第52話

「どうかしたの? 谷口さん。なんか悩みでもある?」

 黙り込んでしまった栄の意識を確かめるように、久保村が目の前で手をひらひらと振った。弾かれたように顔を上げ、栄は取り繕うように笑った。

「すみません。そうですよね、いろんなパターンがありますよね。いや、そういう人が周りにいるんだけどどうしてだろうって妹から相談されて。参考までに聞いてみただけです」

「……ならいいけど、心配事があるなら抱え込まないようにね。しばらく忙しかったし、まだ風邪も完全に治ったわけじゃないだろうし。いくらスポーツマンで体力自慢でもここの冬は辛いからね」

 反射的に妹のせいにしてしまったが、久保村は一応は納得してくれたようだった。この男は見た目同様におおらかで気が良いので、後半の言葉はただ単に病み上がりの同僚を心配してくれただけなのだとわかってはいるが、栄は少し不安になる。

 栄がかつて過労で体調を崩して休職したことは、せいぜい知っているとしても人事担当くらいのもので、久保村にまでは伝わっていないはずだ。産業開発省に戻れば誰もが知っていることであるにも関わらず「過去に潰れたことがある」ことはできれば大使館の同僚たちには知られたくなかった。相変わらずのくだらないプライドだ。

 そのまま会話を終えようとしたところで、またひとつ疑問が浮かんだ。ここ最近ぼんやりと考えていたことだ。

「……あ、あと久保村さん。もうひとつだけ」

「何?」

「日本人の出入国記録ってここで参照できるんですか?」

 羽多野がまだここにとどまっているのだとすれば、たとえば道端を歩いているときなど出くわす可能性もある。しかも女や――子ども連れだったりしようものならさすがの栄も外向きの笑顔を維持できる自信がない。そんな言い訳をしながら、栄は羽多野の消息を気にかけた。

「出入国記録……って英国の?」

 久保村は、離婚についての質問を受けたとき以上に変な顔で栄を見た。

「そりゃあ領事部経由での照会はできるだろうけど、気軽にって感じじゃないと思うなあ。行方不明で捜索願が出ているとかそれなりの根拠があるならばともかく、高度な個人情報だし」

「はは、ですよね。ちょっとそういうことできるのかなって興味本位の質問です。気にしないでください」

 栄は必要以上に明るい声を出して今度こそ話を打ち切った。

 その日、仕事を終えて大使館の建物を出たところで背後から肩を叩かれた。振り向くとそこにはトーマスがいた。つい数分前に「お先に」と声をかけてオフィスを出てきたのだが、あれからあわてて追ってきたのだろうか。

「どうしたの? 何か急ぎの連絡でもあった?」

 栄は足を止めた。トーマスがこうも急いで来たというのは、何か仕事上のトラブルでも起きたのだろうか。――でも、何も走らなくたって電話を掛ければ終わることだし、仕事の続きにしてはトーマス自身もバッグを手にしてコートを着込み、万端の帰り支度を整えている。

「いえ……あの、今日の昼間に久保村さんと話をしていたのが気になって」

 完全に仕事モードの栄に向かい、体裁悪そうにトーマスは切り出す。栄はそれだけでは何を聞かれているのかわからなかった。

「久保村さんと話?」

「えっと、離婚とか出入国記録とか。すみません盗み聞きみたいな真似をして」

 仕事とは一切関係ない雑談のことを持ち出されたのは正直意外だった。だが、そんなに申し訳ない顔をしなくたって別に、栄と久保村は陰に隠れて話していたわけでも耳打ちをしていたわけでもない。

「いやそれは別にいいんだけど。内緒話だったわけでもないし」

 とはいえ、黙って書類仕事に打ち込んでいたトーマスが自分と久保村とのやり取りを聞いていたというのは栄にとって意外でもあった。そして、あのときには話に入って来なかったのに今になってわざわざ追いかけてきてまで「気になっていた」と伝えてくるとは。

「で、あれがどうしたの? ただの雑談だけど」

 言葉を発するたびに口元から白いもやが広がる。野外で立ち止まって話をするにはすでに寒すぎる。地下鉄までの短い距離だけだからと手袋を持たない栄は思わず両手をこすり合せる仕草をした。それを見たトーマスが視線を腕時計に滑らせる。

「あの、谷口さん。十五分だけ時間ありませんか」

「いいけど……」

 特に予定もない栄はうなずいた。

 トーマスが栄を連れて行ったのは何の変哲もない地元資本のコーヒーチェーンだった。連れ立って外出した際の暇つぶし以外でトーマスとカフェに入った記憶はない。正直、なんだかんだとビールでも飲みに行くことになるのだろうと予想していた栄にとっては予想外の展開だった。

