第39話

 指摘されてはじめて栄は視線を自分の下半身に向けた。スウェットをあからさまに持ち上げる場所を恥ずかしく思うが、意識してしまったが最後おさまるどころか体中の血液がそこに集まりはじめる。

 羽多野は改めて栄の足首を持ち上げると音を立ててくるぶしに口付けて、そのまま濡れた唇でふくらはぎまでなぞるとおもむろに動きを止める。

「あ……」

 突然手が離れ、栄の足はシーツの上に落とされる。足指からふくらはぎ――ずいぶん距離はあるのに、たったそれだけでも愛撫が欲望の核心に近づいたような気がしていたのかもしれない。解放によりもたらされたのは安堵よりもむしろ落胆だった。

 思わず腰を浮かしそうになる栄を、羽多野は満足げにじっと見下ろしている。

「大丈夫、そっちも後でちゃんとするから。でもそのためには君もちょっとは頑張らなきゃ。ひとつでも新しいことを学ぶとか」

「学ぶって、何を」

 条件を付けられている時点でまったく「大丈夫」ではない。高まる性感に追い詰められ言葉に焦りを滲ませる栄を前に羽多野は、しばし思案のポーズを続けた。

「そうだな。例えば、指は性感帯です……とかさ」

 何をいまさら。そんなことはすでに身をもって理解した。言い返したいところだったが、自分が足指への愛撫にひどく感じてしまったことを口に出して認めることには躊躇した。

 言葉に詰まってぎゅっと閉じた唇に、再びゆっくりとした仕草で指先が近づいてくる。こじあけられる方がよっぽどましだが、やわらかく唇に触れて思わせぶりにそこに留まる。

 栄は視線だけを下に向けて羽多野の手を見た。長い指、爪は短く清潔に切りそろえられている。雑で無神経なように見えて、実は細かなところまで気を抜かない男。末端の身だしなみについても同じだ。つまり――少なくとも羽多野は一般的な清潔不潔の概念だけで判断するならば、そう警戒すべき相手ではない。栄は自分自身にそう言い聞かせてみた。

 足指を舐められたことを思えば手の指などたいしたことないはずだ。自己暗示のように頭の中で繰り返しながら、噛みしめていた顎の力を少しだけ緩める。

 これが羽多野のやり方だということはわかっている。過激な刺激や言動でショックを与えては少しずつ栄の許容範囲や常識のラインを動かしていく。――でもこれを拒み続ける限り自分は永遠に変われない。

 栄の心が揺らいでいることに気づいているのだろう、羽多野は沈黙を保ったままで言葉なり行動なりでの反応を待っているようだった。

 視線を合わせることができない栄はじっと羽多野の指を見つめていた。そのうちにふと、人差し指のちょうど付け根あたりに小さなほくろを見つける。前に指をねじこまれたときには気づかなかった。驚きと嫌悪でそれどころではなかっただろうか。だが少なくとも今は、羽多野の手をじっと観察するだけの余裕がある。そう思うと少しだけ心が落ち着いた。

「そんなところにほくろがあったんですね」

 栄がつぶやくと、羽多野もまるではじめて気づいたかのように自分の手に視線をやった。

「そういえばそうだな。気にしたことも指摘されたこともなかった」

 いかにも頭脳労働者らしいきれいな指だが、きっと正直な感想を述べればいつものように笑って「谷口くんの指の方がきれいだ」と茶化すのだろう。そんなことを考えながら栄はそっと口を開いて、羽多野の指先を唇で挟んだ。

 つるんとした爪の感触。おそれたほどの違和感はない。だからもう少しだけ、次は第一関節まで。

 羽多野は少しだけ体を寄せてきた。右手を栄にくわえさせたまま左手で髪を撫でてくる。普段ならばうっとうしいと押し返すところだが、今はそこまで不快には感じない――ということを認めたくはないので、栄はそれを両手が自由にならないせいだと考えることにした。

