第33話

 急に差し込むような頭痛を感じたのは、決して飲みすぎたせいではない。栄は悪気のかけらもない表情で――それどころか何かいいものを見たかのように目を輝かせているトーマスにまっすぐ向き合うと、厳粛に告げた。

「トーマス、君は多分ひどい誤解をしてる」

 いまの自分はおそらく仕事上の困難に直面したときよりも厳しい顔をしているはずだ。しかしトーマスは内緒話をするときのように口に手を当てて、いまさら栄の耳元に口を寄せてくる。

「大丈夫です。日本人がこの手のことには保守的だということは私もよく知っています。谷口さんがオープンにしていないなら、大使館の人にも決して話しませんから、ご安心ください」

 ――いや、そんな気遣いは安心どころか大きな迷惑だ。

 栄は頭を抱えて床にうずくまりたい気分だった。一体どこをどう見間違えれば自分と羽多野がそういう関係だと思い込めるのだろう。「男が二人で並んで歩いていた」ということは否定しないが、それくらい誰にだってよくあることだろう。

 それどころか同僚や友人同士の方がよっぽど友好的。栄と羽多野は一緒にいたところで大抵はぴりぴりとした雰囲気を漂わせているのだから、誤解を招くようなオーラは出ていないはずだ。相手が尚人ならばともかく、相手は羽多野――どう見たって似合いではないというか、あんなアラフォー無職居候男が栄に釣り合うわけがないのだ。

 真に受けてはいけない、そう思いつつも栄は焦る。トーマスですらそんなふうに感じたのだとすれば、他の人間も同じことを考えはしないだろうか。通りすがりに挨拶を交わす同じアパートメントの住人たち、そういえばコンシェルジュの女性が羽多野へ以前同じような質問をしたような気がする。これだけ狭い世界で既に二度の誤解を受けたのだとすれば、もしかしたら口に出さないだけでもっと多くの人々が自分たちをそういう目で見ていたのではないか。疑ぐりはじめるときりがなくて、気が遠くなった。

 頭の中はぐちゃぐちゃだが、ここは店の中。公衆の面前。決して取り乱してはならない。できるだけ簡潔にトーマスの勘違いを正した上で、何事もなかったかのように席に戻るのが一番だ。もしもアリスまでも同様の誤解をしているのならば、トーマスから言い聞かせてもらおう。

「悪いけど本当に勘違いなんだ。彼はただの知り合……友人で、断じてそれ以上の関係じゃない。もしもトーマスの目からそういうふうに見えたのだとすれば、俺の本意じゃないし彼にも失礼だと思う」

「……そうなんですか?」

 きょとんとした顔でトーマスは栄を見る。

 日本人の気性や感覚を知り尽くしているように見えるトーマスですらこうなのか。リベラルな空気感の強いロンドンで生まれ育った彼にとっては同性愛者というのはたいして珍しいものではなくて、だからこそさしたる抵抗もなく栄と羽多野をそういう関係だと思い込んでしまったのか。

 そういえば日本人男性が友人同士で旅行した際に同性愛者の多い国でカップル扱いされ、ツインで頼んだはずがホテルの部屋にはダブルベッド。それどころかベッドリネンの上にはバラの花びらで形作ったハートマークがあしらわれていたという冗談のような話すら聞いたことがある。

もちろん栄が同性愛者であること自体は間違いではない。だが、栄と羽多野は断じてトーマスが想像するような間柄ではないという、それこそが重要なのだ。

 栄はもう一度――さっき以上にしっかりとトーマスの瞳をのぞき込んで言った。

「そうなんだ! だから、金輪際その勘違いは改めてくれ」

 羽多野と自分をそんな目で見られているというだけで、むずがゆくて気持ち悪くていてもたってもいられない気分になる。ごくたまに皮膚の下がかゆいような気がして、表面をいくら掻いても不快感がおさまらないことがあるが、ちょうどそういった感覚だろうか。

