第44話

 長尾と食事をすると話したときも羽多野がやたらと絡んできたことを思い出す。あんな面倒なやり取りをするくらいなら、羽多野がここにいるあいだくらいは長尾との予定は入れないようにするべきかと思いたくなるくらいだったが、それとこれとは話が違う。友安は元上司で、今回の食事だってある意味大使館業務の一貫だ。

「馬鹿なことばかり言わないでください。仕事ですよ? 第一ふたりきりってわけでもないですし」

 ここで抗弁する材料になったというだけで、友人を誘いたいという友安の希望を受け入れておいて良かったと思う。だが、羽多野はさして嬉しそうな様子でもなく、わざとらしいため息をひとつこぼしてから栄の首筋に鼻先を擦り付けた。

 珍しい甘えるような仕草に、寒気と快感の入り混じった感覚が栄の背筋を走る。感情にしろ欲望にしろ直接的にぶつけられることには慣れていない。だからこそ羽多野の仕草や行動は栄を戸惑わせ、翻弄する。そう、ただ慣れていないだけ――。

 羽多野としても仕事上の食事を本気で止める気はなかったのだろう。そのまま首筋に舌を這わせはじめた男はそれ以上不満を口にすることはなく、結局ふたりはそのまま「いつもの晩」を過ごした。

 翌日の夕方、栄は待ち合わせより十分ほど早く店に着くように大使館を出た。羽多野に待たされるのは腹立たしいが、今日は出張者をもてなす身だから決して客人を待たせてはいけない。

 友安はほぼ時間通りに現れた。もうひとり、友安のアメリカ留学時代の友人である四ノ宮という男は少し遅れると連絡があったのだという。

「谷口、元気そうじゃん。初の海外生活が不安だみたいなこと言ってたけどさすが余裕だな」

 おべっかだか本気だかわからないことを言いながら豪快に背中を叩かれ栄は思わず苦笑する。

「余裕なんてないですよ。それより友安さんもずいぶん焼けてますね。仕事忙しくないんですか?」

 インドから日本に戻って以降ずいぶん日焼けの抜けた友安だが、その顔は再び浅黒くなっている。夏休みに南国にでも行ったのかと思ったが何のことはない、日焼け止めクリームを忘れてゴルフに行った結果なのだという。

 大使館の中には日本人職員が多く、家に帰れば羽多野がいる。栄は生活のほとんどを日本語環境で過ごしているし、現地の日本人経営者や日本からの出張者と面会することも多い。日本人相手に日本語を話す機会それ自体には感激もしないが、友安の顔を見れば日本での生活を思い出して妙に懐かしく心が躍った。霞が関の激務など離れられてせいせいしているつもりなのに、自分でも現金だとは思う。

 最近の省内の懸案事項、夏の人事異動について――誰がサプライズでいいポストを手にしたとか、誰が冷や飯を食わされたとか、さらには誰が激務ポストで体調を崩したとか、日本にいた頃はうんざりしていたはずのゴシップすら耳には新鮮に響いた。

 スターターとして軽い料理を数品頼み、とりあえずビールで乾杯の「練習」をする。正直このまま友安とふたりだけで気を遣わず飲み食いして話ができればどれだけ楽か、と思っていたところで入り口側に目をやった友安が右手を上げた。つられて栄もそちらを向くと、スーツ姿の日本人がウェイターに案内されて歩いてくるところだった。

「よお、久しぶり。急に呼び出して悪かったな」

「こっちこそ、何年振りだ?」

 友安が立ち上がり四ノ宮と握手を交わす。がっしりして色黒で強面な雰囲気の友安とは対照的に、四ノ宮はかっちりとした細身の三つ揃いを着込んでいた。

 絵に描いたようなブリティッシュ・インテリ風ファッションは背伸びしすぎでいささかわざとらしく見える。六十点くらいか。確かに稼いではいるのかもしれないが、洗練されているとは言い難い。四ノ宮の身長や外見、センス、社会的ステイタスを値踏みしながら遅れて立ち上がった栄は、爽やかな笑顔を浮かべて右手を差し出した。

「はじめまして、友安さんの元部下の谷口です。今は大使館に出向で……」

「こちらこそお目にかかれて嬉しいです」

 初対面のもの同士らしく名刺を交換して硬い挨拶を交わすが、容赦なく雰囲気を壊してくるのは友安だ。

「いや、情報とか人脈の面でお互い知り合っておいて損はないだろうと思ってさ。仕事柄どっちも利用価値あるだろ」

 そう言って笑うと、まるで自分がホストのように栄と四ノ宮に座ることを促して、ウェイターを呼ぶと追加でビールを注文した。

 ようやく本日のメンバーが勢ぞろいし、「本番」の乾杯をしてからしばらくは友安が場をリードしながら場を暖めるような会話が続く。初めて訪れたマンチェスターの街や参加した会議への印象。今日ここに来るまでほんの数時間だけ歩いてみたロンドンについて。人を楽しませる話術に長けた男のおかげで場は和らぎ、次第に四ノ宮という男も見た目ほどは気取ったところはない人間なのだと思えてきた。

