第47話

「なんのためって……」

 取り繕うような表情を浮かべて羽多野は一度首筋を掻くような仕草を見せた。動揺しているのは間違いなく――だが羽多野はこの状況になってもまだ栄の様子を伺っているのだろうと思った。栄が何を知っていて何を知らないのかを観察して、出方を探ろうとしている。つまりまだ栄を欺き続けることをあきらめてはいないのだ。

 これと似たような気分を味わったことがある。自分のあずかり知らぬ場所でひどく不穏なことが起こっているのではないかという不安。小さな違和感はやがてはっきりとした形を持ち、見たくなかったものが目の前で明らかになる。

 足がふらつき、栄は背を向けた洗面台に手をついて姿勢を保った。支えるように腕を伸ばした羽多野へは視線だけで拒絶の意思を伝える。そして、言葉に詰まった男相手に続けた。

「羽多野さん、昨日行くなって言いましたよね。俺、てっきりあなたが……俺が他の男を出かけるのを嫌がっているんだと思ってました。でも、違ったんですね」

 一度息を吸って、小さく吐いた。そうだ。先に待ち受けているのは奈落だとわかっているのに踏み出さずにはいられない。尚人の行動に不審を抱いたときも、栄は同じような気持ちで彼のスマートフォンのGPSをたどった。望んだわけでもないのにまた同じようなことを繰り返してしまう。

「行くなって言ったのは、あなたのことを知っている人が余計なことを俺に吹き込むじゃないかと心配だったからなんでしょう。それで、これ以上俺を利用できなくなることが……」

「そういうつもりじゃない」

「だったらどういうつもりだったんですか? また、隠してたわけじゃない、ただ黙ってただけだなんて子ども騙しの言い訳で俺をごまかそうとするつもりですか? あなたって人は、どこまで俺を小馬鹿にすれば気がすむんですか」

 栄の感情的な追及に羽多野は首を振るが、薄っぺらな否定の言葉を信じることはできない。今が真夜中で、数時間後には出勤しなければいけないことも忘れて栄は続けた。

「ちょっと甘い顔を見せたからって思い上がらないでください。言っておきますけど、あなたが結婚していようと離婚していようと俺には何の関係もない。そのこと自体はどうでもいいんです。ただ――」

 怒りのあまり身を乗り出すと、ふっと頭の血が下がるような感覚に続いて体が傾いだ。このままだと床に崩れ落ちる、そう思ったが今度は拒む間もなく羽多野の腕で抱きとめられた。

「谷口くん、ちょっと落ち着いて。話はそれから……」

 ぐいと腕の中に抱きすくめられ、栄の鼻腔にふわりと羽多野のにおいが広がる。同じボディソープを使って、同じ洗剤で洗った服を着た男の香り。うっかり気を許してここに招き入れてしまったばかりに、こんなにも惨めな気持ちを味わう羽目になるなんて。

「離せ!」

「でも、足だってそんなにふらついて」

「俺の足がふらつこうが床に転げようが、あんたには関係ないだろ! 汚い手で触るな!」

 そう言って力の入らない腕で厚い胸を押し返したところで、今度は首をつかまれた。逃げる隙もない。いや、羽多野の言うとおり栄の足も腰もふらふらで、支えなしには立つこともできない状態だ。

 熱い、まずはそう思った。

 腰と首を抱かれて、羽多野は今度こそ警告すらないままに栄の口を、彼自身の唇で封じていた。

「ん……ふ……」

 あまりに予想外で口を閉じなければという発想すらなく、栄はただ呆然とした。軽く唇を噛んですぐに入り込んできた舌が、栄のそれに絡む。驚きと混乱のためか、他人の粘膜との直接的な接触に当然こみ上げるはずの嫌悪すら浮かばなかった。

「っく、あ」

 舌を吸われ、歯列を舐められ、口蓋を舌先で強くくすぐられても栄は電池の切れたおもちゃのように硬直したままでいた。抵抗しない栄に、承諾ととらえたのか羽多野は抱きしめる力を少しだけ緩め、右腕を下にずらした。

 スウェットの中に遠慮なく突っ込まれた冷たい手が栄の尻を撫でて、それから軽く揉んだ。深い口づけと明らかに意図を含んだ手の動き。これまでもこういうことを何人、何十人に。

 そして、今は何のために?

