができたことだ。

 英語の新聞や文献を読んでいて意味がはっきりとわからない部分や録音を何度聞き返してもわからない講演について、最近の栄は羽多野の手を借りるようになっていた。完全に心の整理ができているわけではないものの、自分には羽多野を利用する権利があるのだと割り切ってからは、質問や頼みごとをすることへの抵抗は以前ほどはなくなった。

 もちろん情報セキュリティ上差し障ることは羽多野を頼れないが、日本に送る情報のうち一定程度はイギリスの政府公表資料や報道内容をわかりやすくまとめたもので、その中に機密は含まれない。いくら考えても答えの出ないことをひとりで考え続けるよりは語学に長じた男の手を借りるほうがよっぽど効率はいい。

 だが、そういった事情を同僚たちに打ち明けるつもりはない。いまだに居候を家に置いていることも、その居候に英語のサポートを頼っていることも知られたくないというのは、相変わらずのつまらない栄のプライドだ。

「もしかしたら、やっと少しはこっちの環境に慣れてきたのかも」

 当たり障りのない答えで再び作業に戻ろうとしたところで、今度は執務室の扉が開いた。

「お疲れさまです。谷口さんいますか?」

 その声は防衛駐在官の長尾で、相変わらず凛々しい自衛官の制服姿のまま室内に入ってくる。どうやら今日の午後の栄は集中して仕事させてもらえない運命らしい。

「長尾さん、どうしたんですか?」

 栄はデスクの横にある丸椅子を長尾に勧めた。出くわせば立ち話をするしたまにランチや飲みに出かける関係ではあるが、業務範囲が異なっているので仕事で直接絡むことは少ない。執務時間中に長尾がわざわざ栄のデスクまで訪ねてくるのも珍しく思えた。

 長尾は椅子に座ると、人懐こい笑みを浮かべる。

「そういえば久保村さんから聞きましたけど、谷口さんは剣道やるんですか? こっちの道場に行ってきたとか」

 本題に入る前の世間話といった風だが、剣道の話を振られればまんざらでもない。数日前に行ってきた英国人ばかりの剣道場がいかに興味深かったかを栄はとうとうと話して効かせた。そのうちにふと疑問が湧き上がる。

「長尾さんは武道はやらないんですか? 剣道とか柔道とか……そういうのって自衛官はないんでしたっけ」

 社会人剣道の世界で圧倒的な勢力を誇るのが警察だ。何しろ警察だけで全国大会を持っていて、しかもそのレベルは非常に高い。逮捕術として磨かれた剣道は栄たちのようなスポーツとしての剣道より激しく実践的で、その迫力には圧倒されるほどだ。警察官でそれなのだから、自衛官など本気で武道をやればよっぽど強そうにも思えるが、長尾は笑いながら首を振った。

「個人でやってる人はいますけど、自衛隊は訓練としての柔剣道はないんです。僕らの場合本当に白兵戦用ですから、逮捕術よりももっと戦闘的というか……」

 白兵戦用の武術というのがどのようなものなのかよくわからないが、栄の目から見れば十分戦闘的に見える警察官の剣道が子供騙しに見えるくらいなのだと想像するとぞっとした。しかし、そんな気持ちを知ってか知らずか長尾は相変わらず人の良い笑顔を浮かべている。

「で、用事って?」

 しばらく剣道談義を続けてようやく話題を本題に戻す。趣味の話だとつい夢中になってしまうが、今は業務時間中。あまり雑談に時間を取られるわけにはいかない。すると長尾も「ああ、そうでした」と改めて切り出す。

「いや、ちょっと相談があって。……前に飲みに行こうって言ってそのままになってたじゃないですか」

 そういえばそんなこともあった。確か羽多野が転がり込んでくる少し前だったか、「来週にでも」と立ち話をしてそのままになっていた。

「ええ」

 栄は相槌を打つが、そんな社交辞令を思い出したくらいでわざわざ業務時間中にここまでやってくるというのも奇妙な話だ。だが、そのまま長尾の話の続きを聞くうちに一応仕事に関係のある話であることはわかった。

「今度、元上司が出張に来るんですけど、夕食の店ぶっつけだと心配なんで一度偵察に行こうかなって。飲みの代わりといっちゃなんですけど、金曜にでも谷口さんも一緒にどうですか?」

 日本からの出張者が希望すれば、宿泊や食事などの手配や案内をするのも大使館員の務めだ。今どきの出張はスケジュールもギリギリで組まれるのが当然で、自由時間などほとんどない。ともすれば慌ただしい滞在の中で食事が唯一現地を楽しめる機会ということにもなる。夕食の店選びでアタッシェの力量が判断されると言っても決して言い過ぎではないはずだ。

 大使館内で評価の定まった手堅く定番の店を使う方法もあるし、どうせ割り勘で同行するのならと自分好みの店を勧める手もある。そのあたりは各自の性格やサービス精神によるところも大きい。長尾はここのところ出張対応が多く定番の店に飽きてしまい、新たな店を開拓しようと思い立ったのだという。

「行きたいです。実は、俺もちょうど店を探しているところだったんですよ」

 栄はそう即答した。実は、栄の側も元上司の友安が来月会議出席のため渡英してくる予定になっていた。栄は別件が入っているため地方都市での会議に同行はしないものの、ロンドンで一緒に食事をする約束をしている。冗談か本気かはわからないが「イギリスだからって不味い店に連れて行くんじゃないぞ」と脅しめいたメールが届いたのはちょうど今日の午前中のことだ。どこか良い店を探さなければと思っていたところなので、長尾の誘いは渡りに船だ。

 長尾は栄の返事を聞くや否やポケットから四つ折りのコピー用紙を取り出す。どうやらすでに目当ての店の予約を取って、後付けで付き合ってくれる人間を探していたらしい。

「いいなあ」

 ぽつりとつぶやくトーマスに、長尾が振り向いた。

「トーマスも行くか? ひとりくらいなら席が増やせるかもしれないし」

 しかし青年はあっさり断りの言葉を口にする。

「残念ながら、金曜日は恋人とデートの予定です」

 栄もトーマスの恋人とは一度会ったことがある。確か看護師だと言っていたが、すらっと背の高いモデルのような美女だったことを思い出すと、自分が同性愛者であることとは別問題として男としての嫉妬が湧き上がる。

 長尾も同じように感じたようで「くそ、自慢かよ」と笑いながらトーマスを小突くジェスチャーをしてみせた。

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