第42話

 熱く濡れたものが肌を滑る感覚にも慣れた、というか慣らされた。首筋を辿ったそれはやがて耳たぶにたどり着き、尖らせた舌先が耳孔に入り込むと、ぴちゃりと湿った音が聴覚を刺激した。

「ん、あ」

 思わず声を上げてしまったのは耳からの刺激のせいだけではない。下着の中にもぐりこんだ手が勃起した竿をするりと滑り、敏感な先端を包む。触れられる回数が重なるにつれて確実に羽多野は栄の感じる場所を学び覚え、さらに拓こうとすらしている。

 先端の薄い割れ目を軽く指先でくじられると、たまらず栄の腰は震える。少し痛くするくらいの方が反応がいい――そう言われたときは羞恥で死にたくなったが、指摘が正しいことは疑いようもなかった。

「谷口くんはここ弄られるの好きだよな」

「う、うるさい。余計なこと言うな……それよりさっさと……」

 今日だってかれこれ三十分ほどあちこち舐められて、触られて、いい加減潮時だ。先を急かすように背中に爪を立ててやると、目の端を微かに赤らめた羽多野は軽く眉をひそめてから再び手を筒状にして求められるままに栄の欲望を煽った。

 息を殺したまま栄が爆ぜると、羽多野はいつもどおり手ですくいとったものを口に運ぶ。栄にとっては屈辱的でたまらないのだが、奇妙な性癖ばかり持つ男としては譲れない行為であるらしく、いくら文句を言ったところでやめてはくれない。指摘して言い返される一連のやり取りで恥ずかしい思いをすること自体が無駄に思えて、最近では半ばあきらめている。

 白濁を舐める男から目をそらし、息を整えながら栄は下着とスウェットを引き上げてベッドを降りた。

「じゃあ」

 そう言って背を向けると羽多野はあからさまな抗議をする。

「おい何だよ、一方的だな」

 一方的――というのは、この半時間羽多野が栄に一方的に奉仕しただけで栄の方からは指一本羽多野に触れておらず、つまり彼の快楽に協力していないことを言いたいのだろう。だが、そもそもがそういう約束なのだ。自称使用人のくせに、都合の良いときだけ対等な権利を持ち出してくる方が間違っている。

 文句を言いたいのは山々だが、横目で羽多野の切羽詰まった場所に目をやれば同じ男として気持ちは理解できる。仕方ないので栄はベッドの縁に腰掛けると羽多野の下腹部へ手を伸ばした。

 ネクタイで手首を縛められたあの晩からはしばらくが経つ。恥ずかしさと気まずさで数日は風呂場から自分の寝室に直行していた栄だが、どちらからともなく緊張は破られた。羽多野が声を掛けることもあれば、栄がさりげない振りでここにやってくることもある。ともかく数日おきの頻度で、二人は触れ合うようになっていた。

 とはいえ栄にとってこれがあくまで「自分に焦がれる哀れな男への施し」かつ「将来の恋愛に向けて自らの性的な未熟さを改善する行為」であることは変わらない。もちろんときに熱に浮かされたまま指を舐めるくらいのことはするし、今ではこうして昂りを静めてやることすらあるが、そこに直接触れるようなことは考えられない。服の上から布越しに触ってやるのが精いっぱいだ。

 一方的な奉仕でよくもこうまで興奮できるものだとあきれるが、羽多野のそこはすでに完全に勃起している。下着とスウェット越しでもわかる、熱くて硬くて――きっとそれなりに立派なもの。栄は自分の性器は見た目も悪くないし大きさだって恥ずかしくないレベルだと思っているが、この男と比べるとどうだろう。思わず布の奥にあるものの太さや長さに思いを馳せて、そんな自分を恥じる。こんなことを考えてしまうなんて、どうかしている。

「羽多野さん、もしかして遅いんじゃないですか?」

「は!? そんなわけないだろ」

 しばらく触れ続けても達しない男に焦れた栄が憎まれ口を叩くと、羽多野は噛みつくように言い返した。普段は栄の文句を適当に聞き流すことが多い男だが、さすがに遅漏を指摘されるのは我慢ならないのかもしれない。

「だったらさっさと出してください」

 そう言いながら栄が嫌味ったらしく視線を時計に向けると、羽多野は柄にもなく顔を赤くして反論を続ける。

「谷口くんが直接触るのは嫌だっていうからだろ。ジャージ越しで、しかもそんなまどろっこしい触り方じゃ……」

 今度は栄がカチンとくる番だ。

「ちょっと! それってつまり、俺が下手だって言いたいんですか!」

 手淫の技術についてであろうが下手だと言われることはプライドが許さない栄はじっとりと濡れた布越しに羽多野の形をなぞる。羽多野の腹がびくりと震えたことに気を良くして、太い幹を丹念に擦り、張り出した場所のすぐ下のくびれた場所もくすぐった。

 羽多野はゴムをつければいいだろうと言うが、栄にはまだ羽多野の生々しい形を直に見て触れる気持ちにはなれない。いや、「まで」ではなくそんなことをする日は永遠にこないだろう。だが――触れられてたまらなくなった羽多野が達するときの顔と声だけは、そう嫌いではない。

