第43話

 結局昨晩も自分の寝室に戻ったのは午前一時過ぎ。風呂上がりに廊下で羽多野と出くわしたのが運の尽きだった。触れはじめれば途中でやめることは難しく、結局手練手管に翻弄されるがまま達するまで終われない。

 欲望の制御が難しい年頃でもあるまいし。それともまさか、がっつくさまをみっともないと思われたくなくて自制していた分が今になってあふれているのだろうか。いずれにせよ、この年になって数日と空けずに人肌に触れる自分を客観視すればひどく滑稽でみっともなく思える。

 メントール入りの目薬でなんとか眠たい目をこじ開けメールを打っていると、内線が鳴る。相変わらず不愛想で威圧的なベテラン交換手は「産業開発省の友安さまからです」と告げると栄の返事を待たずに回線を切り替えた。

 あっという間に数週間が過ぎ、友安はすでに英国出張の日程を開始していた。事前に共有してもらっている日程表によるとちょうどヒースロー空港に到着する頃合いだ。直接国内線に乗り継いで会議のあるマンチェスターへ向かうというので、特に栄の方では何も手配していない。復路の乗り継ぎの関係で一晩だけロンドンに宿泊することになっているので、その日に食事をともにする約束をしていた。

 昔なら「大使館打ち合わせ」の名目で日程を水増ししてロンドン観光でも楽しめたのかもしれないけどな、と前に電話で話したときに友安は笑っていた。その手の過去のおおらかだった時代の思い出話はたびたび耳にするが、綱紀粛正が叫ばれるようになって以降入省した友安にも栄にも、そんなぬるま湯のような出張の存在はまるでおとぎ話か都市伝説のように感じられる。

 ともかく退屈なメール返信よりは電話で威勢の良い友安の声を聴く方が眠気覚ましにもなる。栄はひとつ咳払いして、受話器に向けて声を作った。

「もしもし、谷口です」

「お疲れ、着いたぜヒースロー。たった数時間の違いだと思っていたが、体感的にはインドより断然しんどいな。エコノミークラス症候群になるかと思った」

 背後にはいかにも空港らしいざわめき。どうやら友安は乗り継ぎ待ちのあいだに律儀な到着の連絡を入れてきたようだ。いや、律儀というよりむしろ暇つぶしなのかもしれないが。

「でも北米とは大して変わらないでしょう」

 大げさな疲労アピールに栄が苦笑すると、友安は「何年前の話だよ」とぼやいた。確かに彼の留学も十年近く前のことになる。

「しかもこれからさらに狭苦しい国内線だろ。ったく、うんざりするよなあ。まあ海外出張だと飛行機の中で酒飲める分まだましだけど」

「どうせマンチェスターに着いたら今日は食事して寝るだけでしょう。そう文句ばかり言わず、フィッシュ・アンド・チップスとビールでも楽しんでホテルのベッドでゆっくり足を伸ばして休んでください」

 栄だったら自分の発言がある国際会議の前日は準備で酒どころではないが、友安は性格も違えば場数も違う。口ぶりからは緊張のかけらすら感じられなかった。

「そうするよ。本当はサッカーでも観に行きたいところだけどさすがに無理だからな。……あ、そういえば木曜の飯の件だけど。レストランの予約って確定してるんだよな」

 急に思い出したように食事の話を持ち出されて、栄はどきりとする。

「ええ。先日メールでお知らせしたとおりですけど、何か?」

 レストランの名前、ウェブサイトのURL、待ち合わせ時間についてはすでに先週知らせてある。店の雰囲気や料理のジャンルについても確認した上で友安も楽しみだと言っていた。もし今になって急に気が変わったから別の店にして欲しいなどと言われれば面倒だと身構えるが、友安の頼みは想像とはいささか異なるものだった。

