第34話

 それなりに盛り上がった会は、日付が変わる頃にお開きになった。深夜であろうともバスや、週末に限っては一部の地下鉄も動いているのだが、日本の終電時刻が近づくと店を出たくなるのは体の芯まで染み付いた習慣のようなものだ。

 週末のロンドン中心部は眠らない――とはいえ朝まで遊ぶ体力のある若者ばかりというわけでもないのか地下鉄はそれなりに混み合っている。シートはすべて埋まっていて、二人はドアの近くに並んで立った。どうせほんの数駅だ。

 普段あまり遅い時間に出歩かない羽多野は、興味深そうに賑やかな車内を見回している。金曜日の夜中の電車に、遊び帰りで上機嫌の酔っ払いが多いのは東京も同じだろう。

「公共交通機関が朝まで動いてるってのは、特に遅くまで遊びたい若者には便利だよな。二十四時間バスって確か東京でもやったことあったんだっけ? なんか、利用が少ないってすぐ終わっちゃったやつ」

 言われて、そういえばそんな話もあったと思い出す。数代前の都知事がナイトライフの活性化を謳って渋谷と六本木の深夜巡回バスを試験運用したものの、あっという間に中止になった。

「あんな近距離で、しかも繁華街同士をつなぐ路線なんて、比較対象にならないですよ」

 深夜バス導入のプレスリリースを見て、省内で同僚たちと「こんなプランが成功するわけがない」と笑ったことを栄はぼんやりと記憶していた。その圏内に帰宅する家があるような人間の多くは、深夜バスには乗らないだろう。かといって、渋谷の居酒屋で飲んでいた若者グループが真夜中にバスに乗って六本木のクラブに移動するというシュールな絵面も想像しづらい。失敗は必然だった。

「確かにな。で、経済官僚の谷口くんとしては、ロンドンのナイトチューブやナイトバスには経済面でのメリットはあると思う? 日本でも導入すべきとか」

 栄の意見に同意した羽多野は次に、質問を投げてくる。意地悪な問いかけで栄を試そうとしているのではなく、ほろ酔い気分で思いつくままを口にしているような雰囲気だ。他の人間も含めて飲んだことがよっぽど楽しかったのか、やたらと機嫌がいいように見える。

 羽多野の機嫌が良くなればなるほど、こちらの心はしらける。こんなところで政策論争をはじめるつもりもないので、栄は短い答えで話を打ち切ることにした。

「個人的にはやめて欲しいですね。東京で地下鉄が二十四時間運行したら、仕事や、気の乗らない飲み会を切り上げる口実がなくなって困るじゃないですか」

「はは、それはそうだ。日本人には馴染まない制度かもしれないな」

 笑顔の男から視線をそらし、早く地下鉄が下車駅に到着してくれないかと栄はじっとドア上の路線図を眺めた。

 そういえば仕事以外で羽多野を含めた複数人で同じ席に着くというのは初めてのことだった。羽多野との関係はあくまで仕事の延長だと思ってきたが、つま先をまた一歩私的領域ねじ込まれたような気がしなくもない。だからこんなに落ち着かないのだろうか。

 それに、さっきのトーマスの誤解は栄の心に決して小さくはない波風を立てた。自分と羽多野が恋愛関係にないというのはあまりに明白で、自信を持って断言することができる。だが、羽多野が栄に好意を抱いているというのは――もちろんそんなはずはないと思ってはいるし、だからこそトーマスにもはっきりと否定はした。

 だが実際はどうだろう。栄がどれだけ確信を持っていようと、羽多野の心は羽多野にしかわからない。

 羽多野は数センチだけ高い位置から、路線図を眺める栄の横顔をじっと見つめている。居心地が悪いので栄は無理やり話題をひねり出した。

「さっき、アリスとは何を話していたんですか?」

「え?」

 あまりに何も浮かばなくて、結局口からこぼれたのは「アリス」という名前。羽多野が鼻の下を伸ばして盛んに話しかけている様子を思い出すと、また栄の不愉快レベルが上昇した。しかもこうして栄に質問されれば、羽多野はなぜ突然彼女の名前を出されたのかさっぱりわからないとでも言いたげに目を丸くして見せるのだ。

