第41話

 栄は何も言い返せなかった。

 もちろん頭の中には瞬時に多くのことが駆け巡った。本当に起こそうとしたのか。体を拭いて着替えさせたというのはつまり全裸にして触れたということなのだろうが、本当に余計なことはしなかったのか。なぜカウチに行かずに同じベッドで寝たのか――。

 すべての疑問に口をつぐんだのは、羽多野のことだからきっと栄の質問に真面目には答えないと思ったからだ。いや、仮に本当のことを言ったとしても、栄がこの男の言葉を信用していない時点で意味はない。

 あらぬところを見たり触ったりしたと言われればもちろんショックを受けるし、かといって何もしていないと断言されたところで疑心暗鬼を引きずるのだ。だったら何も聞かないままでいたほうが精神衛生上はまだいくらかましなのではないか。

「……それはどうも、ご面倒をおかけしました」

 そう言ってそそくさと部屋を後にする栄を、羽多野は奇妙なものを見るように眺めていた。

 土曜日と日曜日は自宅が針のむしろのように感じられた。相手も内容も大きく異なってはいるものの、栄にとって他人と肌を触れ合わせることも、同じベッドで眠ることもはじめての経験ではない。

 もちろん尚人との関係でも、表に出さないようにしていたとはいえ最初のうちは些細なことに緊張して動揺した。とはいえ何をするにも栄がリードするという暗黙の了解があったかつての恋人と、今家に居座っている男はあまりにも違っている。

 同じ空間にいるというだけで舐められた足指のくすぐったさが蘇るようで、でもそんな自意識過剰に勘付かれたくなくて、栄は落ち着かない休日を過ごした。

 一方の羽多野は普段と変わらないどころか、むしろ図々しさを増したようにすら見える。土曜の朝に改めてシャワーを浴びなおし身なりを整えている栄の後ろを通りすがる際にさりげなく髪に触れられてきて、さすがに黙っていられなかった。

「ちょっと、触らないでください」

「髪の毛くらいで騒ぐなよ。小学生女子かよ」

「これまで何度も言ってますよね。俺が嫌だっていうことはしない、って」

「……はいはい。ご主人様の後ろ髪に寝癖がついたまま外出したらさぞかしお恥ずかしいだろうと思ったんですけど、余計なお世話だったなら俺が悪うございました」

 慇懃無礼な言葉には当然ながらこれっぽっちも謝罪の意思は感じられない。それどころかまるで髪に触れることなど彼にとって当然の権利であるかのように振舞う。

 正直不思議にすら思える。栄だってさんざんな痴態を見せてしまったが、羽多野だっていつものように余裕しゃくしゃくとはいかなかった。腹や足を舐められたくらいで勃起した栄がみっともないというならば、手の指を舐められたくらいで興奮して性器を擦り付けてきた羽多野だって同じくらいみっともないはずだ。なのにこの男には、気恥ずかしいとか照れくさいとか、そういった気持ちはこれっぽっちも存在しないのだろうか。

 ――汚い汚いって、セックスなんて大体が裸で体液まみれになるもんだろ。呆れたような羽多野の言葉が蘇る。きっとそういう、根本的なところからして違っているのだ。

 羽多野はきっと、人と人とが触れ合うことが恥ずかしくてみっともなくて、きれいではないと考えている。それを当然のこととして受け入れているからこそ、みっともない自身の姿を耐えがたいものとは考えていないのだろう。もしかしたら、栄以外の多くの人間はそうやって恋愛やセックスと向き合っているのかもしれない。

 耳にかかる熱い息や吐息。今まで聞いたことのない切羽詰まった声色に、ずっしりと重い体。手首を縛られていたから逃れることができなかったが――逆にあのとき自分を縛めるものがなければ自分はどうしていただろう。

