第29話

 羽多野が一体何に不満を抱いているのか理解できないし、職場でのちょっとしたやりとりを性的な話題に結び付けられるのは、仕事への姿勢を馬鹿にされているような気すらする。あからさまに機嫌を損ねた栄をしばらくのあいだ難しい顔で見つめてから、羽多野は改まったように切り出した。

「谷口くんって、男しかだめなんだよな」

「悪いですか」

 いまさらの質問だ。何しろ羽多野には以前、女を試そうとして歓楽街を徘徊した挙句に店に入ることもできなかった現場を見られているのだ。振り返れば、目の前で過労で倒れたり酒の席で自爆する以前からこの男にはタイミング悪く惨めなところばかり見られている。それらの巡り合わせが積み重なって今に至っているのだと思うと運命を恨みたくなる。

 それにしても、なぜわざわざ今そんなことを再確認しようというのか。今日の羽多野はやや様子がおかしい。

「男に体を見せたり、見られたりするのって気になんないの?」

 栄の怪訝そうな表情がブレーキになるどころか、更に失礼な質問を重ねてくる始末だ。同性愛者と接した経験のないヘテロがそういった疑問を抱くこと自体はさして不思議ではないが、よりによってなぜ羽多野が、なぜ栄に。

「……そんなこと気にしてたら、やってられないですよ。いちいち恥ずかしがってるようじゃ周囲から変な奴だと思われますし」

 心底面倒くさそうに返事をすると、羽多野は身を乗り出してうなずいて見せる。

「それはそうか。君は自分の性志向については周囲に明かしてないんだもんな。それはそれで苦労も多そうだけど」

 栄は自分の中での「羽多野はおそらく女も抱く」という仮定を、「羽多野は基本的には女を抱く側の男である」と密かに修正する。でなければこんな質問してくるはずがない。

「スポーツもやってたし思春期の頃はいろいろありましたけど、今は別に、そういう対象じゃなきゃ気になりません」

 返事をしながらはるか昔のことを思い出す。今ほど自分の志向について割り切れてもいなかったし、恋愛や性にコントロールも効かなかった十代の頃は栄なりに悩みも苦労もあった。

 男子校で、しかも運動部。いくら「お上品で優等生で、ちょっと潔癖な谷口」という評価で身を守っていたとはいえ、周囲の生徒たちは無防備に目の前で裸を晒してくる。過剰に意識した態度を取れば周囲から疑われる、かといって目に入ったものをそのまま受けながせるほど十代の体は理性に従順ではない。温泉は嫌いだからと合宿ではひとりシャワーで済ませたし、着替えのときには周囲を見ないよう必死だった。そういった日々を経て、ようやく普通に振る舞うことが可能になったのだ。

 異性愛者もおそらくは同じだろう。中高生の頃はちょっとしたグラビアに反応していても、大人になれば閾値も変わる。

「普通の男だって、三十代になれば女性の裸を見たくらいでコントロールできないほど興奮はしないでしょう」

「だったら俺に見られるのは?」

「あなたは別です。ろくなことしないから」

 ぴしゃりと答えると、羽多野はわざとらしく肩を落とした。

「なんだよ、最近はちゃんと言いつけ守ってるだろ」

 それはそうだ。そして、羽多野がお行儀よく言いつけを守っていることこそが栄の悩みのタネにもなっている。望んでいないときに余計なことをして、多少羽目を外されたって構わないと思っているときにはおとなしくしている。まったく厄介な男だ。

「まあ、それは認めます。ていうか羽多野さんこそ、そもそも同性との経験はあるんですか。話を聞く限りとても『こっち』だとは思えませんけど」

 どさくさに紛れて気になっていることを問うと、羽多野はあっさりと首を縦に振る。

「それは、まあそれなりに」

 つまりそれは、羽多野は過去に男と寝たことはあるということだ。経験もない人間がわざわざちょっかいを出しては来ないだろうから案の定という気持ちが半分――そして落胆に似た気持ちが半分。なぜそんなふうに感じるのかはわからない。

 男と女ならばどちらの方が好きなのかとか、どの程度遊んできたのかとか、本当は気になることは山ほどある。しかし動揺を見透かすような笑みを向けられるとそれ以上の質問をつい飲み込んでしまう。