「偶然週末に他の奴と話してて知ったんだけど、俺が留学してたときの友だちがロンドンの金融コンサルで働いてるらしいんだ。連絡取って時間あれば会おうって話になったんだけど、こっちの金融経済にも通じてる奴だから谷口も知ってて損がない相手だと思ってさ。……今から飯食うメンバーに入れるの無理?」

「え……っと、確かに興味深いお話ですけど、二人で予約しているので席の追加ができるかは聞いてみないと」

 内心では面倒だと思ったが、元上司の言うことであれば即時に断ることもできない。そして案の定、友安はごりごりと要求を押してくる。

「悪いけど一応聞いてみてよ。大使館ですけどって言えば何とかなるんじゃねえの? 外交官パワーの発揮しどころだぞ」

 言葉の後半は冗談と思いたい――というか栄には肩書で無理を利かせるような恥ずかしいことはできないが、ともかく一度は店に聞いてみないことには友安は納得しないだろう。

「館が懇意にしている店ではないですし、そういうのはありませんけど……まあ一応聞いてみます」

 そう言って電話を切った。幸い店に確認すると運よく席数の変更に応じてもらうことができた。

 正直複雑な気分だ。目の前でアメリカ留学時代の思い出話に花を咲かせられることは、留学経験もなく修士も持っていない栄にとっては面白くない。しかし外交官というのは情報を取るのが重要な仕事だ。ロンドンで働く金融コンサルとなれば今後の情報収集や人脈形成の面でも繋がっておいて損はない。不快感と損得を秤にかければ、もちろん勝つのは後者だった。

 そして水曜の夜、栄は念のため羽多野に翌日の予定を改めて告げた。というよりは「予定のリマインドをしておく」という名目で風呂上がりに羽多野の寝室に寄った。

 ここ二日は仕事が忙しく帰宅が遅かったこともあって、夕食と風呂を終えればそのまま自室に入ることが続いた。そろそろ下半身のもやもやがたまってくる頃合いだし、明日も確実に帰りは遅いとなれば今日あたり一度という気分にもなる。不思議なもので、相手がいないあいだはすっかり消え失せていた性的な欲求も、機会があると思えばきっちり欲望が湧いてくる。

「前にも話しましたけど、明日は出張者と食事に行くので遅くなります。夕食もいりませんから」

「ああ、そうだっけ」

 伸ばされた手がそっと髪に触れる。どうせ後でもう一度シャワーを浴びることになるとわかっているから、洗い方もおざなりでろくに乾かしてもいない。

 羽多野は栄の湿った髪を指先で弄る。怒るのか受け入れるのか、まるで今日の機嫌を試すかのように羽多野はいつもまずこうして髪に触れてくるのだ。もちろん栄の側からこの部屋にやってくる時点で、たとえ多少怒ってみせるポーズはとったとしても拒否するということなどない。触れられた照れくささを隠すために栄は適当な話題を探す。一番手近にあるのは明日のことだ。

「言いましたっけ? 明日食事に行く元上司、留学先で何度か羽多野さんを見かけたって言ってた人です。俺の一年生のときの係長」

「え?」

 羽多野が手を止めた。食事の話はしていたが、相手が友安だということは言っていなかっただろうか。

 そういえば栄が羽多野の学歴を知っていると明かしたのは、この部屋に転がり込まれた最初の夜だった。羽多野はひどく驚いた顔をして、それから気まずいような表情を見せた。ちょうど――今と同じように。

「その元上司、公費留学でコロンビアの公共政策に行ってマスター取ったんですよ。あなたとは直接の知り合いじゃないけど日本人関係の集まりで見た覚えがあるって。夏前に保守連合の本部で会ったとき一緒だったって、話しましたよね?」

 記憶力の良い羽多野が忘れているはずはないのに、改めて動揺してみせる意味がわからず栄は少し不審に思う。栄があの日爆発させた怒りをぶり返すとでも思っているのだろうか。

