第46話

 その後どうやって場をしのいだのかすらわからない。タクシーに乗り込む友安と四ノ宮を見送ったときの満足そうな笑顔を振り返れば、とりあえず栄はホストとしての任務は一通り果たしたのだろう。

 一歩家を出れば外向きの顔をすることができる。どれだけ醜い嵐を体の中に抱えていても、温厚な笑顔と丁寧な物腰で非の打ちどころのない好青年「谷口栄」でいることができるはずだ。幼少時から鍛え上げた能力は伊達ではない。公私ともに追い詰められていた時期に、当時の部下にひどい態度を取ってしまったことはあるが、あれはあくまで例外的な失敗だ。

 ようやくひとりになると、ぷつりと緊張の糸が切れた。腕時計で時間を確かめてから栄は少し通りを歩き、目についたパブに入った。ひとりで外で飲むことなんてほとんどないのに、すぐに家に帰りたくはないという気持ちが勝る。たった今耳にした話をどう整理すればいいのか――それ以上に、羽多野なんかのことでひどく動揺してしまっている自分のことをどう受け止めればいいのか――。

 拒んでも拒んでもしつこく追ってくるから、仕方なく家に置いてやっているだけ。ちょうど手近にいる相手だし、好意を寄せられることに多少の優越感をくすぐられたから触らせてやっただけ。別に羽多野がどこで何をしていようと栄にとってはどうでもいいはずなのに。

 一杯目はエールを飲んだが、もっと強い酒が欲しくて次はウィスキーにした。アルコールが喉を焼く感覚がなぜだか今は心地よい。まるで自傷のように酒を流し込み、二杯、三杯、やがて数えるのをやめる。胸ポケットの中ではスマートフォンが震えている。羽多野からの着信であることを確認して、栄はそのまま電源を落とした。

「お客さん、もうやめておきなよ。かなり酔ってるだろう」

 もう何度目の注文だかもわからない状態で小銭を握りしめてカウンターに行くと、店員は呆れた顔で首を振って酒の提供を拒んだ。

「もう一杯だけ。客なんだから、酒を売ってもらう権利はあるはずだ」

 カウンターに身を乗り出して凄むが、相手も伊達に日々酔っ払いを相手にしているわけではない。栄ごときに詰め寄られたところで落ち着いたものだ。

「いや、足元がふらついてる。介抱してくれるような奴も一緒じゃないようだし、これ以上は飲ませられないよ。そろそろ車を呼んだ方がいい。まだ今週は終わっちゃいないんだし、明日……今日も仕事なんじゃないのか」

 言われて周囲を見回すと、いつの間にか客はまばらになっている。腕時計の針は午前一時を指していた。男の言うとおり日付の変わった今日はまだ金曜。仕事で外出する予定も入っている。

 これから帰宅して何時間休めるか、動きの遅い頭の中で計算しながら自嘲じみた笑いが浮かんできた。日本ではこのくらいの時間まで仕事をしているのも外で酒を飲んでいるのも日常の一部だったのに、ちょっと帰宅が日をまたぐくらいでたじろぐなんて。ほんの数カ月で人間の生活習慣とは変わってしまうものだ。

 そう、ほんの数カ月で。

 せっかく馴染んだひとりの暮らしに突然割り込んできた羽多野。当たり前の顔であのアパートメントにも、栄の生活の中にも居場所を作ってしまった。

 もちろんあの男は一時的な滞在資格しか持っていなくて、どれだけ図々しく居座ったところで春までにはいなくなると頭では理解しながら、それでも栄は心のどこかで今の生活が当たり前に続くのではないかと思うようになっていた。家に帰れば羽多野がいて、愚痴をこぼしたり、からかわれて言い争いになったり、たまには一緒にどこかに出かけたり――そして、適度に欲望を散らせる気楽な関係が続いていくのだと勘違いしそうになっていたのだ。

 セックスはしない、恋人でもない。だから栄は彼に期待せず、逆に羽多野が栄に何かを期待しているとしてもそれに応える義務はない。相手が自分の思うようにならないからといって落胆するのも、自分が相手の期待を裏切ってしまうのではないかと不安になるのも、もうたくさんだ。だからこそ一方的に思いを寄せてくる男を適当にあしらいながら寂しさを埋めることに満足していたのではなかったか。

