第51話

 幸い、週が明ければすぐに羽多野のことを考える余裕もなくなった。赴任当初から準備を進めていた日英共催の経済シンポジウムの開催が近づいたからだ。栄にとっては赴任以来はじめての大きなイベントであったため不慣れな部分も多く、上司である参事官や近い分野を担当する久保村、トーマスにもずいぶんと助けられながら仕事に没頭した。

 直前で登壇者のキャンセルが出たり、なかなか資料が揃わず最終的には一部分の翻訳を自分自身でやらなければならなかったりとたいへんなことも多かったはずなのに、不思議と辛さは感じなかった。もしかしたらこんなに忙しさを歓迎したのは、何もかもが新鮮で輝いて見えた新人時代以来のことかもしれない。それどころか必須ではないことにも手を出し、必要以上に資料の完成度を高め、栄は自ら忙しさを欲してすらいた。

 そして十一月末にカンファレンスが無事終了すると、今度は反動で体調を崩して三日ほど仕事を休んだ。

 そういえばここのところ食生活はひどく乱れ、もちろんジムにも剣道にも行く余裕はなかった。潔癖ぎみの自分の部屋とは思えないほど洗濯物は積み上がっていたし、キッチンにはゴミに出しそびれたビールの空き瓶がずらりと並んだ。

 それでも栄はかつての習慣で、熱が三十八度を下回った時点で出勤を再開しようとしたのだが、周囲からの激しい反対に遭い断念することになった。いわく無理やり出勤されて周囲にウイルスを振りまかれたほうがよっぽど迷惑だと。

「谷口さんの日本の職場はそういう風土なのかもしれませんが、ここは違いますから」

 きっぱりとそう言い切られるとぐうの音も出なかった。

 とはいえある程度熱が下がったことで体が動かせるようになったので、その間に栄は部屋の状態を通常に戻し、生活リズムを立て直すことに注力した。

 しかしなぜだか、ただ当たり前に当たり前の生活を送るというだけのことが、やたらと難しい。同じ体調不良でも胃潰瘍で休職していた時期は規則正しく過ごし、しかも毎日自炊までしていた。同じことができないわけはない――と頭では理解しているのに、何もかもが億劫でたまらなかった。米を炊いて日本風の惣菜を作ったのは一度か二度。もちろん特定の店まで足を運ばなければ慣れ親しんだ日本の食材が手に入らないという不便さは大きいのだが、何よりの問題は自分がひとりでいることなのかもしれない。

 あの頃は尚人がいたから、食べさせる相手がいるというモチベーションがあった。それにまだ復縁を模索していた時期だったので、家事を引き受けることで尚人の心証を良くしたいという打算だってあった。尚人と別れてからも初めての単身ひとり暮らしや初めての海外生活でなんとか維持していた緊張感がここにきて一気に緩んでしまったのだろうか。

「駄目だな、こんなんじゃ」

 それもこれも完全に羽多野にペースを崩された格好だが、いいかげん人のせいにしてばかりもいられない。来週こそジム通いも再開して剣道場にも顔を出そうと栄は強く自分に言い聞かせた。

 しかし――あれからはや数週間が経つが、羽多野からは一本の電話やメッセージすらない。今頃どこで何をしているのか、考えたくなくても時間ができればどうしたって頭に浮かんでしまう。まだロンドンにいるのか、だとすればどこで何をしているのか。それともまさか滞在先を失い日本に戻ったのか。

 改めて考えれば奇妙なことは多い。もしも羽多野の元妻がわざわざ彼を呼び寄せたのだとすれば、なぜ滞在場所を提供しなかったのだろうか。羽多野が栄に対して並並ならぬ敵意を持っていて、傷つける意図を持ってわざわざここに乗り込んできたという可能性もゼロではないが、いくらなんでもやりすぎだ。それに、なぜ彼女と会うのが昼間ばかりだったのか。羽多野がひとりで出かけるのは決まって日中で、まるで勤め人のように必ず夕方には帰宅していた。