 怪訝な視線を向けられたことに気づいてか、羽多野は再び栄の髪をすくい薄く笑った。

「ああ、そういえば何度かそういう集まりに出たこともあったかもしれないな。でも公共政策の公務員組って派閥じゃないけど独特の身内感みたいなのもあって、俺とは特に関係は……」

「大きな大学ですし、日本人自体は多いでしょうからね」

「それに、俺は叔父からの借金とか学生ローンとか駆使してたから付き合いも良くなかった」

「へえ」

 言われて、羽多野が下町の庶民的な家庭出身で、しかも小学生の頃には父親の勤務先が倒産した経験を持っていたことを思い出す。アメリカンドリームを求めてアトランタへ行き数年で帰国した話は聞いたが、その後どうやって高額の学費を要するアメリカの有名私大に入学したのかは知らなかった。

 興味は――ないわけではない。だが、そんな踏み込んだ話をしてよいのかと栄の口は重くなる。何しろ尚人とのあいだでだって、金の話をするときにはそれなりの緊張感が漂っていたのだ。

 貸与型の奨学金を借りて大学院まで進学した尚人は、具体的な金額は明かさないが学生の身分でそれなりの負債を抱えていた。栄が就職と同時に自分の父の持つマンションでの同棲を提案したのも、愛しい恋人とできるだけ一緒にいたいという気持ちだけでなく、尚人の経済的負担を軽くしてやりたいという理由によるものだった。だが住居費や生活費を栄が多く負担することに尚人はいつも申し訳なさそうで、ことあるごとに平等な負担を申し出てくる。そのたび言い合いになるのが嫌で栄はできるだけ金の話は避けていた。

 日本の国立大学ですらああなのだから、アイビーリーグ留学ともなればどれほどの金がかかるのか。栄の周囲は裕福な家庭の子女か、もしくは仕事の一環で学費は職場持ちで留学した人間ばかりだから金銭的な悩みについて聞いたことはない。だが、雑誌やネット記事ではアメリカで多額の教育ローンを背負った学生が、学位をとったはいいが自己破産に至るというような話も頻繁に見かける。

 政策秘書の給与自体は決して安くはない上に、気楽な独身貴族であるはずの羽多野だが、もしかしたら実は借金で首が回らないのか? ついそんなことまで頭をかすめる。いや、だったらこんなに呑気に無職生活を満喫などしていないはずだ――栄の脳内を様々な可能性が無軌道に駆け巡った。

 不毛な思考のループが止まったのは、急に羽多野の腕に抱きすくめられた驚きゆえだ。髪に触れていた指が離れ、次の瞬間には背後からぎゅっと腕を回されていた。

「ちょっと……!」

 栄はこんな風に一方的に抱きしめられることを好まない。まるで女にするみたいに抱きしめられるとひどく混乱する。肌を触れ合わせることが増えて、行為がエスカレートして、いずれセックスの問題が出てくるのではないか。最近の栄が意図的に目をそらしている問題だ。

 栄は自分が同性愛者だと自覚して以降も一度だって抱かれる側に回るイメージを持ったことはないし、今だってそれは同じだ。実際に尚人との関係だって常に栄がリードして、いわゆる男役として挿入するのは栄の役割だった。だが羽多野はおそらく元々ノンケで、男とのセックス経験はあるようだが、とてもではないが人に尻を差し出すタイプには見えない。つまり今より進んだ身体接触を求めればおのずと抱くか抱かれるかという問題が生じる。

 栄には男に抱かれる趣味はない一方で、羽多野に突っ込みたいという欲望はない。いや、そもそも次の恋愛への準備としてスキンシップの練習ができればいいだけなので、羽多野とセックスしたいという欲求自体持ち合わせてはいないのだ。だから栄にとって、羽多野がふいに何かの間違いで挿れるのどうのという話をしてくるのではないかというのは密かな懸念材料だった。

 まさかとうとう――軽い拒否にも関わらず抱きしめてくる腕の強さにますます不安を募らせる栄の耳に、羽多野は甘く囁いた。

「行くなよ、そんな奴との食事になんて」