第49話

 人前で泣いたことがないとは言わない。尚人の裏切りを知ったときにも悔しさと情けなさに涙は滲んだ。でもまさかこんな場所で、こんな男のために。自分でも信じられない気分だがあふれる涙は止まらない。

 羽多野はもう栄に触れようとはしなかった。代わりに降ってきたのはすべてをあきらめたような声だった。

「何でも、君の望むとおりにするよ」

 言葉だけならばここ最近繰り返した「使用人ごっこ」のそれと同じだ。でも込められた意味がまったく異なっている。

 君の言うとおり――栄はついさっき「出て行って欲しい」と告げた。にも関わらず羽多野が改めて聞くその理由はなんだろう。意地を張って見えないふりをしていたけれど、一緒に過ごすようになってからの日々に積み上げてきたささやかな信頼関係。自分の手でそれを台無しにしておきながら、まだ残された細い一本の糸に望みをかけているかのように羽多野は再度栄の意向を確認する。

 でも、この殊勝な態度すらきっと嘘なのだと栄は理解していた。

「明日、俺が帰ってくるまでにここを出て行ってください。合鍵はコンシェルジュに渡しておいてもらえれば構いませんから」

 栄は顔を上げないまま、込み上げる嗚咽を堪えてそう告げた。泣いている顔を見せたくないというのはせめてもの矜持だった。

 短い沈黙。羽多野はもう食い下がらなかった。「わかった」と小さくつぶやいて、視界の隅にあった男の裸足が消え去る。ゆっくりとした足音、客用寝室の扉の閉まる音。あとは――長い沈黙。

 しばらく栄はそのままへたりこんでいた。床は冷たいものの、バスルーム自体はヒーティングシステムで適温に保たれているはずだ。しかしなぜだかひどい寒気を感じた。

 ようやく少し心が落ち着くと、栄はゆっくりと立ち上がって洗面台に向かい念入りに口をゆすいだ。唇の端にこびりついた嘔吐物のかけらを湯で擦り取り、改めて歯を磨いてマウスウォッシュを使った。割れるように頭は痛むが酔いはすっかり醒めて頭の中は澄みきっている。

 クリアになった頭で改めて、もう終わりだと思った。

 また自分はひとりになる。そこで動きを止めた。

 ? そんなことはない。だって羽多野がここにいたのは栄と寄り添うためではなかった。尚人だって、最初の数年間はともかくその後は傲慢で癇癪持ちの男に我慢して付き合っていたのではないか。いや、最初の数年間だって尚人が見ていたのはただの、恋した相手の前で良く思われようと精一杯の虚勢をはっている惨めな男の虚勢だけだったのかもしれない。

 結局どこまでいっても自分はひとりで、誰とも心許し合うことなどできない。高すぎるプライドを自覚したところで、いまさら膝を折って自分を曲げることはあまりにも難しいのだ。

 濡れたタオルを手に寝室に引き上げて、泣いた後の目を冷やしながら今日はこのまま眠れないだろうと思った。そういえば睡眠の浅さにあんなにも悩まされていたのに、最近は夢も見ずに眠る夜が多くなっていた。「よく眠れる方法」を教えてくれたのは羽多野だが、その羽多野のせいで再び眠れない日々を過ごすことになるのは皮肉だ。

 結局そのまま一睡もせずに、アラームが鳴るよりも前に栄はベッドから出た。

 外はまだ暗い。普段だったら栄の気配を察して羽多野も起き出してくるか、天気が良い日だとすでに一走りを終えていることもある。しかしさすがにあれだけのやり取りがあった後では客用寝室の扉は締め切られたままで、物音のひとつも聞こえてはこなかった。

「谷口さん、どうしたのその顔」

 出勤するなり久保村が目を丸くして栄の顔を凝視した。十分冷やしたつもりでいたが、朝になって自分の姿を鏡に映すといつもならばくっきりとした二重まぶたが腫れぼったく見えた。そのくせ深酒と嘔吐のせいか下まぶたには濃いくまができ、全体的に顔色も悪い。霞が関で最悪レベルに酷使されていた頃と比べてもいい勝負になるくらい、栄の容貌はくたびれていた。

「えっと」

 栄は思わず口ごもりうまい言い訳を考えようとする。だが、不眠と疲労で普段の半分しか頭が動いていない栄より久保村がニヤリと笑みを浮かべる方がが早かった。

「さては、昨日はよっぽど飲みすぎたな」

 昨日栄が同じ省の元上司と会食予定だということは久保村も知っていた。慣れない異国暮らしの日々の中、久しぶりに会う同僚との時間で羽目を外した――ありがたいことに久保村は栄の疲れみなぎる姿をそう理解してくれたのだった。

「え、ええ。恥ずかしいんですけど実は……」

「いやいや、いいんだよ。気持ちはわかるから。僕だって最初のうちは人恋しくて、全然親しくないどころか知りもしない奴が出張に来るってだけでもわくわくしたもんな。いや、もちろん今でも嬉しいんだけど」

