第40話

 週明け、月曜日の午前中に申し訳なさそうな顔をした長尾が栄のオフィスを訪れた。

「谷口さん、金曜はどうもすみませんでした」

 長尾の乗った鉄道が遅延したおかげで栄は羽多野を食事に誘うことになり、その帰りに偶然トーマスたちと出くわしパブに繰り出した結果があの夜の出来事。風が吹けば桶屋が儲かるの逆バージョンとでも言うべきか、長尾さえ時間通りにロンドンに戻っていれば何も起こらなかった。

 かといって長尾を恨むのもあまりに身勝手だと理性では理解しているから、栄はいつも通りにこやかに応じる。

「いえ、長尾さんこそせっかくの金曜に大変な目に遭いましたよね」

 結局、後続の列車に乗り換えた長尾がロンドンに到着したのは夜九時過ぎ。ウィークエンドの上り列車はたいそう混雑していて疲労困憊したのだと顔をしかめた。だがこの自衛官がわざわざ朝から栄の元を訪れたのは、急遽食事の約束をキャンセルしたことへの謝罪だけが目的ではなかったようだ。

「結局、誰か代打は見つかったんですか? もし急な誘いだからって相手の分まで出したようだったら、その分の金は払いますから」

 律儀な長尾は支払いのことを気にしているのだった。気遣い自体はありがたいが、栄は首を振って申し出を断る。

「友人を誘って割り勘したんで長尾さんは気にしないでください。テイスティングメニューを試してみたんですけど、どれもなかなかうまかったですよ。アラカルトの価格帯もそこそこで、ワインも他の酒も種類多かったです」

 もちろん割り勘というのは事実ではなく栄は羽多野の分を含めて全額を支払った。だが、もともとこういう場面で気前のいいふりをしてしまう性格に加え、自分が誘ったのが大使館の同僚ではなく羽多野だということが引っかかり、とてもではないが長尾から金を受け取るような気分にはなれない。

「そっか、良かったです。いい感じだったなら今度の出張者対応そこに決めようかな」

「俺も、来月日本の元上司が来るんで予約入れようと思ってます」

 レストランへの同行者についても深掘りされることはなく、栄は安堵した。ショップカードを多めにもらってきたことを思い出し、名刺入れから取り出したそれを渡すと長尾は重ねて礼を言った。

「それと、谷口さんにはまた借りができちゃったから、金曜の分もまとめてそのうち改めてご馳走しますよ」

「はは……」

 長尾と食事に行くと言ったときにやたら絡んできた羽多野のことを思い出し、栄はあいまいに笑って見せた。あのときはただ機嫌が悪いだけなのだろうと思っていたが、今では――。

 再び長尾と出かける予定を入れたと伝えたなら羽多野はどんな反応をするだろうか。前回同様に相手は好みのタイプなのか、いい男か、としつこく聞いてくるだろうか。その声色に嫉妬の色が滲むところまで想像したところで長尾が「そういえば十時から参事官と来客対応なんだった」とつぶやいた。

「え、十時……?」

 反射的に腕に目を落として、今日はそこに何もないことを思い出しひとり気まずさに襲われる。栄が動揺していることになど気づかない長尾は壁の時計が九時五十五分を指しているのを確認するとあわてた顔で部屋を出て行った。

 栄は椅子に座り直すと、ワイシャツの袖からのぞく左手首に改めてそっと視線を向ける。そこは普段ならば愛用のIWCポルトギーゼ・クロノグラフが巻いてある場所だ。値段へのやっかみ込みで若いのに老けた趣味だと揶揄されることもあるが、洗練されたシンプルな盤面が気に入って、就職祝いに買ってもらって以来ずっと使い続けている。

 外出するときには必ず身につけているので百グラム程度の重みはほとんど体の一部になっている、その時計をしかし今日は家に置いてきた。時間を確認するだけならスマートフォンがあれば不便はしないし、うっかり紛失する危険性を考えるとポケットやカバンに入れるという選択肢はなかった。

 ――それもこれも。

 そっとワイシャツのカフスを上にずらせば、両手首には赤く擦れた傷がまだ生々しい。ひどい傷ではないが腕時計をつければちょうど痛むそれは、絹のネクタイで縛られたことによりできたものだった。思い出すと顔が熱くなり、他の人間に気づかれないよう書類を読むふりで栄は下を向く。

