第30話

 そして金曜日、栄は何事もなく出勤した。長尾との食事について最初に話したときはやたらと絡んできた羽多野だが、ただ虫の居所が悪かっただけなのかそれとも栄の説明に納得したのか、その後は取り立てて文句をつけるようなこともなかった。

 いつもどおりの、どことなくのんびりとした金曜の空気に異変が生じたのは、そろそろ定時が見えはじめた頃のことだった。机上の電話が鳴り、受話器を取り上げると外線は長尾からだった。

「もしもし、谷口さん? 長尾ですけど」

「どうしたんですか?」

 その声色からどことなく不穏なものを感じながら栄は問う。長尾は急性胃炎で病院に運ばれた同僚の代理で昨日からリーズに出張だと聞いていた。用件は今日の昼過ぎには終わり、食事に間に合うようにロンドンに戻る予定であると。

 声がくぐもっていることからも、きっと外からかけてきているのだろう。そして案の定、申し訳なさそうな口調で長尾は続けた。

「すみません、列車が急に止まってしまって。事故でダイヤが混乱しているらしく後続への乗り換えもいつになることか」

「え?」

 言われてみれば電話の背後にはどことなくピリピリとした人々の声が混ざる。金曜の夕方にロンドンへ向かう足が突然事故で止まり、乗客は皆困惑しているのだろう。居場所を聞く限りまだ道のりの半分も進んではおらず、比較的速やかに運行が再開されたにしてもレストランの予約時間に間に合うのは難しい。

「こちらから誘っておきながら申し訳ないんですけど、さすがにここからタクシーというわけにもいきませんし。夕食は代わりに誰かを誘うか、もしキャンセルするようだったら僕から連絡をします」

 電話口で頭を下げている長尾の姿が目に浮かぶようだった。

「いえ……鉄道事故は、長尾さんのせいではありませんから」

 反射的にそう言って長尾を慰めるが、問題は夕食の店をどうするかだ。

「お店、どうしましょうか」

 重ねて聞かれて口ごもる。本当はキャンセルしたかった。終業間近に代わりの同行者を探すというのも面倒だし、ひとりで行くというのは論外だ。だが正直な気持ちを口にしようとすれば、悪い癖――毎度の外面の良さが頭をもたげる。

 長尾が出張者を迎えるまでは、そう日程に余裕があるわけではない。本音は栄ひとりでも店に行き感想を聞かせて欲しいのだろうと想像する。そして、気づけば調子の良い言葉が口から飛び出していた。

「館内の誰かしら暇な人はいるでしょうから聞いてみます。俺の味覚がどこまで信用できるかはわかりませんが、良ければ感想だけでも週明けにお伝えしますよ」

「本当ですか? 助かります。この借りは絶対返しますんで」

「これくらいのことを貸しだなんて思いませんよ。それより気を付けて帰ってきてください」

 長尾の感謝の言葉を聞いて、その瞬間だけは自分の判断は正しかったと誇らしく思った。しかし電話を切ると一気に現実に引き戻される。

「谷口さん、どうしたの?」

 受話器を握ったまま固まっている栄を奇妙に思ったのか、久保村が声を掛けてくる。栄は期待を込めて顔を上げた。通常は家族優先の久保村だが、食への情熱は並ではない。ミシュランシェフの新店舗と聞けば付き合ってくれるかもしれない。

「長尾さんとレストランの下見に行く約束をしていたんですけど、列車が止まって間に合わないって。良かったら久保村さん行きますか? 有名シェフの店ですよ!」

 しかし久保村は残念そうに首を振る。

「すごく魅力的な話だけど、残念ながら今日は息子の誕生日なんだよ。……トーマスには聞いてみた?」

「彼女と予定があるって言ってました。参ったな、代わりを探すなんて軽く言っちゃったけど、よりによって金曜だし」

 時計を見上げると、あと五分で就業時間が終わる。週末だから皆きっと早々と引き上げていくだろう。こうして椅子に座っていても何にもならない。だが片っ端からドアをノックしてディナー相手を探す自分の姿を想像すると滑稽だ。

「領事部の女の子でも誘ったら、喜んでついてくるんじゃない?」

 腰を上げようとしない栄に、久保村が一応アドバイスらしきものを与えてくれる。だがそれは栄にとってあまり魅力的なアイデアではなかった。

「あー……」

 領事部でビザ申請を担当している若い女性職員のことを思い出す。外務省の一般職で、まだ二十代半ば。独身で人懐っこく、暇を持て余しているのか「ご飯でも遊びでも声を掛けてください」が口癖だ。久保村もそのことを覚えていたのだろう。

 もちろんいい子ではある。だが一応は独身の男である栄が他部署の若い女性をふたりきりの食事に誘うというのはどうだろう。日本で直属の部下をランチに連れて行くのとは話が違っている。それに、もしも相手に何らかの誤解を与えたら――。

 栄は多くの独身女性の目に自分自身がどう映るかを理解している。過去には女性から積極的なアプローチを受けて断るのに難儀したこともある。もちろん誰もが自分に好意を抱くと考えるほど自意識過剰ではないつもりが、狭い大使館の中でもめごとのリスクはできるだけ排除しておきたい。