「わかりました」

 栄があまりに力説するものだから、トーマスは気圧けおされたようにうなずいた。さすがにこうも強く否定されてまで、勝手な思い込みを押し通すつもりはないようだ。

 しかし――栄がほっと胸を撫で下ろしたところで今度は別の見解を披露する。

「でも、谷口さんにはその気がないにしても、羽多野さんはどうでしょうか」

「ちょっと待て」

 誤解の第二弾もやはり栄にとっては無視できないものだった。

 もしかしたら自分はこれまで数ヶ月、トーマスの人間性を見誤っていたのかもしれない。年齢以上に落ち着いて信頼できる優秀な秘書だとばかり思っていたが、実は根拠のない色恋の話ばかりできゃあきゃあと盛り上がる女子高生のようなメンタリティの持ち主だったのだろうか。実際トーマスは「恋バナに花を咲かせる女子」のように声を潜めて栄に囁く。

「だって出くわしたときからこっち、羽多野さんは谷口さんのことをしっかりエスコートしているじゃないですか。ここの席だって、奥を谷口さんに譲って、さっきもつまずいたところでしっかり手を差し伸べて」

 もはや呆れ果ててため息も出てこなかった。

「……あのさ、トーマスは紳士の国の人間だからそういう受け止め方をしてしまうんだろうけど、正直日本人からすれば完全なる見当違いだよ」

「そうですか? でも日本でも奥の席が上座でしょう?」

「確かにそういうビジネスマナーが重視された時代もあったさ。でも俺の世代の日本人の感覚では、トイレに立ちづらい奥の席を勧めるのは気遣いのない印と思われる。手を差し伸べたのも、俺が転んで巻き添えを食うのが嫌だったからだ。家でも彼は居候のくせに傍若無人に振舞っているんだから、エスコートなんてありえないよ」

 一気にまくし立てながら、こんなふうに人を貶めるようなことを言うのは自分の職場でのキャラクターを毀損するのではないかと不安がよぎる。だが、トーマスからほんのちょっと毒舌だと思われることと、羽多野との関係疑われて黙っていること――天秤にかければ前者が勝った。

 だが、トーマスは納得がいかない様子で首を傾げる。

「谷口さんがそう言うのならば、その受け止め方が正しいのかもしれないけど。私には彼は好意を持っているように見えましたけどね」

 よっぽど気心知れた関係でもない限り、日本でも「女性は奥に」というエスコートマナーは残っているのだから、トーマスが栄の言葉を疑うのも無理はなかった。

「やめろよ、絶対にそれはないから」

 栄がしつこく否定し続けると、最終的にはトーマスも栄の言葉を受け入れた。ちらりと羽多野とアリスが談笑するテーブル席に目をやって、再び視線を栄に戻すと小さく息を吐く。

「そうですね。変なことを言ってすみません、一つ屋根の下で暮らしているのに、私が勘ぐったせいで気まずくなってしまってはいけませんね。今の話は忘れてください」

 言われなくたって忘れたいし、すぐに忘れてしまうつもりだ。とはいえその前にひとつだけ、言っておかなくてはいけない。

「ただ確かに長々と居候を置いているなんて日本人にしてはちょっと……一般的ではないから、あいつがうちにいるってことは他言しないで欲しい。トーマスと同じような誤解をされたらたまらない」

「……わかりました」

 普段温厚な栄の妙に強い口調にトーマスはいくらか動揺しているようだった。だが動揺の度合いだけでいうならば栄の方がよっぽど大きいに決まっている。

 立ち話を終えてテーブル席に戻ると、羽多野とアリスの会話が止まる。

「トイレ混んでた?」

 やたらと時間がかかったことを不審がられて、心臓が跳ねる。まさかあんな話をしていたなんて、いくら勘の鋭い羽多野だって――。

「いや、ちょっとトーマスと仕事の話を」

「ふうん」

 仕事、と聞いて自分には関係ないと思ったのか、羽多野は興味なさそうにそう言ってアリスとの会話に戻った。椅子の後ろを通って奥の席に再び腰掛けて、栄は何もなかったかのように振舞おうとする。トーマスとのやり取りなど忘れて、ついさっきまでと同じように会話に混ざろうと――。

 なのに、一度途切れた集中力は二度と戻って来ない。英語の会話はただ栄の耳をすり抜けていくだけで、後はただ話を聞いている振りをしてただ相槌を打ち続けた。羽多野が栄に好意を持つなんてありえない。饒舌な男の横顔を眺めて、そんなことばかりを考えていた。