第28話

「そういうわけで金曜は食事済ませてくるので、羽多野さんも勝手に食ってください」

「わかった」

 長尾との夕食の予定が入ったことを栄が告げると、羽多野はうなずきながらテーブルに置いた紙を手に手を伸ばす。店のウェブサイトをプリントアウトしたものには店の概要や連絡先、地図が書いてある。

 その店は人気シェフが新しく開いた店で、ミシュラン一つ星で値段の張る本店よりは雰囲気値段ともにカジュアルなのだという。どおりでトーマスが羨ましがるわけで、美味ければ今度恋人と行きたいので、是非感想を教えてくれと念を押された。

 栄は床に座って持ち帰った仕事を片付けている途中で、羽多野はその背後、一段高いカウチに座ってプリントアウトを眺めているようだった。栄は仕事中はテレビや音楽はかけない主義で、それは尚人がいようと羽多野がいようと変わらない。

「この店、テレビで見たことあるな。モダン・ブリティッシュ・キュイジーヌの若手注目シェフが云々って」

「……へえ」

 背後から聞こえてくる雑音に、栄は床に座ってラップトップのキーボードを叩きながら適当に相槌を打つ。栄にはそんな番組を観た覚えはない。とうとうやることもなくなって昼間からのんきにテレビを観ているのかと思うと、羨望よりも呆れた気持ちが勝る。だがそんな指摘をするよりは今は仕事を進めたい。

 再来週、やりとりのある英国人に政策説明を求められているのだが、日本に関連資料を問い合わせたところ日本語のものしかなかった。つまり、自力で翻訳するしかない。以前ならば仕事を持ち帰った際は羽多野の目を避け寝室にこもっていたが、最近はリビングで作業をすることが増えた。男の存在自体は目障りだが、翻訳で詰まったときにすぐに聞くことができる手軽さには変えられない。

 しばらくは沈黙。カタカタと栄がキーボードを叩く音だけがリビングに響くが、やがて羽多野が再び口を開く。

「いいなあ、俺が寂しくテイクアウェイのカレー食ってるときに、谷口くんは小洒落たレストランで自衛官とディナーか」

 わざとらしく哀愁を漂わせた言い方が嫌味っぽいし、あえて仕事をしている栄の邪魔をしてまで訴えるような内容とは思えない。意地でも手を止めたくなくて、目はディスプレイに向けたまま返す。

「……出張者対応の下見だから半分仕事ですよ? いいもの食べたければそっちだって、カレーなんか買って来ずに好きに出歩けばいいじゃないですか。どうせ暇を持て余してるんでしょう」

「それはそうなんだけど」

 ストレートな嫌味におとなしく引いたように見えた羽多野だが、再び考え込むような間を置いてから、今度は意味のわからない質問を投げてくる。

「で、その自衛官ってイケメンなの?」

「は?」

 思わず手が止まるが、それでも栄は振り向くことをせずなんとか挑発をやりすごそうとした。どうせまたいつもの悪ふざけだ。ここで振り向けば羽多野の思う壺だとわかっている。だが、羽多野はさらに追い討ちをかけた。

「だって、わざわざ週末の夜を狙って谷口くんを誘ってくるってことは、一緒に行ってくれる家族もいないってことだろ。独り身の自衛官の男って、そっちの世界じゃ人気株なんじゃないのか」

 さすがに聞き捨てならず、栄は振り返った。職場の同僚まで巻き込んでのからかいは、いくらなんでも悪趣味すぎる。

「変なことを言わないでください。ただの同僚ですし、長尾さんはそういうんじゃないです」

 噛みつくように言い返しながら羽多野をにらみつけると、意外にも、いつもの意地の悪い笑みではなくどことなく面白くなさそうな表情を浮かべている。

「そういうんじゃないって言うけど、本人に確認したわけ?」

「してないですけど、見ればわかります」

 すると羽多野は低い場所にいる栄を見下ろしながら、ひとつため息をついて見せた。

「君は頭も察しもいい方だが、色恋方面そっちに限ってはあてにならない」

 明らかに馬鹿にされている。「使用人」を自称するようになってからはこの手の言動は控えめだったが、一体何が面白くないというのだろう。そんなに有名シェフの店に行くのが妬ましいのだろうか。