 金曜から土曜にかけての深夜、振り返れば頭がどうかしていたとしか思えないのだが栄は自ら羽多野のいる寝室へ足を向けた。酔いは覚めていたので酒のせいにはできないし、残念ながら記憶も隅々まではっきりしている。

 セックスの真似事と呼ぶにもあまりに奇妙で、倒錯的な行為。羽多野は栄の体のあちこち――とはいえ乳首や性器といった核心部分を避けて――を唇と舌を使ってしつこく愛撫した。それどころか、栄にも対しても同じように彼の指を舐めるよう促した。

 ただ体の末端部分を舐め合うだけの行為になぜだか栄も羽多野もひどく興奮した。腕を縛られたままの栄に覆いかぶさった羽多野は勃起した栄のペニスに衣類越しに自分の下半身を激しく擦り付けてきて、栄も堪えきれずその刺激に応じた。最後はほぼ同時に果てただろうか。その瞬間、耳をくすぐった熱い息と感極まった低い呻き声。あんな男の吐息を色っぽいと感じてしまったのは気の迷いだったと信じたい。

 荒い息を落ち着けてから体を起こした羽多野のスウェットの前は、彼が出したものと栄が出したものでひどく濡れて色を濃くしていた。羽多野は一枚も脱がないままだったが栄の下半身はむき出しだったので、精液のいくらかは腹に飛んでいた。そして羽多野は伸ばした指先で白濁を拭うと、今回もまたそれを口にした。

「ちょっと、そういうのやめて下さいって!」

 まだ縛られたままの栄はそう言って脚をばたつかせた。前回、栄の精液を手のひらに受け止めた羽多野はそれを舐めた。激怒した栄に殴られて学習したかと思ったが、まさか二度同じことを繰り返すとは。前回と異なるのは栄の体の自由が奪われたままで、うまく攻撃を加えることができないこと。

「いや、この中に数千だか数億の子種がいるんだと思うともったいないじゃないか?」

「気持ち悪いこと言わないで、さっさとこれ解けよ変態!」

 茶化してくる男に、強さは不十分ながらも数発は蹴りを入れることができただろうか。羽多野は指についたものをすべて舐め取ってからおもむろに身を乗り出してようやく栄の手首を戒めるネクタイを解いた。

「ったく、嘘吐き。俺が嫌がることしないって言ったのに」

 栄の両手首には真っ赤な擦り傷が痛々しい。縛り方自体は余裕を持たせたものだったが、快楽の波の中で知らず暴れ擦れてしまったのだろう。

「言っておくが嘘はついていない。谷口くんが暴れたのは嫌だったからじゃなくて気持ち良かったからだろう。忠実な使用人に罪を押し付けるのは理不尽だ」

「何が忠実だよ、ふざけんな」

 枕を投げつけながら、ともかく下着とスウェットを引きずり上げてみっともなく露出した下半身を隠す。一時間以上もかけて入浴したのに、汗や唾液や――体から出したもので全身がどろどろだった。

 ただ手で触れられただけの前回と違い、羽多野の唾液であちこち濡らされたのだと思えば体を清めずに寝室に戻ることはできない。疲れた体を引きずって起き上がろうとしたところで羽多野が栄を制した。

「風呂溜めてくるから、ご主人様はどうぞそのままお待ちを」

 一応は使用人らしい動きをする気はあるらしい。疲れ切った栄はうなずいて部屋を出て行く羽多野を見送った。

 すぐに微かな水音が聞こえはじめ、しかし記憶はそこで途切れている。目を覚ますと隣に羽多野がいて、栄の体はきれいになっていた。風呂に入った記憶が抜け落ちているのかと思ったがもちろんそんなことはない。

 あんな恥ずかしい目に遭わされた上に、同じベッドで眠り込むなんて――昨晩の出来事を思い起こして羞恥と屈辱に身悶えている栄の隣で、遅れて目覚めた羽多野はこれまでに見たことない無防備な寝起きの顔を晒しながら言った。

「だって、俺が戻ってきたら谷口くん気持ち良さそうに寝ちゃってたからさ。風呂が沸いたっていくら言っても起きないし。あのまま寝かせたら怒り狂うのわかってるから一応全部綺麗に拭いてやったんだから、文句は言うなよ」