第35話

 帰宅しても気持ちは落ち着かず、ひとりになりたくて栄は夜中にも関わらずかれこれ数十分もバスルームにこもっていた。高めの温度に設定した湯船に浸かっているうちに完全に酒は抜けたのに、頭の中にはほんのりと浮ついたような感覚が残っている。それもこれも、元はと言えば。

 ――トーマス、おまえはギルティだ。そう心の中でつぶやいて水面を叩くと、ぷかぷかと浮いていたラバーダックが飛び上がった。どこにでもあるゴム製のアヒルの人形は赤い上着に黒い帽子、衛兵ロイヤル・ガード姿のロンドン仕様。いつだったか羽多野が買ってきて風呂場に持ち込んだものだ。

 もちろんこんなチープな人形が栄の美意識に合致するわけはなく、「谷口くんの荒んだ心を癒すために」などとふざけたことを言われればますます憎らしさが増す。すぐさま風呂場から排除したが、翌日には再び浴槽の脇に鎮座している……という沈黙の攻防が一週間弱続いたところで栄があきらめた。

 栄は、外面こそ取り繕っているものの自分が短気で怒りっぽいことを自覚している。友人や仕事仲間にはひた隠しにしている醜い性格を知っているのは基本的には長く生活を共にした相手だけだ。親や妹は栄は半ばあきれて匙を投げていると言って良い。尚人は控えめで優しい性格ゆえに、栄の八つ当たりを我慢して受け入れた。

 そして羽多野は――そういえば奇妙なことに、あの男は出会ったその日から栄の性格を言い当てて、それどころか挑発さえしてきたのだった。今も忘れられない。徹夜明けに電話でいちゃもんをつけられて動揺した部下を守るため、大量の資料をぶら下げてわざわざ議員会館まで出向いてやった。その場に立たされたまま嫌味を言われて、出会いとしては最低最悪の部類に入る。

 十年近い経験を積む官僚として、仕事相手から多少嫌なことを言われたって感情を飲み込む訓練はしていたはずだ。しかし羽多野はあまりにもしつこくて、いくら平常心を意識していても最終的には栄は怒りをこらえきれなくなる。ちょっとしたことで苛々して、今では気持ちを抑える努力すら放棄してしまった。

 それ以上に気に食わないのは、けんかになれば羽多野に分があることだ。口には出さないものの栄はそのことに気づいている。これは羽多野の方が弁論に長けているとか賢いとかでは断じてなくて、ふたりの性格によるものだ。

 たとえるならば栄は短距離走者で羽多野は長距離走者。栄は気が短く激しい怒りを爆発させるが持続力に欠ける。一方の羽多野は栄がいくら怒りをあらわにして罵ったところで平然と同じことを繰り返す。すると最終的には栄のエネルギーが先に枯渇し、根負けしてしまうのだ。そう、まさしくこのラバーダックを巡る攻防が典型的な例だ。

「ったく、ふざけんなよ」

 羽多野にだかトーマスにだかわからない恨みの言葉を吐いてから、アヒルをつかんで水中に沈めた。完全な八つ当たりだが、手近な場所にあったのだからアヒルにはこの無体も運が悪いとあきらめてもらうしかない。

 そう、羽多野は意外としつこいところがある。普段の振る舞いはむしろ飄々とものごとにはこだわらず――少年時代の不遇をあっけらかんと語り、おそらく米国でも十分な職を得ることができたにも関わらず日本に戻って「アルバイト気分で」議員秘書をはじめ――その仕事を理不尽なかたちで追われても一切の執着を見せない。そのくせ秘書時代は些細なことで栄を責め立て、ほとんど個人的な怨恨を感じるくらいに追い詰めた。そして、冗談交じりに「遊びに行く」と言った二ヶ月後にはロンドンに現れて、そのままここに居着いてしまった。

 奇妙な二面性。それはおそらくはただ羽多野が変な奴で、特定のターゲットにだけ嫌がらせをしたがる悪質な嗜癖を持っているだけのことだ。でも、もしも。万が一にでもトーマスの指摘が正しいのだとすれば?

