第53話

「アリスが病院で働いているという話は前にもしましたよね」

「うん、聞いたけど……」

 アリスが市内の病院に勤務する看護師だということは目新しい話ではない。最初に会ったときにそのように自己紹介されたし、普段のトーマスとの会話の中でも「今日は彼女が夜勤なので」といったやり取りは頻繁だった。

「実はあの日に偶然出くわすよりも前から彼女は羽多野さんのことは知っていたそうです」

「え?」

 あの日、というのは四人でパブに行った夜のことだろう。まったくそんなふうには見えなかったが、羽多野とアリスが前から知り合いだっただと? 羽多野が元妻の件以外にまだ栄に対して隠しごとをしていたのだと思うとうんざりする。だが、顔をしかめた栄を見て自らの言葉が誤解を招いたことに気づいたトーマスはあわてて言葉を足した。

「あ、でも最初から気づいていて声をかけたわけではないし、羽多野さんはアリスのことを知らなかったそうです。話しているうちに病院で見かける人と似ていることに気づいて、僕らがトイレで席を外しているあいだに聞いてみたのだと」

 だからあのときの羽多野とアリスは初対面なのにやたらと話が盛り上がっているように見えたのか。でも、だったらなぜわざわざそのことを黙っていたのだろう。それに、病院だなんて――。

 アリスの勤務先の病院は栄のアパートメントからそう遠くはないが、かといって散歩ついでに通うほど近いわけでもない。しかも東洋人がいるだけで目立つ田舎町ならばともかく、ここは多民族都市ロンドンだ。一度や二度の遭遇で顔を覚えるはずはないだろう。つまり、羽多野はアリスが彼を認識できる程度の回数は病院に足を運んでいたことになる。

「彼は、そんなに頻繁に病院に出かけていたのか?」

「毎日のように姿を現していたようですよ。病院のことは黙っていて欲しいとその場で口止めされたそうですが……やはり谷口さんにも話していなかったんですね」

 部屋を貸していたくせにそんなことも知らなかったと呆れているのだろうか。だが、見栄を張ったところで栄が羽多野のことを何も知らないのは事実で、それを正直に話さないことにはトーマスやアリスの持つ情報を提供してもらうこともできないのだ。

 わざわざ異国に来て毎日病院を訪ねるという行為の意味は――考えるだけで胸が騒ぐ。元妻が羽多野の連絡先を探していたという話。それに応じてロンドンまでやってきた羽多野が栄に「観光」と嘘をついて毎日のように行っていた場所は病院。

「誰を訪ねていたんだろうか」

 栄の中ではほとんど答えが出ているが、信じたくない気持ちゆえにそう問いかけた。

「それは私も知りません。患者に対する守秘義務がありますから、アリスもそこまで踏み込んだ話はしませんから。ただ、あれだけ毎日のように病院に現れていた羽多野さんが突然姿を現さなくなったことを気にかけているようで……」

「それは……俺のせいかもしれない」

 栄は口ごもった。羽多野がまだロンドンのどこかにとどまっているのだとすれば、突然病院通いをやめることはないだろう。もしかしたら本当に、栄のアパートメントから追い出された後の宿泊費用が捻出できずに帰国してしまったのだろうか。

 頭の中を駆け巡るのは最悪のシナリオ。もちろんただの想像、いや妄想に過ぎないのだが、知る限りの情報をつなぎ合わせると浮かび上がるのは嫌なイメージだけだ。例えば羽多野の元妻が命に関わるような病で入院しているとか。

 もちろん日系アメリカ人である彼女がなぜロンドンで入院するのか、なぜわざわざ離婚した夫を呼び寄せるのかなど不明なことはいろいろとあるのだが――あの男が未練や復縁を理由にロンドンに滞在していたというストーリーよりはよっぽど説得力があるし、栄も救われる。

「羽多野さんが出て行ったのは、いつ頃ですか?」

 聞かれて栄はスマートフォンのカレンダーを開く。忘れもしない、友安と四ノ宮と食事をした翌日だ。

「あれは確か……この日かな。彼が病院へ行かなくなったのと時期が重なるのだとしたら、俺の家を出て行った後で日本に帰国したのかもしれない」

「可能性はありますね」

 しかし、それにしたってアリスがなぜ羽多野のことをそんなに気にかけるのか。急に姿を見かけなくなったというだけでは説得力に欠ける気がして栄は聞いた。

「でもどうしてアリスはそんなに彼のことを? お見舞いのためにロンドンに滞在していたにしても、彼は観光ステイタスの日本人なんだから、いつまでもここにいられるわけじゃない」

「ええ。確かにそうなんですけど、アリスが気にしているのは――」

 そこでトーマスは言葉を切った。よっぽど言いづらい事情があるのだろうか。だがここまで聞いてしまった以上、栄は彼らの持つ情報すべてを知る権利はあるはずだ。というかトーマスだってそのつもりでわざわざ栄を呼び止めたに決まっているのに。