 俺が嫌だっていうことはしない。本当はそんな約束に何の意味もないこと知っている。だって栄自身「本当は何が嫌で、何が嫌ではないか」など今ではもうわからない。

 ポン、と小さな音を立ててラップトップがメールの着信を知らせる。そこで栄ははっと顔を上げた。

 いけない。仕事中なのに集中力を切らして、よりによっていかがわしいことを考えるなんて。それもこれも目につきやすい場所にある手首の擦り傷のせいだと忌まわしく思う。ネクタイは外れて今の栄は自由なのに、なぜだか心も体も不自由であのまま羽多野に縛められたままでいるような気分になる。

 これ以上余計なことを考えまいと首を振ってからメールボックスを開く。

 霞が関の仕事が国会や政治に振り回され他律的かつショートノーティスのものが多かったことに比べ、仕事の分担がはっきりしており比較的予定の見渡せる大使館業務はある程度自力でのコントロールが可能だ。とはいえ、担当範囲関わらず日本の同僚たちがやみくもに投げてくる質問や調査依頼には閉口する。

 栄の今の身分は産業開発省の職員ではなく、あくまで出向先の外務省にある。本来の所属とはいえ産業開発省からの雑務をいくらでも引き受けることができる身分ではないので、ちゃんとした調査や対応を依頼したい場合は外務省を経由して調査訓令と呼ばれる依頼書を送るように依頼している。しかし過去に世話になった先輩などが「ちょっと調べて欲しいんだけど」などと個人的な相談の体でメールを送ってくれば、邪険にするわけにもいかないのだ。

 英国の法解釈についての重箱の隅をつつくような質問、公的な統計資料には乗っていない数字……先方政府に聞いたって相手にしてもらえないことがわかっているものについては、アリバイ作りで一度くらいは担当者へメールを送ってみるか、申し訳程度に栄本人がウェブで検索。後は「ちゃんと調べましたよ」という体裁のため指定された締め切りより少し先まで寝かしてから「不明」もしくは「該当データなし」の回答をする。

 どうせ直接送られてくるメールなんてその手の雑件だろう……そう思いながらメールボックスに目をやると、重要案件を意味する赤いエクスクラメーションマークに「【緊急】【重要】」の文字。あわてて開封すると、短い文面が飛び込んできた。

 ――前から言ってた出張、確定したので美味い店を確保しておくこと。もちろんインド料理以外で。超VIP待遇でよろしく。 友安

「……なんだ」

 面倒くさい仕事かと身構えたところを完全に肩透かしだ。だが少なくとも店についてはもう目途がついている。栄は返信メールを打ちはじめた。

 結局午前中はほとんど仕事にならず、気晴らしに昼は外に出た。少し前ならばこういうときは大使館のすぐ向かいにあるグリーンパークを散歩しながら頭をすっきりさせて、テイクアウェイのサンドウィッチで軽く腹ごしらえするのが定番だった。しかし十月も半ばのロンドンは既に短い秋を終えようとしていて、外でランチという気候でもない。

 結局数ブロック離れたところに新しく開店したばかりのカフェに入った。鮮やかな野菜や雑穀がふんだんに使われたチキンサラダは味とボリュームの割に値は張るが、健康に良さそうでインスタ映えも十分だ。狭い店内にいるのは「意識高いです」と額に書いてあるような若者やビジネスマンで、自分もそのひとりなのだと思うと気恥ずかしかった。

「谷口さん。お昼からの戻りですか?」

 店を出て少し歩いたところで肩を叩かれ、振り返るとトーマスがいた。金曜といい今日といい、何かと路上で遭遇する運命なのだろうか。

「うん、そこの新しいサラダバー。ちょっと高いけど悪くはなかったよ。トーマスも昼?」

「そうです。この先にラーメン屋が出来たの知ってます? 日本人経営じゃないですが、まあまあでした」

「へえ。やっぱり豚骨なの?」

 ここロンドンでも日本食は人気で、特に中心部では石を投げれば日本料理店に当たるといって差し支えない有様だ。一部の日本人経営の店を除いては、純粋な日本人にとっては「なんちゃって」の域を出ないのだが、それでも外食で気軽に日本食的なものを食べられるのはありがたい。豚骨ラーメンは特にここ数年の流行で、日本の有名チェーン店も進出してきた。