 ああ見えて羽多野の内面が幼稚で、気になる相手に意地悪をしてしまう小学生男子のような心理で栄に嫌がらせを続けていたのだとすれば。それだけではなく、わざわざ栄のいるロンドンにやってきて、なんだかんだと理由をつけて同じ屋根の下に腰を据えているのだとすれば。

 あまりにも恐ろしい考えに、気づけば栄は息を止めていた。ふと視線を落とすと、湯の中でアヒルの衛兵がのんきな顔を歪ませている。思わず手を離し、黄色い玩具が水面に浮かび上がると同時に栄も息を吐いた。

「おい」

「うわあっ」

 急にバスルームの扉が開いたので栄は大声を上げる。先に風呂を済ませて、てっきり寝ているのだとばかり思っていた羽多野が怪訝な顔でこちらを見ている。

「俺がいるときにバスルームのドアを開けるなって言ったでしょう!」

 あれだけ文句を言っておきながらラバーダックと入浴していることも気まずい。反射的にゴム人形を手に取り投げつけると、ドアにぶつかって床に落ちた。

 羽多野はうるさそうに顔をしかめてアヒルを拾い上げると、言った。

「わかってるさ。ただ、風呂に入って一時間以上も経つから」

「一時間? そんなに?」

 長風呂していることはわかっていたが、考え事をしているうちに思った以上の時間が経っていたようだ。

 欧米の一般的なバスルームの多分に漏れず、このアパートメントでも風呂場は、浴槽、シャワー、トイレなどがすべて同じ空間に配置されている。できれば日本のようなセパレートタイプが良いのだと不動産屋に頼んではみたものの、そもそもほとんど存在しないと言われれば断念するしかなかった。それでもひとりで暮らしているあいだは、入浴後の湿気が多少気になる程度で大きな問題はなかった。しかし羽多野が住み着いてからは、「どちらかが入浴しているあいだはトイレが使えない」ことに注意して生活する必要がある。

 そういえば羽多野はパブでもビールを数杯は飲んでいた。栄は一方的に怒鳴りつけたことに多少の気まずさを感じながら言った。

「もしかしてトイレ使いたいとか? すいません、すぐ上がるから三分だけ待って……」

 だったらドアなんて開けずに外から声をかけてくれればいいのに。ドアを開けてこちらをみられている状態では湯船から立ち上がる気にもなれないので、まずは羽多野を追い払わなければいけない。しかし羽多野は栄の気遣いをあっさり否定した。

「いや、そうじゃなくて。あんまり静かだったから、溺れ死んでたらまずいなって。まさかダッキーと遊んでるとは思わなかった」

 どうやら「ダッキー」というのは羽多野があのラバーダックにつけた名前であるらしい。手元のアヒルを見つめてにやりと笑ってから、羽多野は栄に「出て行け」と言われるのに先んじてドアを閉めた。そして、さらに一言。

「溺れ死なないにしたって湯あたりするぞ。ほどほどにしておけ」

 そんなことわかっている。一体誰のせいで――しかしそれを口にする気にはなれず、アヒルのいなくなった湯船に栄は頭まで沈み込んだ。

 とはいえ熱めの湯船に一時間以上というのは確かにやりすぎだった。立ち上がると一瞬ぐらりと視界が揺れて、栄は壁に手をついてめまいがおさまるまでしばらくのあいだ目を閉じていた。

 体を拭いて、服を着たところで急に強い疲労感に襲われた。本当ならば風呂場を綺麗に拭いておきたいし、髪も乾かしたいところだが、どうにも体が重い。少し考えて、風呂の始末は明日羽多野に頼んで、髪は朝に濡らしてからセットすれば良いという結論に達した。

 濡れた髪をタオルで拭いながら廊下に出ると、玄関に近い方のドア――羽多野が使っている客用寝室の扉が薄く開いて、そこから光が漏れていた。まだ起きているのだ。

 普段の羽多野は、起きているときはリビングにいることを好み、寝室に入ればすぐに灯りを消して寝てしまう。なのに、今日に限ってなぜ。しかもすでに時刻は午前二時を回っている。

 あんまり静かだったから、という羽多野の声が蘇る。

 栄は、自分はおかしくなっているのだと思った。トーマスが妙なことを言うから。熱い湯に長い時間使って頭がぼんやりしているから。よくよく考えれば羽多野があまりにも自分という人間に執着しているように――大抵は意地が悪いが、たまにやたらと優しく感じることがあるから。

 もしも羽多野が自分へ好意を持って、だからこそこうまでもしつこく付きまとってくるのだとすれば――もちろん迷惑だ。自分より背が高くて自分より高学歴で自分より偉そうな男なんて、栄にとっては完全に恋愛対象の外側にいる。絶対に好意に応じることはない。

 だがその一方で、自分より背が高くて自分より高学歴で自分より偉そうで、これまでさんざん上から目線で失礼な態度をとってきた男が実は好意を隠していて「使用人ごっこ」をしてまで栄の近くにいたいと思っているのだとすれば?

 正直少しだけ、優越感がくすぐられる。