第50話

 その日、仕事を終えた栄は界隈でも一番大きな百貨店に行って婦人服と子ども用品以外すべてのフロアを順番に見て回った。もちろん目的は買い物ではない。家に帰るのが怖かっただけだ。

 誰も栄のことなど見ていないし気にかけていないにも関わらず何も買わずに店をでるのに気がとがめて、閉店間際に立ち寄った食品フロアで食欲もないくせに惣菜を買い求めた。つい普段の癖でふたり分の量を頼んでしまい、間違いに気づいたのは店員がすでにパック詰めを終えてからだった。半量に減らしてくれとも言えず、ひとりで食べるには多すぎる惣菜を手にとぼとぼと地下鉄への階段を降りた。

 もちろん羽多野が素直に出て行ったと決まったわけではない。栄はぼんやりとシュレディンガーの猫のことを考えた。箱を開けるまでは生きているか死んでいるのかわからない猫と同じように、実際に家に帰ってドアを開けるまでは羽多野がそこにいるのかいないのかは確定しない。もちろんどちらにしたって栄にとっては問題だ。だが――矜持や強がりを全て取り払ったところで自分は本当に望んでいる結果は? ふと自らに問いかけてみたが答えは出なかった。

 結論からいえば、羽多野はいなくなっていた。帰宅した栄を出迎えたのは冷え切って、物音ひとつしない部屋だった。

 日中留守にしている部屋がこんなにも寒くなることを栄は知らなかった。そういえば暖房が必要になって以降はたいてい羽多野が先に帰宅して、ヒーティングを付けて栄の帰りを待っていたのだ。

 マットを敷いて「靴を脱ぐエリア」と栄が決めている場所に当たり前のように置いてあった羽多野の普段履きも、ランニング用のスニーカーもなくなっている。玄関のすぐ横にあるコート掛けにあった上着も消えている。

 ほっとしたのか、がっかりしたのかは自分でもよくわからない。ただ、緊張の糸が切れたかのように体中の力が抜けて、手に持っていた惣菜の袋が床に落ちてもすぐに拾い上げる気にもなれなかった。普段の栄は決して食べ物の包みを床においたりはしないのに。

 それでも靴や上着がなくなったくらいで本当にあの無駄に存在感のある男が消えてしまったとは信じられず、栄はゆっくりとした足取りで玄関から一番近い場所にある客用寝室に向かった。ドアを開くときには緊張した。悪趣味な羽多野ならば、昨日の今日なのに反省の色もなく潜んでいた死角から飛び出して栄を驚かせることすらやりかねない。

 だが、部屋は完全に無人だった。羽多野のスーツケースは消えていた。クローゼットの中には季節外れの栄の衣類が残っているだけ。出ていく前にベッドリネンの洗濯を済ませたのか、ベッドにはむき出しのマットレスの上に折り目正しく畳まれたシーツ類が他人行儀に置いてあった。

 栄は順番に部屋を見て回った。栄の寝室には――もちろん立ち入った気配はない。洗面台からは羽多野が持ち込んでいたシェービングフォームやひげ剃り、整髪料など一式がごっそりとなくなっていた。なぜだか湯船の縁に衛兵コスチュームを身に着けたラバーダックだけが、いつもどおりの間抜けで能天気な笑顔で座っている。だが、リビングにあった読みかけの本も、夏を終えて出番が減ってからはサイドボードに置き去りにされることが多かったサングラスも跡形もない。

 要するに栄のアパートメントからはほとんど完全に羽多野の痕跡ごと消えてなくなっていたのだ。憎らしい顔をしたラバーダック以外には、敢えて言うならば羽多野が気に入ってストックを作っていたビールが数本冷蔵庫の中にある。それだけだ。

 栄は頼むから出て行ってくれと訴えて、羽多野はそのとおりにした。あれだけの修羅場の後に居座られたところで醜い言い合いは続き、さらに傷が深くなるだけだとわかっている。ここで羽多野がいなくなったのは幸いだ。なのに栄はなぜだか今の状況を、羽多野の更なる裏切りだと思った。

 どこへ行ったのだろう。彼をロンドンに呼び寄せたという元妻のもとに行ったのか、それともどこかのホテルにでも泊っているのか。今でもまだ観光ビザの期限ギリギリまでこの国に居座るつもりなのだろうか。いろいろなことが頭を巡ると同時に、何もかもはもはや自分とは関係ないのだから考えるだけ無駄だとも思う。

