第36話

 栄はなんとも言えない気持ちを抱えてしばらく廊下に立っていた。考えすぎだとわかってはいても、一度意識してしまえば「ありえない」は「もしかして」に変わる。そして「もしかして」は、やがて――。

 ドアの隙間からフローリングに細く漏れた光。あの先にいる男が自分に好意を抱いているのだとすれば。コペルニクス的展開が起ころうとも恋愛対象になり得ない男のことを考え、栄は奇妙な高揚感を抑えることができなかった。

 喜びとは違うはずだ。好みではない相手からの感情という意味では、栄の外見や仕事や外面だけを見て理想の結婚相手だと思い込んでアプローチしてきた女性たちと同じ。その手の下心を込めた誘いにはいつだってうんざりするだけだった。なのになぜこんなにも今、自分の心は揺れ動くのだろうか。

 彼女たちと羽多野の違うところ、無理やり言葉を探すならば――自己回復への手掛かりのような何か。あんなにも自分をこけにして翻弄し続けてきた男が、実はこちらの手のひらの上にいるのかもしれない。もしかしたら栄が羽多野を弄んでいたのかもしれない。そんな考えには、長いこと喉に刺さっていた小骨が外れたかのような爽快感が伴う。

 悪趣味な感情ではあるが、それも無理もない。何しろここ二年近くものあいだ、栄にはろくなことがなかったのだ。仕事は上手くいかないし、体調を崩して出世コース陥落の危機も味わった。長く付き合った恋人と別れたあげくに、その恋人は元浮気相手と上手くやっているというおまけつき。海外赴任自体は歓迎すべき話だったが、いざ渡航してみれば異文化での生活は思ったように簡単にはいかない。

 幾度も心を折られながらも人より高い自尊心を捨て去ることはできなくて、引き裂かれた心をずっと持て余してきた。

 他人との性的接触に不安を持つ栄が次に恋愛をするにあたってのリハビリテーション、というのが羽多野をここに置いている理由のひとつ。だが今の栄が不安を抱いているのは肉体についてだけではない。

 羽多野は「俺を利用すればいい」と宣言した。あれはもしかしたら、栄からの感情の見返りはなくともいいからここで、同じ屋根の下に置いて欲しいと訴えていたのかもしれない。一度考えはじめれば都合の良い妄想にはもはやブレーキは効かない。羽多野に愛されているのかもしれないという想像は、「王子と使用人ごっこ」だけでは越えられなかった心理的な障壁すら消し去るほど、栄にとって強力かつ甘美だった。

 さんざん煮え湯を飲まされた相手だから多少ぞんざいに扱ったってかまわない。ここに置いてやって、ちょっと触れさせてやって、栄の自信が回復する頃にはビザが切れて強制帰国だ。

 高すぎるプライドゆえに栄が羽多野の体温を受け入れるにはそれなりの理論武装が必要だった。もちろんこれだって理屈としては到底成立していないのだが、あえて目をそらす。穴だらけでも欺瞞でも、なんとかして自分を納得させる言い訳を積み上げない限り栄は人の手を取ることができない。

 心のどこかでは気づいている――寂しくて、不安で、人肌恋しくて――誰でもいいから愛されたいという渇望がもはや理性では抑えきれなくなっていることを。だからこそ羽多野をここに置いて、今こんなにも気持ちが揺らいでいるのだと。でも、それを正面から認めることはあまりに困難だから、破たんした理論を構築して、合理的な行動をとっている振りをして、やっと栄は明かりの漏れ出す部屋へ足を向けることができる。

 そっとドアを引くと、枕に背中を預けた状態の羽多野の手元にはペーパーバッグ、枕元にはさっきバスルームから回収していったアヒルの人形が置いてある。

「お、長風呂から生還」

 顔を上げた羽多野はそう言った。いつもと寸分変わらない表情からは特別な好意など読み取れない。やはりあれはトーマスの勘違いで、真に受けた自分だけが馬鹿を見るのではないかと栄は少し怖気づく。

 それでも引き返さないのは、今この勢いを利用しなければ自分が再び身動き取れなくなることがわかっているからだ。

「働いていないあなたと違って、長風呂くらいしなきゃ疲れが取れないんですよ」

 精一杯の矜持で憎まれ口を叩きながら栄は背後のドアを閉じた。

 少しだけ羽多野が眉をひそめたような気がするが、それも当然だ。強引に触れられたあの日以来、栄は自分の寝室への羽多野の侵入を許していない。なのになぜわざわざ羽多野のいる客用寝室にやってきて、しかもドアを閉めるのか。だが、心の中に浮かんだであろう疑問を口にすることよりはこの先の流れを見定めることを選んだのか、羽多野は何も言わず栄をじっと見た。