「俺とトーマスが席を外しているあいだ、ずいぶん盛り上がっているようだったから。あなたみたいな人でも美人には弱いんだなってちょっと面白かったです」

 隠す気もない棘に羽多野が眉をひそめた。時間にして五秒から十秒、栄の不機嫌の理由を探るのにいつもより長くかかった。そして導き出された答えは――いや、栄自身も何が正しい答えかなんてわからないのだが――。

「もしかしてトーマスが嫌がってた? それで長々と立ち話してたのか?」

 深刻そうな顔で、羽多野はトーマスの名前を出した。

「違いますけど、どうして」

「君が面白くなさそうな顔をしているから。……でも確かに君の秘書の恋人に、ちょっと馴れ馴れしかったかも」

 要するに羽多野は、彼がアリスに馴れ馴れしくしたことにトーマスが気分を害し、栄に苦言を呈したと思っているのだ。完全に斜め上の発想だが、理屈としては筋が通っている。

「えっと、ええ……」

 不正解、と言ってしまえば答えを準備する必要が出てくる。もともとただの八つ当たりだっただけに、嫌味の理由を追及されるのは避けたくて、栄は曖昧にうなずいた。

「あんな若い美女が東洋人のおっさんなんか相手にするはずないから、勘弁してって謝っておいてくれ」

「わかりました」

 結果的にトーマスに汚れ役を押し付けたことになって、チクリと胸が痛んだ。だが元はと言えばトーマスが無理やりパブに誘った上に、妙な勘違いをしたのがいけないのだ……今夜のところはこれで五分五分。そうやってなんとか自分を納得させた。

「アリス、あんなモデルみたいな外見しているけどナースなんだってな。イギリスの医療の話って馴染みがないから興味深くて。ほら、笠井先生は厚生委員会所属だったから」

 結局のところ、羽多野がアリスにちょっとくらいの下心があったのか、それともなかったのかわからない。トーマスに謝っておいてくれと言ったかと思えば、自分はあくまで仕事に関係する話をしていたと主張しているようにも思えた。

「結局まだ未練あるんじゃないんですか?」

 栄の質問はダブルミーニングだ。アリスに未練があるというふうにも、議員秘書の仕事に未練があるというふうにも受け止められるように、あえて「何に」とは明言しなかった。

 後ろめたい気持ちがあるならばアリスに関する言い訳を続けるのではないか――そんなことを思ったが、羽多野はあっさり「ないよ」と首を左右に振った。

「あの頃、先生に指示されて一晩で困窮者の医療費軽減制度について先進国比較作らされたりしたから、思い出深くて。谷口くんこそ未練未練って、そんなに俺を秘書に戻したいの?」

「まさか、羽多野さんが何やってようと興味なんてないですよ。ただ、この世のどんな仕事も無職で他人の家に居候しているよりはましだと思ってるだけで」

 栄が言い返すと、羽多野はすでに数十回、もしかしたら百回も繰り返されてきた無職を詰る言葉に肩をすくめた。

「無職が気に食わないっていうなら、やっぱり在英大に応募しようかな。ちょうど専門調査員の求人が出てるってトーマス言ってたぞ。俺も谷口くんの秘書になれば……」

 そのとき地下鉄がカーブに差し掛かり大きく揺れた。栄の背後に立っていた女性が体勢を崩し、倒れかかってくる。視界の外から強くぶつかられた栄は踏ん張りきれずに羽多野に向かってつんのめった。

「危ない」

 落ち着いて栄の肩を受け止めた羽多野のおかげで、そこでドミノ倒しは止まった。小さな声で謝りながら女性が栄の背中から離れる。そして、ほとんど抱き止められるような状況になった栄が顔を上げると、普段より近い位置に羽多野の顔。

 羽多野さんは谷口さんのことをしっかりエスコート――なぜだか瞬間的にトーマスのそんな言葉が頭をよぎった。いや、ありえない。絶対にそんなことはありえないから。

「絶対に!」

「絶対に?」

 確かめるように口に出したところで、羽多野が不思議そうに聞き返してきた。栄はあわてて肩に触れる男の手を振り払うと、話題をひとつ前まで戻した。

「冗談でも全然面白くないですし、大使館に応募なんて絶っっっ対にやめてくださいね」