栄の激しい叱責の言葉に羽多野がぐっと唇を噛んだ。動じない男の信じがたい反応、答えなどそれだけで十分すぎる。
心のどこかではまだいくらか期待していたのかもしれない。羽多野がすかさず「元妻がロンドンにいることなど知らなかった」と断言し、自分の過去について話さなかったのは間違いだったと謝罪し――なんなら土下座でもしながら栄に許しを請うことを。
二度と嘘も隠しごともしないし、君の近くに置いてもらえるのならば何だってすると、それこそ足を舐めるような勢いですがってくるのであれば栄のぼろぼろの自尊心も少しは回復し、話を聞いてやろうという気持ちにでもなったのかもしれない。だが目の男はただ疲れたようなあきらめたような表情でその場に立ちつくすだけだった。
栄の冷たい視線を浴びて、ようやく羽多野が口を開く。
「……君が怒るのも当然だ。谷口くんがどれだけ生真面目で潔癖な性格か知っていてこれじゃ、確かに騙したも同然だよな」
その姿は、アラフォー無職というステイタスに似合わぬ自信にあふれ、いつも栄のことを上からの目線でからかっていた男とは別人のようだった。
「騙した……?」
栄も小さく口の中で繰り返す。羽多野もそれを認めたのだと思うとやりきれない気分になる。これが怒りなのか悲しみなのか、それとも絶望なのかもわからない。
どうして自分だけがこんな目に遭うのだろうか。確かに、お世辞にも性格の良い人間ではないが、だからといってこうも無残に踏みにじられるほどひどいことをやってきただろうか。
尚人が自分の知らないところで別の男と寝ていると知ったときはショックだった。恋人に裏切られたことにも、よりによって相手が仕事で栄を苦しめ続ける笠井志郎代議士の馬鹿息子であることにも大いに自尊心を傷つけられた。その後の尚人との対話の中では、過去の自らの振る舞いの傲慢さと向き合う羽目にもなった。
単純な恋愛関係の破局よりさらに大きな問題……自分という人間のありかたや正しさに疑問を抱き向き合うことは苦しくて、栄の中に大きな傷を残した。そこから一年以上の時間をかけてようやく少しだけ踏み出そうとする中、栄は愚かにも羽多野のことを、過去から抜け出す手助けをしてくれる男だと信じてしまったのだ。
初対面からとことん感じは悪かった。挑発して貶めて、無理難題で栄の心身を削ることに一切の罪悪感を感じていないどころか楽しんでいるように見えた。他の役所の担当者が潰れた――つまり激務で体調を崩し職場離脱したことも同情どころか迷惑の一言で切り捨てた。知りたくもないのに、未生と尚人が今では恋人として幸せな日々を送っていることをわざわざ栄に聞かせて、嗜虐的な笑みを浮かべていた。どこまでも悪魔のような男なのにたまに偽りの優しさを見せるから、弱っている栄はとんでもない勘違いをしてしまったのだ。
「もう少ししたら、君にはちゃんと話すつもりだった。まさかこのタイミングで」
ひどいことをして、少しだけ優しくする。その繰り返しでどこまでも栄を傷つける。それが羽多野だ。
四ノ宮の言う羽多野の嫌いなタイプ――家柄に恵まれたエリートというのは、まさしく栄に当てはまる。落として、そこから持ち上げて優しくして、好意を持っている振りをして。それもこれも何もかも、大嫌いなタイプの人間をより深く傷つけるためだったというならば羽多野は間違いなく人間の屑だ。そして、そんな男の手管に引っかかる自分は救いようのない愚か者だ。
「別に、何も話す必要なんてないですよ。勘違いしないでくださいって言ったでしょう。あなたが結婚していようが離婚していようが、さらに今どこで誰と会っていようが俺はどうだっていいんです。ただ、そういう事情を全部黙って人を利用しようっていう魂胆が気に食わないだけで」
「谷口くん」
呼びかける声すら忌まわしい。
「出て行ってください。契約はもうお終いです」
「待ってくれ、君は今酔っているし気持ちも高ぶっていて」
さすがにこれ以上同じ過ちを繰り返すほど馬鹿ではないつもりだ。ここでまた口の上手さで栄を丸め込んで、少し優しくして、気を許したところでひどく傷つける。今までがその繰り返しだったのだから、きっと羽多野はこれからも同じことを繰り返す。