 もう少ししたら話そうと思っていた、少し落ち着いてくれたら話すから。そんな言葉を激しい怒りと絶望で拒絶した栄だったが、羽多野はあのとき本当は何を言おうとしたのだろうか。そういえば何も知らなかった栄が、ただ出て行って欲しいがためにどこか郊外への旅行を勧めたときも、羽多野は「もう少しやることがある」などと言っていたのだ。

 栄はじっと手元のスマートフォンを眺めた。今となっては唯一の羽多野とのつながりはこの端末に登録してある電話番号。それも羽多野は旅行者用のプリペイドSIMカードを使っていたので、カードを差し替えることで容易に番号は変わるし、日本に帰国して入金を止めればじき電話も止まる。

 今このボタンを押したら呼び出し音は鳴るだろうか。今メッセージを送れば返事はあるだろうか。そんなことがちらりと頭をかすめるがもちろん実行には移さない。だって、羽多野の側から連絡がない時点で向こうだって栄を「切った」ということだから。

「久保村さん、離婚に詳しいですか?」

 週明け、ぽろりとそんな質問を投げかけた栄に久保村は顔色を変えた。

「は? 谷口さん何言ってるの。僕は奥さん一筋だからこれまで一瞬たりとも離婚なんて考えたことないよ。もちろん奥さんだって僕のことを愛してると信じて……信じているけど、そういえばこのあいだ靴下を脱ぎっぱなしにしたときに心底呆れた顔をされたな……」

 本気なのかのろけなのかわからない言葉は右から左へ聞き流す。言われなくたって久保村の家庭が円満なのはわかっている。栄がわざわざこんなことを聞いたのは、ずっと独身で男女の関わりに疎い自分とは違い、年上で既婚者の久保村ならば羽多野の不思議な行動についてそれらしき理由が浮かぶかもしれないと思ったからだ。

「いえ、久保村さんのことじゃなくて、例えば親しい人に離婚経験者がいるとか……」

「そりゃ僕くらいの年齢になればそういう友人もいるし、っていうか実は弟が去年離婚したけどさ。谷口くんの周囲はまだそういう話ない?」

「あまり聞かないです」

 というのは嘘で、栄の学生時代の友人や同僚にだって数は少ないものの離婚経験者はいる。ただ今このタイミングでわざわざ遠方の彼らに連絡を取って直接デリケートな話に切り込むことなどとても不可能だ。

 ともかく、久保村が話を聞く素振りを見せたので栄は続けることにした。

「元奥さんに呼ばれて出かけてその近くに長く滞在するけど、一緒に暮らさないし会うのは昼間だけ。これって、どういうことだと思います?」

 口にしながら自分でも謎かけのようだと思った。それに、そもそも前提条件が乏しすぎて答えようがない。だが怪訝な顔をしながらも久保村は真面目に答えを探してくれた。

「まあ夫婦じゃなくなったって一時期は家族だったわけだし、いろいろあるんじゃないか。それこそ子どもがいれば用事なんていくらでもあるし、再婚するほどじゃないけど程よい距離で関係再構築ってのもたまに聞く話だよね」

「子ども?」

 栄にはその発想はなかった。あの羽多野に子どもがいるとはとても思えないが、結婚歴がある時点でそういう可能性も皆無というわけではない。もしも今は別々に暮らしている子どもがいて、そのためにロンドンに滞在しているのだとすれば、自分は羽多野を少しは許す気になれるだろうか。いや、何にせよひどい隠しごとをしていたことに変わりはないか。

 信頼関係など完全に崩れたとわかっているのに、一時の激しい怒りが過ぎれば何となく名残惜しくなってどうにか自分の気持ちを納得させる糸口を探す。尚人との関係も、もう元には戻れないと認めて手を離すまでは数ヶ月かかった。今回も同じように結局は時間に任せるしかないのかもしれない。

 あれは恋愛ではなかったが、栄はいつの間にか羽多野といることに心地よさを感じるようになっていたし――できればその日々が続けばいいと思っていた。栄は羽多野にそばにいてもらうことで、彼の中に都合良い愛情を見出すことで、傷を負った心を癒され救われようとしていた。

 栄は羽多野を利用した。そして羽多野はどうだろう。羽多野は栄に嘘を吐き傷つけることで、何かを得ただろうか。

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