栄の視界に飛び込んできたそれは、毎日オフィスで顔を突き合わせている現地採用の秘書――トーマスの姿だった。
まずい、と思った。人通りが多いとはいえこのままだと確実に至近距離ですれ違うコースで、ともなればトーマスは栄と並んで歩く羽多野に気づくだろう。
トーマスは、久保村やその他の霞ヶ関出向組とは違って日本の政治ゴシップには疎い。要するに羽多野の顔を見て名前を聞いてたとしても、それが一年少し前に政治家の不祥事絡みで世を騒がせた人間であるとは気づかないはずだ。とはいえ見つからないに越したことはないわけで、栄は羽多野の腕を引いてトーマスの視界から身を隠すべきか迷ったが、それを実行に移すにはあまりに時間が足りなかった。
青い目がこちらに焦点を合わせ、それと同時に気のいい秘書は右手を挙げる。
「あれ、谷口さん!」
これでまず「逃げる」という選択肢は塞がれた。あとは隣に立っている男は栄には何の関係のない人物だと装うか。いや、打ち合わせなしにそんな小芝居ができるほど羽多野は栄の気持ちを慮ってはくれないだろう。第一、いくら多民族都市ロンドンとはいえ東アジア系の男ふたりが並んで歩いているのに「他人です」とは通用するはずもない。
案の定、こちらからアクションを起こすまでもなく目の前までやってきたトーマスの視線は栄の隣にいる羽多野に向けられる。
「谷口さん、こちらの方は?」
「えっと、彼は」
口ごもりながらも栄は何かしら言おうとするが、それよりも羽多野が右手を差し出す方が早かった。
「初めまして、谷口くんの友人の羽多野と言います」
俺の許可なしに勝手に喋るな、と言いたいのは山々だ。だが、この男の意地の悪さを思えばわざわざ「日本では役人と議員秘書として犬猿の仲でした」「今はいわば王子と使用人のような関係で」などと言い出さなかっただけでもまだましなのかもしれない。
友人という表現が事実を適切に表しているとは思わないが、確かに一番穏当な表現ではある。羽多野が以前話した「居候している知人」と同一人物だと知られた場合も齟齬は生じない。
悶々とする栄の頭の中などつゆ知らず、トーマスは愛想よく羽多野の差し出した手を握る。
「私は大使館で谷口さんの秘書をしています。トーマス・カニンガムと申します。そしてこっちは私のガールフレンドのアリスです」
トーマスの横にはすらりとしたブロンドの美しい女性が立っている。羽多野はトーマスとの握手を終えると笑顔でアリスにも手を差し出して、日本語が理解できない彼女のために英語で自己紹介してから「タカと呼んでください」と付け加えた。
大抵の外国人にとって、日本人の名前は馴染みがなく覚えづらいものだ。久保村だって仕事でやり取りする相手には「ヒロ」と呼ばれているし、栄がそのようなニックネームを名乗っていないのは、省略するほどでもない中途半端な名前であるからに他ならない。にも関わらず羽多野の申し出は美人相手にあからさまに愛想を振りまいているようにも思えて鼻につく。
「谷口さん、今日は長尾さんと食事の予定じゃなかったんですか?」
夕方外出してそのまま直帰したトーマスは、長尾が列車事故の影響で食事をキャンセルしたことを知らない。
「いや、長尾さんは急に都合が悪くなったんだ。席を余らせるのも悪いと思って彼を……」
「ええと、彼は谷口さんのご友人で、今はロンドンに?」
アリスと何やら談笑している羽多野を栄が横目で示すと、トーマスはもっともな質問をした。
「前に話しただろう、うちに泊まっている」
「ああ、例の」
察しの良いトーマスはそれだけで事情を理解したらしい。もちろん「まだいたんですか」などという失礼なことは、羽多野がいる場所では決して口にしない。栄は、ここで出くわしたのがトーマスで良かったと心から思った。
通りいっぺんの挨拶をして別れればそれで終わる。トーマスにとって羽多野はただの栄の友人で、元利害関係者との親密さを疑われることもない。栄が安堵して気を抜いた、その気の緩みがまずかったのかもしれない。
「じゃあ、また月曜」
そう言って話を切り上げようとしたところで、アリスがトーマスの耳元に囁いた。「そうだね」と間髪入れずにうなずいたトーマスは、改めて栄と羽多野に向き合った。
「せっかくだし、まだ時間も早いです。僕たちパブで飲み直そうかって話してたんですけど、一緒にどうですか?」
「え」
予想外の展開に栄は口ごもる。トーマスは少し先を指で示して続けた。
「あっちに、教会から移設してきた綺麗なステンドグラスを飾っているパブがあるんです。いまどきのおしゃれな店ではありませんが、英国のパブの歴史が感じられる良い店ですよ。ビールの種類も多いし樽出しの生サイダーもあります」
「……いや、あの。今は腹一杯で……」
