料理もサービスも総じて悪くない店だった。好きなものだけ量を加減して頼むことができるアラカルトを好む栄だが、今回の目的はあくまで下見なのでいろいろな味を確認できるようテイスティングコースを注文した。
ちょうどメインのエビを食べているときに手元に視線を感じた。顔を上げると羽多野がじっと、栄がナイフとフォークを使ってエビの身を殻から外す仕草を見つめている。
「何かおかしいですか?」
凝視されればマナーにどこかおかしな部分があるだろうかと不安になるが、羽多野は感心したように口を開いた。
「前から思っていたけど谷口くんは食べ方がきれいだよな。箸使いだけじゃなくナイフやフォークも」
ああ、と思いながら外した殻を伏せて皿の奥にやる。確かに手を使わずにエビを殻から外すことが苦手な日本人は多い。もちろん栄も最初からできたわけではない。
「母がレストラン巡りが好きで、子どもの頃はよく連れて行かれたんです。でもご存知のとおり役所ってあんな環境ですから、就職してからは外食なんて安い居酒屋中心ですよ」
「じゃあ、その華麗なマナーを披露するのはデートのときだけってわけか」
また、坊ちゃん育ちだとか王子だとかからかわれるのがわかっているので予防線を張ったつもりだったが、結局は別の方向から揚げ足を取られてしまう。フォークで一口大に切ったエビを口に運び、飲み込んでから栄は憮然とした顔で答える。
「否定はしません。でも今思えばナオは喜んでいたんだか……」
付き合うようになって以来ちょっと良い店に行くときには大抵尚人を伴っていた気がする。栄としては自分自身が美味しいものを食べたいという欲以上に、物珍しい店に尚人を連れて行き彼が驚いたり感激するのを見ることが楽しみでもあった。行儀自体は良いもののフォーマルな店に慣れない尚人に食事のマナーや振る舞い方を教えることに自尊心がくすぐられていたのも否定はできない。
尚人はいつも「こんな料理食べたことない」「さすが栄の選ぶ店だね」と感謝の言葉を述べていたが、振り返ればどこか窮屈そうだったような気もする。エスカルゴの身をうまく外せず皿に落としてしまい、大きな音を立てて恥ずかしそうな顔をしていた若い頃の尚人の姿をふと思い出した。栄にとってあれは微笑ましい光景だったが、本人はどう感じていたのだろうか。
「――嬉しいに決まってるだろ」
羽多野がやたら自信たっぷりに断言するので、栄は思わず手を止める。向かい合った男は栄にじっと見られているにも関わらず大きめに切り取ったエビをゆっくり咀嚼して、飲み込んでから続けた。
「谷口くんは彼を喜ばせたくて一生懸命に店を選んだんだろう。なのに、嬉しくないはずがない」
今夜は雨が降るどころか嵐でも来るのではないか……と思ってしまうほど珍しい、ストレートな優しい言葉。黙々と皿を空にしていく羽多野のカトラリーさばきは、栄に負けず劣らず巧みに見える。
「でも、別れる少し前に一緒にラーメン屋……近所の普通のラーメン屋に寄ったんですけど、あのときのほうが生き生きしてたような気がします」
「気楽な店でくつろぎたいっていうのと、たまに恋人といい店に行って嬉しいっていうのは矛盾する考えじゃないと思うけどな」
「……そうでしょうか」
せっかく美味しいものを食べているときに、つい湿っぽい話をしてしまった。こういう日常のひとつひとつに尚人の影を見出すことはやめたいと思っているのに、羽多野と話しているとひょんな瞬間にふと気が緩んでしまう。
栄が黙り込むと、羽多野が突然話題を変えた。
「谷口くんは、俺の食い方を見てどう思う」
「……きれいだと思います」
余計な音ひとつ立てずに殻付きのエビを食べ終えた羽多野の皿の上には、無駄なものは一切残っていない。お手本のようなテーブルマナーだ。食事だけではない。意地が悪く品のない物言いが多い割に、羽多野の立ち振る舞い全般は洗練されている。栄をしょっちゅう不快にさせている態度だって羽多野なりに空気を読んでいるのは確かで、仕事の場や公共の場で羽目を外しすぎることはない。
そういう人間だからこそ政権与党の議員秘書として重宝されてきた一面はあるのだろうと想像はする。議員秘書ともなれば、それなりの相手とそれなりの場所に同席することは多いのだから、身なりやマナーがきちんとしていることも大きなプラス要素だ。
栄は利害関係者との飲食を好まないので、議員や秘書と飲食を共にした経験はほとんどない。羽多野が例外的な存在であるがゆえに、心の中で羽多野のマナーが秘書の一般的な姿なのだと思い込んでいた。だが、本当にそうだろうか。
