第37話

 自分よりははるかに色事の経験が豊富な男がやることを注意深く見ておきたいというある種の向学心もあるとはいえ、やはり変な奴だなとは思う。打ち身の変色が残る肌など舐めたところで一体何が楽しいのか栄にはさっぱりわからない。

「そんなところ、舐めて楽しいんですか」

 直接的な質問はある種の照れ隠しでもあった。羽多野とのあいだでのこういった、一応は双方合意での性的な行為や――それに伴う隠微な雰囲気には慣れていない。

 羽多野は栄の無粋な質問を無視した。胸の下あたりまではだけたシャツを手で押さえ、奇妙なまでの真剣さで栄の肌をたどっている。丑三つ時近く、どこからも、物音ひとつ聞こえてはこない。まだ乱れてはいない自分と羽多野の息遣い、そしてときおり小さく響く濡れた音。それだけがすべてだった。

 他に何もない、ということはつまり栄の耳はそれらの音と、羽多野に与えられる感触に集中するしかないということだ。否応なしに意識を向ければ不思議なもので、微塵の色気も感じていなかったはずの肌を這う舌からむず痒いようなもどかしいような感覚が生まれはじめる。

「……いつまで、そんなっ」

 思わずさっきより大きな声を出したのは、乱れる息を気取られたくないから。だがもちろんそんなのは無駄な努力だ。つうっと脇腹から滑った舌が、腹のやや下側にある浅いくぼみに入り込み、栄はびくりと腰を浮かした。

「っ!」

 指先がかすめたことくらいはある。しかしそこを直接に触れられるのは初めてだった。粘膜を除けばある意味で一番内臓に近い場所。ごく薄い皮膚の下はもう、体の内側だ。そんな場所に舌先をねじ込まれくすぐられると、どうしようもない不安と不快、同時に切なさに襲われる。

「待って、嫌だそれっ」

 身悶えする栄の体を羽多野が押さえる。前回のような乱暴なやり方ではなく、ごく自然な仕草でなだめるように、腹筋とその下の骨が浮く肌を撫でた。

「大丈夫、谷口くんは舐めるのも舐められるのも慣れてないだけだから」

 何が大丈夫なのかわからない。それどころか言葉とともに唇からこぼれ出た熱い息すら、栄の肌を燃やす。

「嫌だとか怖いだとか、そう思う場所のことは、きっとすぐに好きになる」

「んんっ」

 再び浮き上がる腰を押さえこみ、羽多野は執拗に栄の浅い臍を濡らした。どうしよう――混乱しはじめる頭の大部分を占めるのは羞恥。このあいだだってちょっと刺激されただけで勃起して恥ずかしい思いをした。だが、このままだと性器に指一本触れもしないうちに反応してしまうかもしれない。それは前回以上に惨めで情けない。

「ふ、あ……そこ、やだって」

 嫌だという気持ち。怖いという気持ち。同時に、何かを期待する気持ち。せめてみっともない息や喘ぎは漏らさないよう唇を噛みながらも自分が余裕を失いつつある自覚はあった。

 ふと腹への愛撫が止む。ほっとしつつも微かな落胆――そしてこの先何をされるのか、何を求められるのかという不安に栄は薄く目を開く。ギシリとマットレスが軋む音がして、羽多野は栄を見下ろす場所まで身を乗り上げてきた。

「舐められるのは、嫌い?」

 正面切って聞かれると、どう答えれば良いのかわからない。

「好きも嫌いも……」

 栄は顔を横に向け目を逸らしながら正面からの回答を避けた。体勢を変えたせいで羽多野の真下には栄の耳。熱い息がかかる。

「谷口くんは、どこからどこまで整ってるな。耳の形もきれいだ」

「は?」

 顔、スタイル、センス、あくまで外面限定ではあるが――性格までもあらゆるものを褒められた経験のある栄だが、耳がきれいだと言われたのは初めてだ。パーツを褒めるにしたって普通はせめて腕や指あたりだろう。だからこそ羽多野の言葉には妙にフェティッシュな色気が込められているようで、ふっと耳孔に息をかけられた栄は体を震わせ、思わず持ち上げた手で耳を隠す。