 タクシーで自宅に着くと午前二時。羽多野がすでに寝ていることを期待して栄はそっとドアを開けた。リビングも廊下も暗く、物音はしない。

 友安や四ノ宮から聞いた話を忘れるつもりはないが心の準備の時間が必要だ。とりあえず今夜は羽多野に会わないまま、朝も普段より早く起きて家を出れば少なくとも明日の晩までは時間を稼げる。そのあいだにいくらか混乱する思考を整理することもできるだろう。

 パブの店員の指摘は正しかったようで、栄はずいぶんと酔っていた。頭ははっきりしているつもりなのに足取りが怪しいのは自分でもわかる。闇の中注意しながら歩を進めて風呂に行く。時間が遅いから湯は張らずにシャワーだけで済ませて、とにかく眠ろう。眠れるかわからないけれど、せめてその努力だけでも。

 風呂場に入ると湯船の横にはいつものとおり、羽多野が「ダッキー」と呼ぶラバーダック。やたらと腹が立った。

 どうにかシャワーを終えて寝間着を着る。髪を乾かしたいが、ドライヤーを使えば羽多野が目を覚ましてしまうかもしれないから、栄は泳ぎに行った後に使っている速乾性のマイクロファイバータオルを取り出した。酒酔いの眠気にも襲われ、うとうとと目を閉じながら髪を拭っていると突然人の気配を感じる。はっとして一気に意識が覚醒した。

「仕事の前の日は量は飲まないって言ってたのに、何軒行ったんだ」

 暗闇の中から現れた羽多野の声にはとがめるような色が滲んだ。

「……驚かせないでください、灯りもつけないで。起こしたなら謝ります」

 物音で起こしてしまったのか。それともトイレにでも行きたくなったのか、とにかく気まずい。何か言おうにも全く準備ができていないので、栄はとりあえずこの場をやり過ごすことにする。話をするならば今ではない。

 だが羽多野は、床にだらしなく脱ぎ捨ててあった栄の上着を拾い上げると胸ポケットからスマートフォンを取り出した。

「携帯の電源も切りたくなるくらいの盛り上がり方っていうのは、俺には想像もつかないが」

 栄は振り返り手を伸ばすと、羽多野の手から引ったくるように端末を取り返す。そういえばこの男からの着信がうっとうしくて電源を切ったままにしていたのだった。

「……別に、俺は俺の仕事で遅くなっただけで、別にあなたに知らせる必要なんてないでしょう」

 あんな話に心をかき乱されて、泥酔するまでひとりで飲んでいただなんて死んだって知られたくはない。これ以上探られたくないという気持ちに胸の中で膨れ上がっている羽多野への不信感が重なって、言葉はひどく刺々しい。

 攻撃的な態度をむき出しにする栄に、羽多野はため息をつく。

「別に監視しようってつもりじゃない。ただ、そんな足元ふらふらになるまで外で飲むのは危ないって……」

 数センチ高い場所から見下ろしてくる視線と、呆れたような口調。それが栄の感情のスイッチを入れた。落胆と混乱に傾いていた針が、ぐっと怒りの方向に振れた。

 みっともなく外で酔い潰れる羽目になったのも、そもそも――。

「何様ですか、あなた。俺がどこで酒飲もうと、何時に帰ってこようと、羽多野さんに説教される筋合いなんてありません」

 それでも羽多野は、おそらくまだ楽観的だったのだろう。今の栄が何に傷ついて何に落胆して、どれほど怒りをたぎらせているかを正確には認識していなくて、だからこそいつもと同じ手段で丸め込めると思っていたのだろう。少なくとも栄はそう感じた。

「だって、ご主人様が平日から午前様じゃ使用人としては――」

 これ以上とてもではないが、聞いていられない。栄は鋭い声で羽多野の言葉をさえぎった。

「いいかげんその馬鹿みたいなごっこ遊び、やめてください。もうあなたには付き合いきれない」

「谷口くん……」

 羽多野の顔色が変わるのを見て、栄は自分を止めることができなくなる。少し心を落ち着けてからとか、明日の夜まで待ってからとか――そんなことはもう考えていられない。

 栄は正面から羽多野の目をにらみ、問いかけた。

「羽多野さん、あなたはんですか」

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