ウェイターが近づいてきて空になった皿を下げるのを待ってから、羽多野は続ける。
「日本の下町とアメリカ南部を行き来してた俺が、谷口くんみたいに子どもの頃からマナーを気にするような店に慣れているはずはないと思わない?」
言われてみればその通りだ。無知だった子どもの頃ならともかく今の栄は、自分がいわゆる「良い家庭」に育ったことを自覚している。そして、尚人がいつの間にかエビもエスカルゴもきれいに食べられるようになったように、マナーなんて学習と訓練次第でどうにでもなるということも。
「秘書になってから学んだんですか?」
「はは、議員でも秘書でも食べ方の汚いやつはごまんといるよ。谷口くん、笠井先生が物音一つ立てずにフレンチ食えると思うか」
羽多野は笑う。栄は、見るからに田舎の成り上がり社長といった雰囲気の笠井志郎が完璧なマナーで食事をするところを想像しようと試みて、不可能であるという結論に達した。
「思いません……」
「俺の場合は大学時代に学んだんだよ。エスカルゴを床に飛ばして恥かいて、そのときはもちろん嫌な気分にもなったけど、おかげで今はこうして気後れせずに君とも食事できるわけで。結果的には良かったと思ってるよ。俺はさすがに笠井先生みたいに無神経には振る舞えないからな」
明かされたエピソードがほとんど尚人と同じものだったので、思わず栄は頰を緩めた。もちろん、尚人が恥をかけば憐れむ栄だが、この男がレストランであわてているところを想像すると愉快な気持ちになる。
「つまり?」
「君の元恋人も窮屈な思いはしたかもしれないけど、谷口くんの手ほどきで世界が広がったこと自体は決して悪い経験だとは思っていないはずだ」
そこまで聞いて、栄は思う。雨、嵐――いや、今夜はもしかしたら早すぎる雪すら降るかもしれない。
「……羽多野さん、気持ち悪いです」
あまりに普段と違った態度に栄が正直な気持ちを口にすると、羽多野は眉根を寄せてため息をついた。
「せっかく慰めてやってるのに失礼だな」
「あなたが優しいときは、だいたいろくなことを考えてないって経験上学んだんですよ」
勘ぐらせるのは過去の振る舞いのせいで、つまり羽多野の自業自得だ。妙な優しさに正面からどう言葉を返せば良いのかもわからない。栄が意地の悪い返事をしたのは半分は照れ隠しだったかもしれない。
「そうですか。じゃあご期待に応えなきゃいけないな」
「え、やめてください。そういう意味じゃないです」
からかいの言葉に栄はあわてて前言撤回する。いつの間にかテーブルの上からは湿っぽい空気が消え去っていた。
デザートから食後のコーヒーまで全て残さず食べると、はち切れそうなくらい腹一杯になった。とはいえ一品一品の料理の出来は申し分なく、アラカルトとワインを合わせた場合の想定価格も出張者とのディナーとしては妥当なものだ。月曜日に、長尾には良い店だったと伝えようと決める。
会計は栄が持った。こちらの都合で羽多野を付き合わせたという自覚はあったからだ。
「いいの? ご馳走になって」
財布を出す素振りすら見せず、羽多野は支払いをする栄を背後から見守った。以前日本で飲んだときは、強引に呼び出されたにも関わらずきっちり割り勘をしたことを思い出せば理不尽な気がしなくもないが、ケチなことはしたくない。
「だって羽多野さんは無職で、ホテル代も払えないくらいなんでしょう」
嫌味なのは承知。どうやって生きているのか知らないが本当は生活に困っていないことだってわかっている。
「そうなんだよ。だからこんな美味いもの食わせてもらって、本当にいいご主人に恵まれた」
羽多野は割り勘を申し出るどころか、例の「王子と使用人」ごっこを再開する。プライドのかけらもないのかと呆れもするが、きっと羽多野が金を出したところで栄は頑なに受け取らなかっただろう。
「まったく、年下に奢られて恥ずかしくないんですか」
そう言いながら扉を開けて店を出る。秋が深まり夜はずいぶん冷え込むようになった。だが、食事に合わせて出されたワインのおかげで、酔うほどではないもののほんのり体は暖かい。今はひんやりとした空気すら気持ち良いくらいだった。
「どうする? ちょっと飲み直していく?」
金曜夜の人混みを並んで歩く。パブで樽出しのクラフトビール――普段の栄ならば大歓迎と言いたいところだが、今はどうにも胃が重い。
「でも俺、腹一杯です」
「確かにそうだな。かといってこのまま帰るのも……」
そんなやりとりをしている栄の視界に、見知った人影が飛び込んできた。