「どっちがですか? いつもへらへら俺のこと笑って馬鹿にしてたのに、今はあなたが狼狽して、みっともないですよ。ホテル代を浮かすために俺なんかの足を舐めるよりは、寄りを戻したい相手の足でもなんでも舐めて部屋に入れてもらう方がよっぽどいい方法でしょう。口の上手い羽多野さんなら大丈夫ですよ――もっとも一度離婚されているくらいだから、その人は俺みたいな間抜けじゃないんでしょうけど」
一気に吐き出したところで羽多野が伸ばした手が肩に触れたので、全力で振り払う。
自分のものだと思っていた尚人を未生に奪われたことを知ったとき、ただただ腹立たしかった。怯える尚人を引き倒して、冷水を掛けて、謝罪の言葉を繰り返すのを許さず無理やりに犯した。そして、尚人への気持ちとは意味合いは違うが――栄だけを激しく求めてくる――自分のものだと思っていた羽多野が実はそうではなかったと知った今は、ただただ惨めで恥ずかしくて、虚しい。
もう一度伸ばされた手が首筋に触れる。瞬間、耐えがたい不快感に栄はうめいた。
「……気持ち悪い……」
「おい、大丈夫か?」
急に込み上げた吐き気に、栄は羽多野の腕を振り払った。同じバスルームの中にあるトイレに駆け寄るとその前に膝から崩れて、顔をうつ向けた瞬間に胃の中のものが一気に逆流した。多少飲みすぎて気分が悪くなったことくらいは若い頃にもあるが、一度だって酒で吐いたことなどない。ましてや人前で嘔吐することなど。
嘔吐は一度では収まらない。栄は便座に顔を突っ込むようにして何度も何度も繰り返し吐いた。中途半端に消化された夕食に、その後煽るように飲んだ大量の強い酒。そこに胃液まで混じって、胃が痙攣して内容物を押し出すたびに食道から喉にかけてひりひりと痛む。
一度おさまったものの、羽多野が背中を撫でていることに気づいた瞬間に嘔吐感がよみがえった。再び下を向いた栄は結局出すものがなくなるまですべてを吐ききった。酒のせいだけではない、この突然の体調不良はこの男に触れられたせいだ。そう確信した栄は這いつくばるように嘔吐しながらも必死に片手で羽多野を振り払った。
嘔吐は体力を消耗する。吐き終えた栄は不愉快な胃液の味に顔をしかめながらしばらく肩で息をしていた。激しい抵抗に遭い逆効果だと悟ったのか羽多野はもう栄の体に触れようとはしないが、ごく近い場所から見守っているようだった。
「谷口くん」
栄の呼吸が落ち着くのを見計らったかのように羽多野が栄の名を呼び、水を満たした洗面台のコップを差し出してきた。
だが、激しい苦痛が去ったせいで栄には今の自分の姿を客観的に見る余裕が生まれていた。真夜中にバスルームの冷たい床に座り込んで、髪を振り乱し便器に顔を突っ込んで嘔吐する。それだけでもありえないほどの屈辱なのに、嗚咽をあげながら吐く姿も嘔吐したものも、なにもかもすぐそばで見られていたなんて。こうなる原因を作ったのは羽多野なのに、その張本人がこうしてまだ栄を辱める。
冗談じゃない。誰がこんな奴の差し出した水なんか。思い切り腕を振るとプラスティックのコップが羽多野の手から離れて飛び、壁にぶつかって落ちた。飛び散った水で周囲もびしょ濡れになる。
栄は右手で口元を拭った。本当はすぐにでも口をゆすぎたい。嘔吐物が残った口なんて気持ち悪くて仕方ない。でも、何より耐えがたいのは。
「出て行ってください」
差し出したコップを跳ねのけられ困ったように立ちすくむ男に、栄は床にへたりこんだままで告げた。これまで一度も出したことのない、自分の声帯がこんな音を出せるとも思ったことすらない――小さくて弱弱しい、懇願するような声色だった。
「もう十分です。お願いだからこれ以上俺を惨めな気持ちにさせないでください……」
そう絞り出した瞬間、床にぽつりと水滴が落ちる。小さな水溜りがひとつ、ふたつ、みっつ。視界が滲んで何も見えなくなる。
「谷口くん、君……」
栄は羽多野がそう呟くまで、床に滴るのが自分の涙であることに気づかなかった。