「気になる? 俺の過去の恋愛関係」

 まるで栄が羽多野の個人的な部分に興味を持っていると決めつけるような言い方だが、そんなことはあり得ない。栄はむきになって声を大きくした。

「気になりません! ただ、あんまり不特定多数と寝るような人とは……」

「衛生的に許せない? 大丈夫だって、病気とか持ってないから。ちゃんと谷口くんに触る前は念入りに手も洗ってるし、そもそも心配するほどの場所まで触らせてくれないじゃないか」

「……ちょっと、何やってるんですか」

 再びシャツに手を伸ばされてさらに声を荒げるが、羽多野の左手にはいつの間にか消炎クリームのチューブが握られていた。

「何って、薬」

 どうやらここ数日のルーチン通りに栄のあざに薬を塗る気でいるらしい。

 一度はその気をなくしたものの、羽多野がその気ならば、薬くらいは塗らせてやってもいい。そう思い直して栄は不機嫌な表情は崩さないまま背中側のシャツをめくった。

 チューブのキャップを外して、手のひらに絞り出すのを黙って待つ。やがてクリームを伸ばした羽多野の大きな手が背中に触れた。少し冷たい。背中に視線を感じるが、多分他意はないはずだ。

「しっかし、薄くなったとはいえなかなか派手なあざだよな。稽古に行くたびにこんなの作って帰ってくるんじゃ永遠に水着なんか無理だろう」

 脇腹を中心にいくつかのあざが重なり合い、結果として栄の肌にはロールシャッハテストのような模様ができている。風呂のとき鏡に映る体を見て自分でも気味悪く思うくらいだ。

 だが、いつまでもこの調子だとは思われたくない。一番熱心に剣道をやっていた大学時代は周囲も実力者ばかりだったので腕を中心に生傷が絶えず、夏でも半袖を着るのがはばかられた。一方で先日道場で会った面々は技術的には数段劣る。本来なら栄が圧倒しておかしくない力量の差はあるはずだった。

「勘さえ取り戻せば、あのレベルの相手にはそうそう胴なんて打たれなくなります」

「威勢いいな。君の思い通りいけばいいけど」

 すうっと肌の上を滑った手は背中から脇腹へ、そして――。

「っ!」

 指先がかすめた場所から甘い刺激が走り、栄は思わず体を震わせ息をのんだ。

「あ、悪い。痛い?」

 羽多野の手はすでに肋骨のあたりに戻っている。どうやら栄の動揺を、患部に強く触れてしまったことによる痛みだと思ったらしい。ほっとして栄はうなずいた。

「ちょっとだけ」

 もちろんそんなのは嘘だ。

 羽多野に背中を向けていたおかげで表情を見られなかったのは不幸中の幸いだ。それに――こんなの何かの間違いだ。乱雑な動きで薬剤を伸ばす指はクリームの滑りのせいで一瞬だけ胸の色づいた場所の端をかすめて――そのまま何もなかったかのように離れた。

 ここ数日、マッサージや薬の塗布という名目で繰り返される接触。その手からはあの夜のような邪な意図は感じられないのに、栄はどうしたって意識してしまう。その手が再び違う目的をもって動き出すことを警戒しつつ、それがなければこの男を置いてやっている本質的な目的は果たされないのだと毎夜逡巡して。

 一度意識してしまうと気持ちを逸らすのはむずかしい。触れられた場所すべてが熱くなったような気がして、落ち着かない感覚に栄は身じろぎする。ようやく羽多野の手のひらが離れていったときには心底ほっとした。

「よし、完了」

 ぱちんと一度背中を叩いて、羽多野は治療タイムの終了を告げた。

 薬のチューブにキャップをしてテーブルに放る男は完全に平常モードなのに、自分だけがあらぬことを考えているようで栄はひどく気まずい気分だった。

「ありがとうございます。じゃあ俺はこれで……」

「え、もう? 仕事もあるんじゃないの」

 そそくさとシャツを下ろして立ち上がる栄に、羽多野が不思議そうな表情を向ける。時刻は十一時。普段の栄はこんな時間にベッドには入らない。だが今は一刻も早くひとりになりたかった。

「ちょっと疲れたんで、先に休みます。仕事は急ぎじゃないので、また明日やります。おやすみなさい」

 テーブルの上の資料とラップトップをまとめて小脇に抱える。羽多野はそれ以上栄を引き止めようとはしなかった。代わりにリビングを後にする栄の背中に、思い出したように呼びかける。

「そういえば、最近はちゃんと眠れてるの?」

「……放っておいてください」

 質問には答えず、振り向きもせず栄は寝室に入ると内鍵をかけた。