 確かなのは、栄が疲れ果てていること。

 顔も洗わず、ヒーティングのスイッチを入れに行くことすら面倒で、だから栄はコートも脱がないままでカウチに横になった。寒いけれど、この程度で死ぬことはないだろう。そんなことをつらつらと思っているうちに前夜の徹夜がたたったのかじわじわとまぶたが重くなり、気づけば眠りに落ちていた。

 冷え切った部屋の空気に身震いして目を覚ますと真夜中だった。目と鼻の先に畳んだブランケットが置いてあるのに、うたた寝したときにそれを掛けてくれるような人間ももうここにはいないのだと思うと虚しかった。

 ようやく起き出してヒーティングだけはオンにして、しかし着替えようという意欲はまだわかないから冷蔵庫から取り出したビールの栓を抜いた。

 羽多野が好んで飲んでいたのは苦くて重いIPA。軽い味わいのビールが好きな栄は当初眉をひそめていたものだが、自分の買い置きが切れたときなど仕方なく分けてもらっているうちにいつしかその濃い味を悪くないと思うようになっていた。でも、こんな気分のときに飲むにはあまりに――。

「……不味い」

 つぶやいて栄は、数口しか飲んでいないビールをテーブルに置いた。深みのある味が舌に心地よいはずのそれが、今日に限ってはただひたすら苦く感じられた。

 栄はその週末を、完全に部屋に引きこもって過ごした。もしかしたらほとぼりが醒めたと思った羽多野が戻ってくるのではないかという期待に似た不安も多少はあったが、それも土曜の昼間までのことだった。インターフォンが鳴ったので警戒しながら出てみると、ディスプレイに映っているのはコンシェルジュの女性だった。

「これ、あなたに渡して欲しいってタカから預かったんだけど」

 彼女はそう言って栄に向かって部屋の合鍵を差し出した。そういえば、出て行くときに鍵をコンシェルジュに渡しておいてくれと言ったのは栄だった。

「ああ、ありがとうございます」

 受け取った鍵を、どこかまだ信じられない気持ちで栄はじっと見つめる。当たり前のように自分のキーリングにつけていたこれを、羽多野がそんなに簡単に手放すだろうか。無理やり上がり込んで言葉巧みに居座って、あれだけ出て行けと言ってもきかなかった男がなぜ今回に限って。そんな疑問が浮かぶが、理由など本当は栄自身が一番よくわかっている。

 今回の栄の怒りも悲しみも、これまでとは全く違っていた――要するに、ポーズではない本物の感情だった。栄は観たことないほどの勢いで怒って涙すら流し、白日に晒された嘘をもはや取り繕うこともできないと思った羽多野は潮時をさとったのだろう。

 黙って手のひらの鍵を見つめている栄を不思議そうに一瞥して、コンシェルジュは言った。

「けんかでもしたの?」

 栄は首を振る。

「そういうわけじゃないんです。最初から、しばらくのあいだという約束で泊めていただけで――去るべきときが来たんです」

 するとコンシェルジュは首を傾げた。

「そうなの? 残念だわ。このあいだタカに、毎年クリスマス前の大掃除がたいへんだって話をしたら、高い場所の蜘蛛の巣払いを手伝ってくれるって言ってたのに」

 よく立ち話をしていると思ったらそんなことまで相談していたのか。確かに長身の羽多野が手を貸せば、背の低い彼女には大きな助けになっただろう。そう思うと羽多野を追い出した張本人としてはいくらかの罪悪感が込み上げる。だから、栄はぎこちなく笑って代役を申し出た。

「私で良ければ代わりにお手伝いしますよ。彼より少し身長は低いけど、蜘蛛の巣を払うことくらい、もっとうまくやれます」

 ここに至って羽多野に負けたくないという気持ちが意図せずとも言葉に交じってしまう、そんな自分がどこまでも可笑しかった。

 でも本当はわかっている。もう二度と会いたくないにも関わらず、羽多野の不在は栄の心を乱し、寂しがらせ、苦しめる。こんな気持ちになる時点で栄は羽多野に負けたのだ。いや――出会ったあの日から、栄の弱さや狡さを一目で見抜かれた瞬間からずっと、栄は羽多野に負け続けていたのだ。