 まだ湿っている栄の髪を、羽多野の指がゆっくりと梳く。一度撫でられるたびに数ミリずつ侵入を深める指先はまず舌に触れ、やがて唇が次のくびれに到達する。これはきっと第二関節。

「さっき見たほくろの位置まで舌を伸ばせる?」

 そう囁く声はくすぐったい。

 つい少し前に指を舐めるよう言われたときには、どう反応すべきなのかわからなかった。何を求められているのか、その行為に意味はあるのか。でも今は自分がどう動くべきなのかわかる。栄は無意識のうちについさっき足指に施された愛撫を思い起こし、その動きをなぞっていた。

 先端から付け根まで唇をすぼめ、緩め、行き来する。舌の腹を使って強く舐めたかと思えば、尖らせた舌先で指と指の狭間――最も敏感な場所をつついた。拭うことの叶わない唾液が唇を濡らし、いやらしい音を立てて、やがて滴り栄のシャツに小さな染みを作った。

「さすが賢いだけあって物覚えがいい。一度手本を見せただけで完璧だな。才能あるよ」

 髪に指を絡めながらそう言う羽多野の声は少しだけかすれているようだった。栄ははじめたときと同じくらいゆっくり羽多野の指から口を離すと、反論の言葉を口にした。

「全然嬉しくないです。調子に乗らないでください」

 そもそも何の才能だ。憮然としながらも羽多野の声色や目の端の色が変化を見せていること自体には悪い気がしない。自分がやられっぱなしではないのだと証明したような気持ちになる。

「そんなに警戒しなくたって、君にナニを舐めろなんていう気はないから」

「当たり前でしょ」

 行き過ぎた冗談は即座に否定しておく。ちょっと言うことをきいてやったからといって、そこまで調子に乗られてはたまらない。

 複雑な気持ちだった。あのとき――浮気を知った後で無理やりに尚人を抱いたとき、栄ははっきりと尚人の体が、セックスが変わったことに気づいた。ひどく怒って、それと同時に異常な興奮を覚えて――。

 自分は本当はどういう人間なのか、ますますわからなくなる。ただ尚人に優しくしてやりたくて、紳士的で抑制的なセックスに満足していたのも自分。他の男の影を想像して暴力的に恋人を組み敷いたのも自分。そして、目の前にいる鼻持ちならない男を下に見て奉仕させたがるのも、その羽多野の指を濡らしてほんのわずかでも乱れさせることに屈折した優越感を抱くのも、何もかもが同じ谷口栄という男なのだ。

 複雑な感情が胸の中に渦巻く。足を舐めさせ屈服させて、それと同時に自分だって人並みのことができるのだと思い知らせて、その先には一体何があるのか。馬鹿でお堅いだけの男ではないと羽多野相手に知らしめることにどんな意味があるのか。

 少なくとも確かなのは、この場で答えが出ることはないということ。だから栄は、余計な思考を追い払うように再び羽多野の指に舌を伸ばした。今はもう、何も考えたくない。

 だが、意外にも羽多野は逃げるように手を引いてしまう。

「谷口くん、もういい」

 あれだけ舐めさせたがったくせに、今度はやっぱりやめろだなんて。自分勝手な翻意に栄は顔をしかめるが、羽多野が落ち着きなく身じろぎしたので理由を察する。視線をゆっくりと動かすと、羽多野が寝間着にしているスウェットにも勃起の影が見えた。