「谷口くん、話なら後でちゃんとする。でも君は今は頭に血が上っているから」

 耳に吹き込まれる言葉は低くて甘くて――どこまでも信用ならない。甘い言葉も、深いキスも、普段なら弱いはずの腰骨を撫でられても、栄の心も体も一切の反応を示さなかった。

 そういえば仕事が忙しくなり尚人との関係がぎくしゃくするようになってからの自分もこんな感じだったかもしれない。妙に冷静に、栄は数年も前のことを思い出す。尚人との約束をふいにしてしまった後、ひどい八つ当たりで尚人を傷つけた後、栄は決まって尚人を抱きしめたりキスをしたり、プレゼントをしたりと表面上の優しい態度でつじつまを合わせようとした。

 当時の栄に謝罪の気持ちがなかったわけではないが、頭の大部分を占めていたのは「これくらいのことをしてやれば機嫌を直すだろう」という相手を見下した上での打算。だからこそわかるのだ。あのときの栄にとって抱擁やサプライズでのプレゼントがただ一時的に尚人の不満や不安を鎮めて本質から目を逸らすための手段だったのと同様に、羽多野が栄をこんなふうに抱きしめてくるのは――。

 腰を撫でていた手のひらが再び尻に戻る。羽多野の指先が狭間を滑りその奥を掠める。抵抗がないことに気を良くしたかのように羽多野は再び栄の顎を指先で持ち上げると、二度目のキスをした。もう限界だった。

「……いてっ」

 がりっと歯が何かに噛み付く感触。直後、羽多野が小さく声をあげて力を緩めた。栄はすかさず男の裸足の足の甲を踏みつけ、その腕から逃れる。後ずさると背中が洗面台にぶつかり、再びそこにすがって姿勢を保った。

 口の中に残る羽多野の体温や舌の感触、唾液には微かに血の味が混じる。いまわしくて栄は洗面台に顔を突っ込むようにして唾を吐いた。本当ならばすぐに洗浄液を使って口をゆすぎたいくらいだが、舌を噛まれた羽多野が反撃してくるかもしれないという不安から再び体を裏返した。

 羽多野は驚いたようにその場に棒立ちして、傷を確認するように口の中でもごもごと舌を動かしている。そういえば無理やり押し倒されて殴った時にも、羽多野は口の端を噛んで血を流していた。きっと今回の方が傷はひどいだろう。もちろん自業自得なので同情など湧かない。

「最低です、そういうやり方で人を黙らせようとするなんて」

 栄が正面から不誠実を訴えると、羽多野は気まずそうに視線を逸らした。ようやく栄の怒りの大きさと、それを抑えるためにとった手段がどれほど場違いなものだったかに気づいたようだった。

「他にもいろいろと聞きました。学生時代のあなたがものすごく上昇志向が強くて、あからさまに逆玉狙いで当時の結婚相手を口説いてたってことも。周囲の――特に育ちに恵まれた日本人学生のことを目の敵にしてたことも。この中に嘘があるんだったら否定してください」

 激しい攻撃を受けて、羽多野は観念したようにため息をついた。

「……否定はしないが、学生だった頃の話だ。俺にもそういう若い頃はあった。でも今は……」

 口の中の痛みを堪えるように紡がれる言葉にまだ言い訳が混じるのが気に食わない。

 この男が困るところを見るのは面白かったはずだ。普段口の上手さに負けてばかりだから、いつか返事に困るくらいやり込めてやりたいと思ったこともあった。なのにどうして今現実に目の前で途方にくれる男を見て、こんなにも虚しくなるのだろうか。

「だったら、あなた何しにロンドンに来たんですか? それとも『知らなかった』って言いますか?」

 結婚そして離婚の事実ももちろんショックではあった。でも、羽多野にとってそれが忘れたい過去だったり、例えば今栄に良く思われたいがために黙っているのならば――まだ救われた。でも事実はそれだけではない。

「あなたの元奥さん、今ロンドンにいるらしいじゃないですか。しかも彼女、ちょうどあなたが渡英してくる少し前くらいに、伝手を頼ってあなたの連絡先を聞き回っていたって話ですよ。ずいぶん出来すぎた話ですね」

 結婚、離婚、過去の評判。初めて聞かされる見知らぬ羽多野の姿に戸惑う栄に、それは最後の一撃だった。四ノ宮が羽多野についての情報を得るために連絡を取った元経営学専攻の男は、偶然にも数ヶ月前に別のルートから羽多野の連絡先について問い合わせを受けたのだという。

 同じ専攻で年齢が近いというだけで、その男は羽多野の今の居場所など知らない。そう答えたところ、羽多野の元妻が連絡を取りたがっていると聞かされた。酒の席での噂話はそれで終わったが、栄にとっては羽多野がかつて結婚していたことよりも、今も元妻だった女性と繋がっている可能性の方が重大だった。

 栄が羽多野を受け入れるためにすがった物語、栄の自尊心をあんなにもくすぐった「何にも執着しない男が例外的に自分を追いかけ続けている」という筋書きは完全に崩れ去った。

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