「谷口さん、何飲みますか?」

 私が誘ったので、と付け加えてトーマスは栄には座席の確保を依頼する。繁華街の中心からはわずかばかり外れているとはいえ、夕方のカフェは混み合っている。奥の方になんとかふたり分の空席を見つけると栄はソファ側に座って脱いだコートを膝に掛けた。

 五分ほどでトレイを手にしたトーマスが座席にやってきた。飲み物をテーブルに置くとコートを脱いでスツールに座る。カップの中身はいずれもブレンドコーヒーだ。トレイの敷き紙にはクリスマス時期限定メニューの宣伝が躍っている。着任した頃は冷たいコーヒーが恋しくなるような夏だったのに、いつの間にか街は真冬になっていた。

「そういえばこっちにきて最初にコーヒーショップに入ったとき、アイスコーヒーがメニューにないことに驚いたよ。氷入りの冷たい飲み物は売ってるのにアイスコーヒーがないなんて、冗談かと」

 カップを手に取った栄がそう言うとトーマスは笑った。

「はは、スターバックスあたりは別として、こっちじゃアイスコーヒーはマイナーですからね。僕らからすればコーヒーにしろビールにしろ何でもキンキンに冷やしたがる日本人のほうが不思議ですよ」

 トーマスがコートを脱いでスツールに落ち着くのを待ってから、栄は本題を切り出した。十五分に厳密にこだわるつもりは皆無だが、なぜわざわざ彼が自分と話をしたがっているのかが気になった。

「で、何か話があったんだっけ?」

「ええ、今日の――出入国記録のことなんですけど」

 ああ、と栄は半分合点がいった。真面目なトーマスは、栄が職権を乱用しての情報収拾を企んでいるのではないかと心配しているのだろうか。もちろんいくら手続きとして可能であっても、理由もなしに個人情報が入手できるほど世の中は甘くない。ずいぶん前だが、年金事務所の職員が芸能人の納税データを覗き見たというだけでも大量処分されていたっけ。

 栄はあわててあれは冗談だったと否定する。と同時に自分は本気でそんなことをするような人間だと思われていたのだと少しだけ気を悪くした。

「心配しなくたって、あれは深い意味はないよ。俺が規則に背くようなことするはずないだろう」

「いえ、でも」

 だが、不快感ゆえにいくらか強い口調での返事に対してトーマスは改めて真意を告げた。

「あれってもしかしたらタカ……羽多野さんのことなんじゃないかと思って」

 トーマスの中ではまだ羽多野をどう呼ぶかが定まっていないのかもしれない。仕事上の付き合いではないのでファーストネームで呼ぶ方が彼には自然なのだろうが、栄は羽多野をファミリーネームで呼ぶ。だから結局栄に合わせて「羽多野さん」と言い直した。

 突然羽多野の名前を出されたことに栄の心臓は跳ねたが、なんとか笑顔を保つ。偶然出くわしてアリスを含めた四人でパブに行ったあの件以降、特にトーマスと羽多野の話をしたことはない。もちろん栄があの男を追い出したことも彼は知らないはずだ。

「どうしてそう思うんだ?」

「いや、なんとなく。根拠はありませんけど。……彼、まだ谷口さんの家にいるんですか」

「いいや、出て行ったよ」

 こんなこと隠したって仕方ない、栄は間髪入れずに返事をした。トーマスがまだ栄と羽多野のことを特別な関係だと思っているならば、むしろこの機に羽多野との縁は切れたことを告げて勘違いに終止符を打っておいた方が良いだろう。

「出て行ったって、帰国ですか?」

「さあ、特に話はしていないけど。長居されて正直負担になっていたから、仕事が忙しくなるのがいい節目だと思って、悪いけど出て行ってもらったんだ」

「……そうですか」

 それからコーヒーを口に運びながら、トーマスはまだ何か考えているふうだった。普段聡明で反応の早い秘書にしては珍しい逡巡に栄までも落ち着かない気持ちになる。第一なぜ彼がそんなに羽多野のことを心配するのか。

「トーマス、君こそ妙だよ。急に俺を呼び止めたり彼のこと聞いたり。どうかしたのか?」

 しびれを切らした栄が問いかけるとトーマスは渋々口を開いた。

「口止めされていて私に話すかどうかも悩んだみたいなんですけど、実はアリスがしばらく前から羽多野さんのことを気にしているんです」

「アリスが? どうして」

 確かにあの日のパブでは盛り上がっていたふたりだが、アリスにはトーマスという恋人がいるし、羽多野だって「そういうつもり」ではなかったと言っていた。それで終わったはずなのに、なぜここで急にアリスと羽多野の話が出てくるのだろう。

 意味がわからずにいる栄に、トーマスはアリスから聞いたという話を続けた。

「実は――」