 普段の栄にとってはいくら楽しい会食だろうが翌日に仕事があるのに顔に疲れが出るまで飲みすぎるというのは恥ずかしいことだ。だから、こんなふうにからかわれれば穏やかな笑みを浮かべながらも断固として否定したことだろう。だが今日に限っては久保村の早とちりも軽い言葉も、何もかもがありがたかった。

 最悪のコンディションでも仕事を休まなかったのは予定が入っていたからでもあるが、何より羽多野と顔を合わせたくなかったからだ。

 昨晩栄はなかば懇願するように「出て行ってくれ」と訴え、羽多野は「わかった」と言った。普段の軽口とは違う完全に本気のやり取りだったと栄は思っているが、羽多野がどこまで真摯に受け止めているかはわからない。なんせ今までも、元妻のためにロンドンに来たにも関わらずさも栄に会うことが目的であったかのように振舞い続けていた図太い男だ。

 今日、帰宅してまだ羽多野がいたらどうしよう。力尽くで追い出そうにも経験上パワーではかなわない。かといって警察でも呼ぼうものなら男同士の痴話げんかだと騒ぎになるのが関の山だ。館内で打ち合わせをしているあいだも、外出して人と会っているあいだも頭の中はそのことでいっぱいだった。

 オフィスに留まっていても妙に思われそうなので昼休みには一応外に出た。かといって昨晩酷使した胃はまだ食べ物を受け入れる状態には戻っておらず、すっかり冷たくなった風を受けながら栄は昼休みいっぱいグリーンパークを歩き回った。

 本当は、いずれこうなることがわかっていたのかもしれない。あのおしゃべりな男が彼自身のことについてはやたらと口が重い、その時点で背後に何かあることは明らかだった。何のためにロンドンに来たのか、日中は何をしているのか。しつこく聞けば口を割ったかもしれないのに、「こちらから興味を示しているように思われるのは癪だ」という子どもじみた意地を張っていたのは栄。それもこれも本当は、羽多野がただ自分のためだけにこんな遠くまで来て居座っているとはとても信じられないからで、一方でどうにかしてその都合良い仮定にすがりたかったからだ。

 昼休みを終えて館内に戻ったところで、長尾と顔を合わせた。

「あれ、谷口さん……」

 そう言って、気のいい自衛官は言葉を探すように口をつぐむ。長尾は久保村と比べるとはるかに慎み深い性格なので、明らかに普段と違う様子の栄にどう話しかけるか迷ったのだろう。だから栄は先手を打つことにした。

「もしかして、むくんでるのわかります? 昨日、出張者と飲み会でつい羽目を外して飲みすぎてしまって。恥ずかしいな」

「……ああ」

 栄の側から笑顔で種明かししたことで、安堵したように長尾も笑う。

「宿酔いが顔に出たくらいで恥ずかしいなんて、大げさですよ。自衛隊って体育会だから酒の飲み方もえげつなくて、正直いってここで他の役所出身の皆さんと飲みに行く機会があると上品すぎて驚きます」

「はは、ここで見ている限り長尾さんがそんなひどい飲み方しているところは想像できませんけど」

「周囲に合わせて擬態しているんですよ」

 そこにちょうどエレベーターがやってきて、ふたりは乗り込む。他には誰もいない。長尾が気を利かせて栄の分まで降りる階のボタンを押し、ついでに思い出したかのように言う。

「そういえば前に鉄道の遅れでふいにした食事のこと気になってたんですよね。谷口さん今日暇だったら、飯でも行きます? 奢りますよ」

 栄の心は揺れた。

 羽多野が栄の言いつけどおり出て行ってしまったのだとすれば、家に帰ればひとりきりだ。もちろんあんな男に未練はないし、せいせいする。だが他人の気配に慣れてしまった自分にとって、ひとりで暮らす部屋はしばらくのあいだはやたらと広く寒く感じられるだろう。

 もちろん羽多野が栄の言葉を無視して居座っている可能性もある。その場合さらなる修羅場になるのは確実だが、寝不足で疲れ果てた栄には昨日の今日で再び戦うだけの気力も体力も残ってはいない。だったら家になど帰らず長尾と飲み明かすか――なんなら、誰が使ったかわからないベッドで眠るのは本来好きではないが、どこかホテルにでも――。

 チンと小さな音と、足元の揺れ。エレベーターが止まり、表示板に目をやるとちょうど栄の降りるフロアだった。

 一歩踏み出す栄を長尾が見る。誘いの返事がないことを不審に思っているのだろうか。

 いいですね、行きましょう、そう答えるのは簡単だ。でも、栄は何も言えなかった。目の前にあるのは長尾の人の良い笑顔なのに、なぜか頭に浮かぶのは冗談めかしながらも栄が長尾と食事の約束をしたことに嫉妬をたぎらせる羽多野のことだった。裏切りを知って、なお。

「……って、昨日の今日じゃきついですよね。谷口さんみたいな上品な人は迎え酒なんてやらないだろうし。今度また体調いいときにしましょう」

 結局栄が返事をする前に、長尾は自ら答えを出した。閉じるエレベーターのドア越しに笑顔で右手を上げる男に、栄はぎこちなく手を振り返した。

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