「舐められるのも恥ずかしい、耳を褒められるのも恥ずかしい。まったく君は……」

 まったく何だと言いたいのか。しかし羽多野は続きを口にすることなく、代わりに顔を背けたままの栄の唇に、指先を近づけた。

 まだ乾いたままの唇を、乾いたままの指先がなぞる。これは前にも経験がある。無理やり触れてきた次の朝、栄の潔癖を笑うかのように羽多野はその骨ばった指で栄の唇を割り開き、ねじ込んできた。だが今回の羽多野は多少の行儀を覚えたようだ――もちろんそれが栄にとって歓迎すべきことかどうかは別問題として。

「舐めてよ、谷口くん」

 薄笑いを浮かべて、唇をすりすりと撫でながら羽多野はそう言った。いや、前回よりましだとはいえこれでは行儀が良いとは到底言えない。そもそも奉仕する立場なのに「舐めてよ」とは何事か、せめて「舐めてください」……いや、そういうことではなく。

 思わず思考を飛ばしたくなるくらい、要するに栄はどう反応すべきかがわからなかったのだ。口の中を確かめるように、そこが多くの人にとって性感帯であることを思い出させるかのように動いた指のことは覚えている。だが、今要求されているのはあれとはまるで逆のこと。「舐めてよ」と言われたところで何をどうすればいいのか、その行為が何を意味するのか、栄は測りかねた。

「どうしたんだ?」

 硬直したままでいる栄の唇を親指と人差し指で挟み、羽多野は軽く引っ張る。急かしている風ではないが、栄の沈黙の意味を理解していないのは確かだろう。

「舐めるって……」

 聞き返すこと自体がひどく恥ずかしく思えて、栄の声は自然と小さくなった。

 羽多野はようやくそこで、栄の戸惑いの理由を察したようだった。落ち着き払った男の視線はほんの一瞬だけ驚いたように揺れて、それからそっと栄の唇から指を離した。

「これは別に嫌味でも何でもなく純粋な興味として、俺は一度でいいから君と尚人くんのセックスを見てみたかったと思うよ」

「……何を言い出すんですか」

「いや、ベッドの中なんて百人百様に決まっているんだろうけど、それでもやっぱりさ、俺の思うのとはずいぶん違った――高尚っていうのか?」

 本気でこれが嫌味ではないのだとすれば、よりたちが悪い。栄は馬鹿ではないから「高尚」などという言葉でごまかされはしない。

 自分のこれまでのセックスが気を遣いすぎるゆえに淡白だったことは自覚している。それがもしかしたら、尚人が若く奔放な未生になびいた理由のひとつかもしれないということも。だからこそ栄はこうしてプライドを曲げてまで羽多野のような男の手管を知ろうとしているのに、この態度はあんまりだ。体の内側をゆるゆると満たしはじめていた熱が引いていく。

「そこを退いてください」

 栄が憮然とした表情で胸を押すと、羽多野は苦笑いを浮かべた。

「怒るなよ。別に馬鹿にしているわけじゃなくて」

「俺の耳には馬鹿にしているようにしか聞こえませんでした」

「いや――そうじゃなくて。俺が言いたいのはさ」

 珍しく狼狽した表情を隠さず、羽多野は一度言葉を切る。だが、すでに栄の気分は冷めはじめていて、多少の謝罪や弁解で許してやるつもりはなかった。さらに腕に力を込めて自分の上にいる男を退かそうとする。そして実際、羽多野は動いた。

 思った以上にあっさりと羽多野が引いたものだから、栄は拍子抜けしてしまう。が、それも一瞬のことだ。しゅるり、と布の擦れる音が聞こえて目の前を通り過ぎる濃紺の影。流れるような動きの先に目をやると、枕元に置いてあったはずのネクタイが羽多野の手の中におさまっていた。

「俺が言いたいのは、君が本当に奉仕しがいのあるご主人様だってことだよ。谷口くん」

 そして、羽多野は栄が警戒心を建て直す前に素早くその両手首を捕まえると、濃紺の紐で結びあわせてしまった。

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