「それにしても、ロンドンはなんとなく東京と似た感じがあるな。もちろん町並みとか歩いてる人とか全然違うんだけど、空気感とか」

 友安のつぶやきに四ノ宮もうなずく。

「わかる気がするよ。街の規模とか人と人の距離感とか、ニューヨークよりは日本人に馴染みやすいよな。もちろん時間指定できる宅配便とか二十四時間いろんなものが手に入るコンビニとか日本の方が便利なところも多いけど、僕は暮らしやすいところだと思うよ。……谷口さんはどんな印象ですか?」

「そうですね。思っていたよりはずっと暮らしやすいです」

 悪意のない質問に「当初は英語に慣れずに苦しんだ」というレベルの低い返事をする気はなれず愛想笑いを浮かべながら栄は再びメニューを手に取った。

 スターターの皿はほぼ空になり、ビールのグラスも残り少ない。そろそろ次にいくべきだろうとメインのロースト料理とワインを注文することにする。

 栄がウェイターとやり取りしているあいだに、さっきの会話に出てきた「ニューヨーク」という単語に引きずられた友安と四ノ宮は留学時代の思い出話をはじめていた。もちろん面白くはないものの想像の範疇だ、栄は笑みを絶やさないまま彼らの話に耳を傾ける。

 友安は中央省庁からの国費留学、一方の四ノ宮は一念発起して新卒で勤めていた商社を退職し民間団体の奨学金を受けて留学していたのだという。

「学費も丸々奨学金で賄えたわけではないし、勤めていた頃の貯金はいくらかあったけど生活は苦しくて。学費全額に生活費まで支給される国費留学生が優雅に映ったよ」

「おい、税金で贅沢してたみたいなこと言うな。俺だって生活に余裕があったわけじゃないし、貯金もかなり切り崩したぞ。留学生への支給額はけっこう渋いんだ」

 当時の生活の苦しさを振り返るふたりの話を聞きながら、栄はぼんやりと羽多野のことを思い出していた。確かに羽多野も学費負担が大きかったと言っていた。そういえば今頃何をしているのかだろう。ひとりで外食しているのか、テレビでも観ながら持ち帰りのカレーかチキンでも食べているのか――そんなことを考えていると、急に「羽多野」という単語が耳に飛び込んできた。

「えっ?」

 話を聞いているふりで意識を飛ばしていた栄がはっとして顔を上げると友安と目が合った。

「……羽多野だっけ? あの、党本部で会った奴。谷口が仕事でやりとりしてたっていう」

「え、ええ」

一 瞬心臓が跳ねた。まさか今その羽多野がロンドンしかも栄のアパートメントに住みついていて――しかも数日おきに肌に触れるような関係だということを友安が知っているはずなどないのに。

 とはいえ羽多野の話をされるのが居心地悪いのは事実だ。あの男の話をするくらいならニューヨーク自慢でも修士号自慢でも盛大にやっていてもらった方がましだ。だが友安からすれば、栄の知らない留学時代の話で盛り上がるのはかわいそうだとわざわざ共通の話題を探したつもりなのだろう。まさしくありがた迷惑そのものだった。しかし、栄の思いとは裏腹に、四ノ宮までも興味深そうに身を乗り出してくる。

「議員秘書って、このあいだ言ってた?」

 このあいだとは何だ。栄は逃げ出したい気持ちになるが、ようやく三人共通の話題を見つけた友安は至極ご機嫌だった。

「そうそう、俺はインドにいたからよく知らないんだけど、去年与党のなんとかいう議員の政治資金スキャンダルで腹詰めさせられたって奴。たまたま谷口と保守連合の本部に行ったときに見かけて思い出したんだよな」

 眉間にしわを寄せて記憶をたぐりながら友安は羽多野の姿を思い出しているようだった。栄にはただ黙って聞く以外にない。余計なことを言いさえしなければ、きっと「そんな奴もいたな」とか「まさか同窓生がそんな目にあうなんて」とか、そして笑って終わるのだ。ただひとつ違うのは、今では羽多野を酒席のゴシップとして消費することに対して栄の胸が痛むことだけ――。

 次に口を開いたのは四ノ宮だった。

「そうそう、友安から電話で聞いたときはそんな奴がいたことも思い出せなかったんだけど、ちょっと気になったからネットで検索してみたよ」

 あのとき友安も羽多野を見て「見覚えはあるけど」といまいち自信がなさそうだった。同様に四ノ宮もすぐには羽多野のことを思い出せなかったのだという。羽多野が言っていた通り、在学年次も専攻も異なるからほとんど面識はないのだろう。

「えっと、あの――」

 ろくに知らない男の話で無理やり場を持たせる必要などない。栄は話題をそらそうと口を開く。しかしその語尾は四ノ宮の発する言葉と重なってしまう。

「写真見て思い出したよ、確かに日本人同窓会の集まりで見たことあった。ただすぐに思い出せないのも当然で、名字が変わっているんだよな」

 その瞬間、自分のいるテーブルだけ時間が止まったような気がした。

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