「……っ」

 掠れた息を吐いて達する瞬間羽多野はぎゅっと目を閉じる。栄はしっかりと目を開いたままその表情を見つめた。

 以前は羽多野の男としての長所を認めることが嫌で嫌で仕方なかった栄だが、この男が自分に焦がれているのだと思うようになってからは、羽多野の魅力をそれなりに認めるようになっていた。自分よりも優れた男は嫌いだが、大人しくひざを折ってくる場合は例外だ。

 すっきりとした一重まぶたに切れ長の目も、細い鼻筋も、確かにそれなりに男前ではある。――もちろん学生時代に影で「王子」と呼ばれたほど整った容姿の王道をいく栄にはとても敵わないに決まっているが。

 布越しに握ったものがびくびくと震え、じわりと熱く濡れたものが染み出す感触。栄は羽多野と違って精液に触ったり舐めたりして喜ぶ変態趣味はないので、すぐに手を離すとうっすら湿った手のひらをティッシュで拭う。それだけではまだ落ち着かず、すぐにでも石鹸で洗いたくてたまらなくなる。

「はい、これでいいでしょう。じゃあ俺は風呂入って寝ますから」

 素っ気なく顔を背けた栄を、荒い息の羽多野がせめる。

「ったくどこまでも事務的だな。谷口くんは結局俺の体だけが目的なんだ」

「いまさら何を言ってるんですか。最初からそういう約束だったでしょう。羽多野さんこそ使用人だとか言って好き放題してるじゃないですか。第一、俺はあなたみたいに暇じゃないんですから、仕事の前の晩は嫌だって……」

 当初は「よく眠れるから」という触れ込みだった行為だが、度を過ぎれば翌日に疲労を持ち越すことになる。なのにいつだって羽多野はしつこくて栄が消耗するまで許してはくれないのだ。

 栄の文句が長くなりそうだと察したのか、羽多野は手を伸ばしてそれ以上の言葉を推しとどめる。

「はいはい、わかりました。……あ、暇といえば、谷口くんはクリスマス休暇はどうするんだっけ?」

 おざなりな返事の途中で無理やりのように話題が変えられた。そういえばいつの間にか季節は冬。十一月に入り大使館でも休暇の予定についてのやり取りがはじまっていた。

 クリスマス時期に長めの休暇がある英国と、年末年始が休みである日本。どちらかが止まれば仕事にならないという大義名分で大使館員はクリスマスから年始まで長い休暇を取れるのだ。実際この時期にまとまった休みをとって帰省する同僚は少なくないが、栄は今のところ日本に戻るつもりはない。

「俺はまだ来たばかりだし、一時帰国はいいです。そんなに面白くはないって聞くけど、こっちのクリスマスや年末年始にも興味はあるし」

 渡英たったの半年弱で高額の交通費をかけて狭いエコノミーで帰国というのももったいない。何より実家の家族とわざわざ顔を合わせたくはないし、日本にはもはや栄の帰りを待つ恋人すら存在しないのだ。

 英国の祝日に興味があるというのもあながち嘘ではなかった。教会離れ、宗教離れが顕著と言われる昨今の英国だが、相変わらずクリスマスは特別な休日なのだという。

 教会行ったり、家族とのんびりしたりする日だよ。二十五日なんかひどいぜ、公共交通機関やスーパーマーケットはおろか、マクドナルドまで閉まるんだから――久保村はそう言った。比べて年末年始は、カウントダウンイベントこそあるものの長い正月休みがあるわけでもなく、日本人からすればいささか味気なく感じてしまうものらしい。総じてものすごく面白いわけでもないようだが、一度は体験しておくべき異文化だろう。

 誰に煩わされることもなくのんびりと冬のロンドンで、いや、そうもいかない原因が目の前にいる。

「そう言う羽多野さんは……いや、いいです。聞いた俺が馬鹿でした」

 復路の航空券を持たずにやってきて、ホテル代がもったいないからと栄の家に住み着いている男がわざわざ一番フライトの高い時期を狙って帰国するはずがない。聞くまでもなく羽多野はロンドンに居座るつもりだろう。

 栄の予想は正しかったようで、羽多野は勝手にふたりで過ごすクリスマスの計画を立てはじめる。

「じゃあ一緒にクリスマスディナー食いに行く? どっかいいとこ予約して。このあいだの店とかさ」

「絶対に嫌です」

 いくら英国では恋人同士のイベントではないとはいえ、なんの因果でクリスマスをこんな男と。栄は全身でノーサンキューの意思を示しながら、再び立ち上がってドアへ向かった。

 もう手首の傷は消えた。さすがの羽多野も一度で懲りたのか、あれ以降は縛るような真似はしない。いや、実際のところ縛られなくとも羽多野を拒むことをしなくなった分、状況はより複雑になっているのかもしれない。

 照れくさい、気まずい、そんな気持ちも、人の手の感触を思い出した今では快楽に負ける。栄にとって羽多野に触れて、触れられる日々はすでに日常の一部になりつつあった。