 なんだ――人のことをさんざん笑っておきながら。余裕を気取っていた羽多野の思わぬ反応に笑いがこみ上げた。

「何を隠そうとしてるんですか。指舐められて興奮するのがおかしいことじゃないって言ったのはそっちでしょう」

 腹やへそ、足指を舐められて勃起したことはたまらなく恥ずかしかった。しかし羽多野だって手指への愛撫だけでそこを硬くしたのだと思うと急に気が楽になる。

 栄の反撃に一瞬体裁悪そうな表情を見せた羽多野だったが、ため息ひとつで立ち直った。

「そっちこそ、舐めて興奮する気持ちもわかったんじゃないか?」

 するりと撫でられた栄のそこは、さっきよりもさらに硬く熱くなっていた。

「えっ? ……んっ」

 ためらわず衣類を引き下ろされ、弾けるように栄の勃起が外気にさらされた。前回は背後からだったから、そこまでしっかりと見られたわけではない。だが今は明かりの下。栄はあおむけに横たわっていて、しかも両手を拘束された状態だ。

 耳を褒めて、足指を褒めて、これ以上変なことを言ったら蹴りつけてやるところだが、いくら羽多野でも空気を読んだのか卑猥な言葉は降ってこなかった。

 むしろ羽多野もそれなりに切羽詰まった状況だったのかもしれない。早急とも思える動きで栄の性器を握り、上下に擦りはじめる。そして、待ち望んだ直接の刺激に栄の体はあっけなく理性を裏切った。

「あ、あ……あっ」

 唾液で湿ったままの唇からさらに濡れた声が次々こぼれる。

 おかしい。何をしたわけでもない、ただ指を舐めただけで酒に酔ってもいない。なのになんでこんなにも、どうしようもないほどの快楽に飲み込まれてしまうのか。

 あっという間に先走りで濡れたそこが音を立てる。ただ擦られるだけではたまらず、先を求めて栄もいつしかゆるゆると腰を揺らめかせ、そのたび上向きに引っ張られる両手首を邪魔だと思った。

「手、いいかげんに外せよ」

 ここまで来て、逃げもしないし殴りもしない。頼むというよりは半ばうわごとのように栄が訴えると羽多野は薄く笑う。

「外したら、君も手でやってくれるの?」

「それは……っ」

 羽多野は大きな手で栄に直接触れている。同じことを要求されて――確かにさっきまではありえないと思っていたのに、羽多野の指を舐めることはできた。いや、でもいくら手とはいえ、好きでもない男の性器に直接触れるなんて無理に決まっている。躊躇する栄を横目に、羽多野は腕を伸ばすと片手でだけを器用に使って申し訳程度にネクタイの結び目を緩める。だが、それだけだった。

「悪いけど、今日は俺もちょっとくらいはご褒美が欲しい」

 指を舐めてやっただけでも十分すぎる褒美だと言いたいのは山々だけれど、栄はぎりぎりのところで言葉を飲み込む。

 ――そういえば、このあいだはどうしていたのだろう。

 羽多野だって普通の男で、今こうやって栄の痴態を見て栄に指を舐められたことで性的に興奮している。無理やり組み敷いてきた夜だって、栄が気付かなかっただけで勃起くらいはしていたのではないか。

 これはあくまで羽多野からの奉仕。でもそれに対して見返りを与えるのだとすれば、何をどこまで? そんな戸惑いを読み取ったかのように羽多野は栄の耳に唇を押し付けた。

「谷口くん、直接は触れないから。嫌だったら、目を閉じて」

 同時に羽多野の手が離れ、愛撫の手を失った栄のペニスには布越しに熱く硬いものが触れてくる。羽多野は自らは衣服を脱がないままで、勃起した場所を強く栄に押し付けた。

 一体これは何なのか――栄にとって許容できる行為なのか、そうではないのか――考えるより先に強い刺激が思考を奪う。

「あっ、あ……」

 重い体が重なってきて、布越しに熱く硬い感触が栄の欲望を刺激する。かすれた声と熱い息が絶え間なく耳に注ぎ込まれ、それは栄のよく知る羽多野のようで、見知らぬ男のようでもあった。

 ともかく今は――自分の手で慰めることも羽多野の手に触れられることも叶わないのならば、すがるものは「これ」しかない。体の自由を奪われたまま栄は夢中になって、じっとりと濡れた布越しに自らの熱量を羽多野のそれに擦りつけた。

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