 さらに数歩踏み出しながら栄は言葉を探す。ここに来たのは一体なんのためだったか。答えは確かなようで曖昧だ。ただ思い出すのは羽多野の手と、触れられて粟立つ体。

 マッサージや薬の塗布といった理由をつけて毎日少しずつその手に触れられることで、当初感じた強い拒否感や警戒感は薄れている。それどころか自分で触れるよりはよっぽど――少なくともそれが「常識的な範囲」であるならば。

 羽多野は「何をしにきたのか」とは聞かなかった。だからといって「何をしようか」とも聞かない。だから栄は自ら寝台に近づいて口を開く。

「まだ起きてるなら、薬を塗ってもらおうと思って」

 すでに残り少なくなった消炎薬の置き場所はリビングで、栄は手ぶらだ。

「あざはかなり薄くなってたけど、まだ薬が必要?」

 普段だったら意地悪な笑いを浮かべて「王子、今夜の命令は?」とでも言いそうな、しかしそういうふざけ方が逆効果になることに気づいているのか言葉は控え目だった。

「まだ少し、痛むから」

 あからさまな嘘。気づかれるための嘘を混ぜて、栄は羽多野の手が届く距離まで歩み寄った。

 羽多野は「ちょっと見せて」と後ろを向かせて栄のシャツを捲る。内出血は消えかかっているが、淡い紫と黄色の薄いまだら模様がわき腹を中心にまだ少し残っているはずだ。

 そっと触れてくる手が冷たくて鳥肌が立つ。嫌悪と恐怖。だが同時にその手を望む気持ちがあることを栄はもう否定しない。

 栄にとっては自尊心を満たし、かつちょっとした快楽を得る手段。同時に羽多野に対してもこれはある種の施しになる。宿泊代云々よりはよっぽどしっくりくる取引だ。酔い潰した栄に無理やり触れたあの夜、もしかしてこの男は普段の取り澄ました態度を崩すほど、この体に触れたかったのだろうか――栄は倒錯的な優越感に身を委ねる。

「痛むって、どのあたり? ちょっと強く押すぞ」

 羽多野の指先が、少しずつ位置を変えながら栄の薄い筋肉に覆われた肌を押さえる。脇腹のちょうどくびれたあたりに指が滑ると栄の体はおののいたが、それも痛みとは異なる感覚ゆえだ。

「痛かった?」

「ちょっとだけ」

 背後からは、小さな吐息。そして、茶番と小芝居に飽きた男は栄の両肩に手を当てる。

「……最近も、あんまり眠れてなかったんだろ」

 前のめりに倒されながら栄はあいまいにうなずいた。

「ええ、まあ」

 栄の目の前には「ダッキー」なるラバーダックがいる。サイドテーブルには小さなランプと、羽多野の紺色のネクタイ。今夜身につけていたものを外して、そのままベッドに放ったのだろう。

 そのネクタイを眺めて食事をしていたのはほんの数時間前のこと。まさか同じ夜に、こんなふうに羽多野の部屋を訪れるだなんて想像もしなかった。

「好き放題させるわけじゃないですから、前に言ったことは忘れないでください」

「わかってるよ、いい加減ちょっとは信用してくれ」

 この期に及んで釘を刺す栄に羽多野が苦笑して、次の瞬間ぎしりとスプリングが音を立てる。

 羽多野は不本意そうだが、これまでの所業を振り返れば信用できないのも当たり前だ。気を抜けば良からぬことをされるかもしれないという疑いは消し去れないので栄は肘をついて身を起こすと体を反転させて上を向いた。

 思ったよりも近い距離に羽多野の顔があった。

「キスはしませんよ」

「わかってるよ、好きでもない奴の粘膜は汚いって、いかにも君が言いそうなことだ」

 そして羽多野はキスの代わりに唇を、ついさっきまで指先で触れていた栄の腹部に落とす。

「……っ」

 熱くて湿った感触は指とはまったく異なる感覚に、栄は思わず息を殺した。続けて唇よりもいくらかざらりとした熱い舌が肌を濡らす。

 目を閉じて羽多野が自分の醜いあざを舐めているのだと想像する。でも恐れる必要などない。今の栄は羽多野に組み敷かれているのではなく「奉仕させてやっている」だけなのだから。

 無知で弱々しくて、だからこそ愛おしかった尚人に、栄は様々なことを教え、与え、満たしてやろうとした。だから同じように今、自分に好意を抱く惨めな男の欲望の一部を満たしてやる。それだけのこと。

 いつだって自分は与える側で施す側――だから孤独でもなければ哀れでもない。栄は強く自身にそう言い聞かせた。