散々飲み食いしたからパブに行くとはやめようと羽多野と合意したのはつい数分前のこと。かといってこの国でパブというのは飲食店というよりは社交場としての色合いが強く、満腹がトーマスの誘いを断る理由にならないということもわかっている。だが、トーマスとその恋人と羽多野と四人。一体何を話そうというのだ。共通の話題など皆無だ。ていの良い断りの言葉を探す栄だが、最大の敵は隣にいた。
「いいんじゃないか? そんな歴史ある店なら是非見てみたい」
なんと羽多野は乗り気だった。もしかしたら毎晩あの部屋で栄と顔を付き合わせるだけの日々に飽きていて、たまには目新しい相手と話をしたい気分なのだろうか。栄が乗り気でないのはわかった上で勝手に前向きな返事をする裏切りに腹が立たない訳でもないが、だからと言ってトーマスとアリスの前で言い合いを始めるほど常識知らずではない。
栄はいつもの外向きの笑顔で、にっこりと微笑んだ。
「デートの邪魔するなんて申し訳ないけど、せっかくのお誘いだから一杯だけご一緒しようかな」
もちろん「一杯だけ」という部分は思いきり強調した。
少し歩いてメイン通りから外れた場所にあるパブに入る。いかにも地元の人間が入り浸るような店構えと雰囲気は栄ひとりであれば決して足を踏み入れないタイプの店だ。ここに羽多野がいなくて、ついでに英語で話さなければいけないという無言のプレッシャーを与えてくるアリスもいなければ大喜びしていただろう。
古ぼけたステンドグラスは奇妙に内装とマッチして独特の空気を作り出している。満腹でビールを飲む気分ではない栄は半パイントのサイダーを、残りの三人はそれぞれ好みのビールを頼んだ。
最初にパブで「サイダー」を注文する同僚を見たときには、透明のソーダ水をイメージして酒が飲めないのかと思ったが、実のところこの国の「サイダー」は日本ではフランス式に「シードル」と呼ばれるりんごを発酵させた酒を指す。酎ハイや梅酒のような甘ったるい酒はあまり好きでない栄だが、サイダーの自然で控えめな甘みは嫌いではない。
テーブルを四人で囲んでからは、それなりに盛り上がった。日本語を話せないアリスがいるので英語で会話を進めるしかなかったが、栄の存在を意識してか全員がはっきりとわかりやすく話してくれた。普段であればそんな気遣いにすら英語コンプレックスをこじらせかねないところ、軽い酔いのおかげで細かいことは気にならない。少しくらい酔っているときのほうが羞恥心が弱まるからか、英語もスラスラ口から出てくるのだ。
羽多野も最低限の常識はわきまえているのか余計なことは話さない。以前からの友人である栄の好意で家に置いてもらい、日々ロンドン観光を楽しむ身であると当たり障りのない自己紹介をして、これまでに行った中で面白かった場所について話して聞かせた。
最初はごく王道の観光地について感想を述べていた羽多野だが、次第に雲行きが怪しくなる。栄が眉をひそめた「昔の手術室」を保存したミュージアムや、ウェルカムコレクションの干し首など穏やかでない話を披露する羽多野に、女性であるアリスの反応が気になる。しかし市内の病院で看護師として働く彼女は嫌な顔をするどころか羽多野に新たな観光場所のアドバイスすらする始末だ。
「LSEの近くに外科医のアソシエーションがあるんですけど、あの中にある博物館も面白いわよ。ジョン・ハンターという十八世紀の有名な外科医のコレクション中心で、たくさんの病巣標本とか、戦時中の手術についての展示とか」
「へえ、それは興味深いな。是非行ってみるよ」
話を聞くうちにクラクラしてきて、栄はとりあえずトイレに立つことにした。壁側に座っていた栄が立ち上がると、隣の羽多野は通りやすいよう椅子を前にずらす。それでも通路が狭くて栄は椅子の脚につまづいて、軽くつんのめった。
「危ない」
羽多野が手を出し栄の腕をつかんだおかげで転びはしなかったが、人前で格好の悪い姿を見せてしまった栄は恥ずかしい思いでそそくさとその場を離れた。
用を足してから手洗いを出たところで、入れ違いにトーマスがやって来た。
「悪いね。デート中なのに結果的に邪魔してしまって」
本当は悪いなどとは微塵も思っていない。多分四人の中で、気が進まないままここに来たのは栄だけだったはずだ。だがそれを正直に告げることはできないからいかにも日本人的な言い回しになる。とはいえ、この手の「建前と本音」的な物言いは英国人も得意とするところだ。栄の言葉に何かを感じ取ったらしいトーマスは一瞬動きを止め、それから意味ありげに笑った。
「こちらこそ、邪魔してしまったみたいですね。余計なことをしてすみません」
「……は?」
トーマスの笑顔の意味に気づくには数秒かかった。そして栄は、この若い秘書が大きな――そして望まざる勘違いをしていることを認識した。