 とりとめのない話をしながら並んで歩き、周囲に大使館の同僚の姿が見えないことを改めて確認してからトーマスは少し声をひそめた。

「金曜は本当に、急に誘ってすみませんでした。私たちもちょっと酔って気が大きくなっていたので、ご迷惑だったなら……」

 見た感じではわからなかったが、金曜日のトーマスとアリスは一軒目のレストランで食事をしながらすでにワインを二本も開けていたらしい。酔いが覚めてから改めて、栄と羽多野をパブに誘ったのは迷惑ではなかったか不安になったのだという。

 もしかしたら栄が羽多野の存在について口止めしたことや、トーマスが栄と羽多野の関係を勘ぐったことなどが不安の一端になっているのかもしれない。もちろん気にしていないといえば嘘になるが、下手に引きずられても厄介だ。

「いや、本当に迷惑とかそういうんじゃないから。素敵な店を教えてもらって俺も楽しかったし。逆に君たちのデートを邪魔しちゃったなら悪かったって思ってるよ」

 栄の笑顔は、とりあえずトーマスの懸念を取り払う役には立ったようだ。ほっと表情が緩む。

「だったら良かったです。アリスも谷口さんとゆっくり話ができて楽しかったと言ってましたし、あと、タカはちょっと日本人っぽくないねって」

 羽多野が自らそう呼ぶように言った結果とはいえ、日本語の会話の中で「タカ」という単語を聞くと違和感で胸の奥がむずむずする。だがもちろん栄はそんな気持ちを顔にも口にも出さない。

「あの人、アメリカ生活長いから。子どもの頃と、大学以降もしばらく在米だったみたい」

「ああ話し方でそれは何となく。でも、日本人っぽくないからといってアメリカ人っぽいわけでもなくて、どことなくつかみどころがないというか」

 顎に指を当てて思案げにそう言ったトーマスに、思わず栄は身を乗り出して同意した。あの男に得体の知れなさを感じているのが自分だけではないと知って黙ってはいられない。

「そう! わかる? つかみどころがないんだよ。飄々としてるといえば聞こえがいいけど、仕事にもメンツにも執着がなくて、何を言っても響かないし」

 栄はそこで言葉を止めた。羽多野が物事に執着しないというのは確かなことだが、たったひとつだけ例外があることを知っている。羽多野は栄に対しては執着しているではないか――もう、ずっと前から。そんな考えに到達した瞬間、首から上が一気に熱くなった。

 うっすらと好意の可能性に思い当たって優越感に気をよくした夜よりもっと確かで、もっと強烈な感覚。触れ合った記憶が栄の理性の歪みに拍車をかけているのだろうか。だってあんなに夢中になってみっともないほどに誰かに求められたこと、これまで一度だってなかった。

「谷口さん?」

 急に黙り込んだ栄を不審に思ったのか、トーマスが身をかがめて横から顔をのぞき込んでくる。栄はあわてていつもの穏やかな笑顔を作った。

「……あ、そういえば羽多野さんが、アリスと盛り上がっちゃってごめんって。けど、俺の同僚の恋人に馴れ馴れしくしすぎたなら悪かったって気にしてたよ」

 そういうつもりはない、という部分に力が入ってしまったのは完全に無意識というわけではない。まるで誰かに釘をさすように、そして自分に言い聞かせるように。

「はは、考えすぎですよ。それに、あの人どう見たって……」

 そこまで言って、金曜のように栄が怒り出すことを懸念したのかトーマスは口をつぐむ。だが栄はもう若い秘書の言葉をほとんど聞いていなかった。

 壊れたままの心に、押し寄せる優越感はあまりに甘い。こんな感情間違っているし、あんなどこからどう見ても地雷でしかない相手に深入りしてはいけない――わかっていながら泥沼に足を踏み出していくことを止められない。

  大丈夫、こっちはあんな奴のことなんとも思っていないのだから。いつだって引き返すことができる。そう自分に言い聞かせ、栄はそっと手首の傷を撫でた。