 確かに羽多野の見立てどおり長尾は独身だし、明るく気さくな性格や一見して逞しい体に魅力を感じる同性愛者は多いだろう。だがそれもステレオタイプのようなもので、栄はあの手のいかにも同性にモテますというタイプは好みではない。前に付き合っていた相手が尚人だという時点でわかりそうなものではあるのだが。

「もし俺の見立てが違ってたとしても羽多野さんには関係ないし、俺は仕事関係の人にそういう気持ちを持ったりはしません」

「あっそ。君がそう言うならいいんだけどさ」

 栄がきっぱり言い切ると羽多野はそこで引いたが、どことなく気持ち悪い気持ちは残る。そもそも何に引っかかっているのかわからないし、勝手に突っかかられて勝手に納得されてもすっきりしない。すっかり仕事をする気を削がれた栄はラップトップを閉じた。

 羽多野の言葉を反芻して「そっちの」という言葉を少しだけ気にする。まるで自分は違うとでもいわんばかりの言い方。あんな風に人に触れて、スキンシップの練習に付き合うなど言い出して、しかしやはり羽多野は「こちら」ではないのだろうか。

 偏見だとわかってはいるのだが、両刀バイはあまり信用できないというのが栄の持論だ。もしも女を抱くことができていれば、他ならぬ栄自身が世間体のためにでも結婚して子どもを設けていたに違いないだけに、他人も同じで最後は女を選ぶのだろうと決めつけてしまう。羽多野との関係では問題にならないことではあるが、人間としての不信感は増す。

 そんな気持ちには気づいていないどころか、栄が仕事を中断したのが自分のせいだと言うこともわかっていないのだろう。羽多野はさっきまで感じの悪い絡み方をしてきていたのを忘れたかのように背後から栄の肩をつつく。

「薬、塗る?」

 栄は自らシャツの裾をめくって患部を確かめる。脇腹の脇腹から背中にかけて奇妙な模様を描くあざの中心はまだ痛々しく黒いが、周囲はだいぶ色が薄くなってきている。

「だいぶ痛みも和らいできたし、端の方は黄色くなってきました」

 赤から紫、黒ずんで、黄色っぽくなって消えるのが内出血というもので、要するにだいぶ治ってきたということになる。ドラッグストアに行ったが日本のような貼るタイプの湿布は見つけられなかったので、消炎クリームを買ってきて朝晩塗っている。もちろん背中側の手の届きにくいところには、この不愉快な「使用人」が役に立った。

 とはいえ当初は身動きするだけで痛かったあざも、今では強く押さえない限りはなんともない。まだ薬が必要かは微妙なところだ。むしろ今一番の問題は――。

「それより、これが消えるまで泳ぎに行けないのは困るんですよね」

「あー、変なプレイの跡と思われるとか」

 下品なツッコミは無視して、栄は自分のあざを改めて確認する。世の中羽多野のように品のない男ばかりではないとはいえ、あざだらけの東洋人の男が泳いでいるのはきっと不審がられる。あと一週間、いや二週間くらいはジムもお預けだろうか。

「今日もちらっと見て、長尾さん引いてましたもん」

 半ばひとり言のように口にすると、再び羽多野が「長尾」という名前に反応した。

「見せたの? シャツ脱いで?」

「ちょっとめくっただけですよ。あざだらけだって言ったら、どんな感じかって言うから」

 栄からすれば、生傷に慣れているはずの自衛隊員にも引かれるようなあざを作るほど自分の剣道技術が鈍っていたことが何よりもショックだった。だが羽多野は全然別のことを気にしているようだ。

「へえ、見せたんだ」

 意味ありげな視線をしつこく向けられれば居心地が悪くなり、栄はシャツを下ろす。薬を塗ってもらうつもりだったが、完全にその気は失せた。

「なんで変な顔するんですか。別におかしくないでしょう。その場に他の同僚だっていたんですから」

 露骨に不機嫌な返事をしながら栄は、なぜ自分がこんな弁明じみたことを言わなければならないのかと理不尽な気持ちでいっぱいだった。