第38話

「何やってるんですか!」

 抗議の声を出したときにはすでに両手首は封じられ、頭上にねじ上げられている状況だった。ねじ上げるといっても痛みを感じるほどの強さではないし、柔らかく滑らかな感触はシルク――いや、そんなこと今はどうだっていい。

「いいから、ちょっと黙って」

 羽多野は栄の腕を縛ったネクタイを持て余すかのように周囲を見回している。一体何をする気なのか。指を舐めてやらなかったことがそんなに不満だったのか。

「人を縛っておきながら、冗談……っ」

 思わずそこで言葉を止めたのは、羽多野が急に顔を近づけてきたからだ。キスはしないと宣言したが、この状態で覆いかぶさって来られれば逃げるにも限界がある。

 だが羽多野は額どうしがくっつく直前で動きを止め、栄の唇に人差し指で触れて「しいっ」と声のボリュームを落とすよう合図しただけだった。真夜中だから、いくら防音性に優れた物件とはいえあまりに大きな声を出せば近所に不審がられる。

 黙り込んだ栄を横目に、羽多野はネクタイの端をベッドヘッドの格子状の部分に結びつけた。栄の使っている主寝室のベッドであればヘッドボードも一枚板で、紐を結ぶ場所などなかったはずだ。わざわざ客用寝室まで出向いたのがあだになった。

「何するつもりですか。外してください」

 栄はネクタイが外れることを期待して腕を何度か前後に振るが、縛めは解けるどころか力がかかったことにより結び目はよりきつくなるだけだった。そして決して高級品ではないくせに、やたら重量だけはあるベッドはぴくりとも動かない。

「仕事の段取りでもないのに、こういうときにいちいち説明する必要があるか?」

「仕事と同じでしょう。俺はここに置いてやってる代わりにあなたに……」

 奉仕を許すつもりでこの部屋に来た。しかし縛ることを許した記憶はない。そして、人が人を縛るというのは通常――動きを奪わない限り達成できない目的を持つ場合に限られるのだ。

 羽多野はマットレスの上で上半身を起こした状態で、仰向けに転がった栄を見下ろす。ひと仕事終えた満足さと、縛り付けてなお手のかかる相手を前にした逡巡、その両方が表情ににじんでいる。

「何度も言わせるな、ひどいことなんかしない。ただ君はすぐにくすぐったがるから、ちょっと我慢してもらわなきゃ進むものも進まないだろ」

 何が「ひどいことなんかしない」だ。一般的には人の両手首を縛って自由を奪うことは、それだけで十分「ひどいこと」に該当するのだ。その程度の常識すらこの男には理解されないのだろうか。悪態をつくにも体力が必要だ。圧倒的不利な体制で栄は内心途方に暮れると同時に、不安に押しつぶされそうだった。

「進むものも……?」

 それは一体どんな方向で、何を目指しているのか。羽多野の言葉を小さく復唱しながら自分の唇がすっかり乾ききっていることに気づいた。

「お上品な谷口くんの好きなやり方とは違うかもしれないが、俺たち下々しもじもの人間はセックスのときには唇や舌を使う。ちょっとくらい覚えたって、今後の人生損はないと思うけどな」

 羽多野はそう言いながら栄の右足首に手を伸ばした。両手を拘束されたまま右足をぐいと持ち上げられバランスを崩しかかった栄の下半身を膝の上に引き寄せると、次の瞬間には裸足の足先に唇を寄せていた。

 ちゅ、とわざとらしいまでに濡れた音。常日頃、意地の悪いことばかりを囁いている男の唇が自分の足――右足の親指を迷いなく含むのを目と耳で確かめて、栄は硬直した。

 温かく濡れた感触は知っている。さっき、同じ舌で脇腹を撫でられ、臍を執拗にくすぐられた。だが、今、羽多野の舌は栄の丸い指先をくるりとなぞり、それから親指と人差し指とのあいだにするりと入り込むと、谷間の一番深いところを尖らせた舌でくすぐった。

「おい、離せっ」

 そう言って両脚をばたつかせるが、すでに下半身はしっかり抱え込まれている。それに、栄自身これまで一切知らなかったことだが、足指をくすぐられ、吸われると驚くほどに体に力が入らなくなる。

 腹を舐められるのも恥ずかしかったけれど、足指を口に含まれることにはさらに段違いの羞恥、いや屈辱を感じる。靴を舐めろとか足を舐めろとか、漫画や映画の世界ならばむしろ征服の行為であるはずだ。なのになぜだかこの場を支配するのは羽多野で、屈辱に顔を赤くしているのは栄。何かがおかしいとわかってはいるが、逆転のきっかけをつかめない。

「やめろって。嫌だ……っ」

 指をしゃぶる濡れた音は聞くに耐えないが、手を塞がれているから耳を覆うことはできない。倒錯的な光景に目を塞げば、むしろ足先に意識を集中する結果になる。

 温かい唇が指の先端から根元までゆっくりと、強弱をつけて行き来する。厚いくせに繊細に動く舌先が、短めに切った爪と肉の境目をなぞれば、栄の背はたまらず仰け反った。そして少しくびれた関節をくすぐり、丁寧に丁寧に、羽多野は栄の足指を味わい尽くした。

「嫌だ、そんな汚い場所」

 栄がほとんど泣き声のような声をこぼすと、羽多野はようやく栄の足から唇を離した。

「汚いって? 今の今まで一時間も風呂に入ってたのに、冗談だろ」

「風呂とかそういう問題じゃない!」

 言い返しながら、本当は栄も何が問題なのかはわかっていない。唇や首筋は良くて、なぜ足の指は嫌なのか。それが性器だったらどうなのか。理屈ではなく感覚的なものだ。

 栄がよっぽど惨めな顔をしていたのか、羽多野は一瞬いたたまれないような顔をした。それから息を吐くと再び栄の足首を持ち上げ、まだ唾液で濡れた指をまじまじと眺める。

「そんな情けない顔しなくたって、君の足はきれいだよ」

「羽多野さんのやり方はわかってきました。とりあえず何でもきれいだって言っておだてれば、俺がごまかされると思ってるでしょう」

「そうしないと君がいちいち腹を立てて、何ひとつ進まないからだ。汚い汚いって、セックスなんて大体が裸で体液まみれになるもんだろ。足舐められたくらいで恥ずかしがって八つ当たりする方が大げさすぎる」

 栄の過剰な反応に羽多野もいいかげん苛立っているようだった。

 そんなの嘘だ。音を立てて指をしゃぶられて、舌を這わせられて身悶えるなんて、完全なる倒錯だ。まくし立てようとして栄はぐっと言葉を飲み込む。言い負かされることは嫌いだ。でもここでいくら言い争って自分の正しさを押し付けたところで、結局これまでの人生でセックスの経験が少ないのもセックスが一因で恋愛を失ってきたのも事実だった。

「――っ」

 険悪になりかかった空気を破るのは羽多野。舐めれば怒りを掻き立てるだけだと思ったのか、指の腹でそっと足裏をなぞる動きに栄は再び腰砕けになった。

「ところで谷口くん、気づいてる? 足の指舐められただけで勃ってるってことに」

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