 重い腰を上げた栄はいくつかのセクションを回って男性の同僚に声をかける。自分の恋愛対象は男性なのに「人からあらぬ誤解を浮かないために」女性ではなくあえて男性を誘うというのも皮肉だ。

 残念ながらあまりに急な誘いに対応できる者はおらず、じき終業時刻がやってきて人々は帰り支度をはじめた。栄が自席に戻るとすでに久保村もトーマスも姿を消している。息子の誕生日、彼女とのデート、いずれも羨ましいことこの上ない。

 ともかく栄にはもう後がなく、こうなっては最後の手段を取るしかない。それでもまだ、ふたり分で予約した席にひとりで座って食事をするよりはましだ。

 スマートフォンを取り出すと、メッセンジャーアプリから羽多野にメッセージを送る。しばらく返事を待ったが既読にすらならないことに業を煮やして電話をかけると、しばらく呼び出し音が鳴った後で応答があった。

「もしもし? どうしたの」

 羽多野は意外そうな口ぶりだ。何しろ栄は羽多野に対しては必要最小限しか連絡をしない。これまで自ら彼に電話をかけることなどほぼ皆無だった。

「……メッセージ入れたんですけど、見ました?」

「あ、ごめん気づかなかった」

 あっさりとした返事に苛立つが感情を抑えた。使用人を自称するくせにこちらからの連絡を見もしないとは――でも今は、食事に付き合わせたいという下心があるので羽多野の機嫌を損ねたくはない。

「今日のディナー、誘ってくれた人が出張から戻れなくなっちゃったんです」

「うん」

「それで席が余るので……だから」

 できることならここで、いつもの軽薄な調子で「だったら俺を連れて行ってよ」などと向こうから言い出して欲しかった。栄は一度くらいは断って見せて、それでも羽多野が食いさがるから仕方なく応じる……それが理想的なシナリオだ。

 だが、そう思い通りにいく相手ではない。本当にわかっていないのか腹芸なのか、羽多野は黙り込んだ栄に続きをうながす。

「だから?」

 仕方なく栄は自分から羽多野を誘った。

「羽多野さん、このシェフの店に行くのを羨ましがってたでしょう。まだ今夜の予定が決まっていないなら、一緒に行きますか?」

「ああ、そういうことか。いいよ、行くよ。予約は何時?」

 快諾されたことは幸いだが、予想したほど歓迎されたわけでもない。せっかく声を掛けてやったにも関わらず事務的な反応をされるのは面白くなかった。第一、いい加減ロンドンも歩き尽くした無職の男が一体どこで何をやっているのか。

「七時ですけど……今外にいるんですよね? どこにいるんですか? 時間までに店に来ることができますか?」

 続けざまに繰り出した質問にはすべて明確な答えは返ってこなかった。

「ちょっと近所散歩してるだけ。七時ね、行くよ。また後でな」

 そう言って電話は切れた。理想的な展開とは程遠いが、とりあえず席を余らせることは避けられたことに栄はほっとした。後で長尾や久保村に誰と行ったのか聞かれたら、適当に誤魔化せばいい。

 栄は予約した時間ちょうどに店に着いた。まだ羽多野は来ていないようで先に席に通された。電話になかなかでないことに続く、今日の苛立ちポイントふたつ目。なぜ自分が待たされなければいけないのか。とりあえずメニューを眺めて暇を潰していると、五分ほど遅れてギャルソンが羽多野を案内してきた。

「ごめん、ちょっと場所を探すのに戸惑った。ずいぶん待った?」

「いえ、それほどでもありません」

 謝罪されたことで少し気が晴れた。いつも腹立たしいほど余裕を漂わせている羽多野が道に迷ったのだと聞けばむしろ愉快ですらある。それだけではなく栄の苛立ちを忘れさせたのは、羽多野がきっちりした上着を着てネクタイを締めていることだった。

「何じっと見てるの? 俺の顔に何か付いてる?」

「いえ。ただ、羽多野さんがネクタイを締めているのを見るのは久しぶりだなと思って」

 出国前に日本で会ったときはすでにクールビズの季節で、確か羽多野もノーネクタイだった。つまり、栄が最後にネクタイを締めた羽多野の姿を見たのは一年半ほども前になる。官僚と議員秘書。スーツで向かい合うのが当たり前だったのに、慣れとは面白いもので今となってはかしこまった姿の羽多野の方が意外なくらいだ。

「いや、カジュアルダイニングだって聞いてたからさすがにドレスコードはないだろうと思ったけど、雰囲気がわからないし。君はスーツだろうから一応合わせた方がいいかなって。……そういえば、こっちにきてからネクタイ締めたことなかったな」

 そう言って指先をタイの結び目あたりに持っていくと、羽多野は冗談めかして苦しそうな顔をして見せた。

「そりゃそうでしょう。俺だって仕事してなきゃこんなもの身に付けたくないですよ」

 栄の率直な同意の言葉に、羽多野の口元が緩む。

「珍しく君と気が合った」