「なんだよ、もったいぶって」

 栄が身を乗り出して続きを催促すると、トーマスは当惑顔でスマートフォンを取り出した。

「いえ、私が聞いているのも限定的な話ですし。そうだ谷口さん、時間があるようならアリスをここに呼んでも構いませんか? 十五分とお約束したのは嘘になってしまいますが」

「……うん」

 栄がうなずくと、トーマスはすぐにアリスに電話をかけた。ちょうど夜勤明けの非番日で、近くのデパートで冬物を見繕っていたというアリスは十分ほどで栄とトーマスの待つカフェにやってきた。同時に近くの四人掛けテーブルが空いたので、席を移動した。

 なんだか話が予想外の方向に転がりはじめた。もしかしてあの日に栄が羽多野の言い訳を聞きもせずに追い出したのは間違いだったのだろうか。いや、翌日だってなんだってチャンスはいくらだってあったのに、修復の努力もなく去って連絡もしてこないのは羽多野だ。悪いのは自分だけではないはずだ。ざわめく心をどうすることもできず、とりあえず栄はアリスに謝った。

「なんだか俺の友人のことで迷惑をかけているみたいで、ごめん。でも心配しなくても彼は行方不明になったわけではなくて……さすがに長居されるのに疲れて俺が出て行ってくれって言ったから」

「だったらいいんだけど、ずっと彼の様子は気になっていて」

 長い指をテーブルの上で組んで、アリスは言った。

 勤務先の病院で羽多野を見かけるようになったのは夏の終わり頃。最初はナースステーションにやって来て、とある入院患者の名前を出して病室を尋ねた。そのとき対応したのはアリスではない別の同僚だったのだという。

「ただ、むやみに病室を教えるわけにもいかないので患者との関係を確認したところ黙り込んで、そのまま帰ってしまったらしいの。なのに翌日からも毎日のようにやって来ては待合室に座っているから、気味が悪い人がいるねって噂になって」

 羽多野は毎日のように待合室の隅に暗い顔をして座っていたが、やがて自身に向けられる不審の目に気づいたのか病棟内には入ってこなくなった。代わりに病院の中庭にあるベンチに座っては、じっと見舞客の出入りを眺めていた。

「いつもうつむいて暗い雰囲気だったから、街で会ったあの日も最初はサカエと一緒にいるのがあの人だっていうことにも気づかなかったくらいよ」

 だが、パブで話しているうちにアリスは羽多野が毎日のように病院で見かける不審者であると気づいた。そして、トーマスと栄が席を外したタイミングで勇気を出して聞いた。

「あなた、毎日わたしの勤務先に来ているんじゃない? って聞いたら驚いた顔をしたけど、認めたわ。わたしも病院じゃ髪をまとめてメイクも違うし……何度もすれ違っている看護師だとは気づいていなかったみたい」

 アリスは羽多野が病院に通っていることにも何らかの事情があるのかもしれないと察した。

「彼は、なんのために病院に通っていたんだ?」

 だが、肝心の質問にアリスは首を振った。

「古い知人が入院しているんだけど、けんかをしたままだから会いに行くか悩んでいるんだって笑ってた。でもそれ以上の話は……」

 そうやって大切な質問をかわしてしまうのは、いかにも羽多野らしい。だが栄に対するのとは違ってきっと羽多野はアリスには嘘をついてはいない。「古い知人」が病院にいるというのも「会いに行くか悩んでいる」というのも本当のことだったのだろう。

「多分最初に病室を尋ねていた患者さんがその知人なんでしょうね。でも、知り合いなら会いに行けばいいじゃないって何度言ってもタカは笑うだけで。それで――最後に会ったときに『もういい』って」

「もういい?」

「ええ。もう大丈夫だと。帰国するのかと尋ねたら、そういうわけじゃないけど、もうここには来なくても大丈夫なんだって言って……それ以来姿を見ていないわ。別に用事がなくなったならそれでいいんだけど、あんまりに急だったから」

 アリスの気持ちは理解できる。いくら大丈夫だと言われても、何ヶ月も病院に通った挙句、目的であろう見舞いを果たさないままで「もういい」というのは普通ではない。

「その、最後に彼に会ったのがいつだったかは覚えている?」

「ええと……確か急な入院が連続して忙しかった日だったから……」

 そしてアリスが導き出したのは――栄が友安や四ノ宮から羽多野の過去について聞いた、ちょうどあの日の日付だった。

「昼休みに外に出た帰りに、中庭で。最初の頃に不審者扱いされたせいか、用事があるなら中で待てばいいって言っても頑なに病棟の外にいたわ」

 だが、時間など聞いても聞かなくとも同じことだった。あの日の栄は帰宅が日付を回っていたのだから、確かなのは羽多野が栄に追い出されるよりも前から病院にはもう行かないと決めていたこと。そしてその病院――いや、そこに入院していた人物こそが、羽多野がロンドンに滞在する目的だったであろうこと。

 羽多野の連絡先を聞き回っていたという元妻。そしてロンドンにやってきた羽多野。だが、彼は一度だけ患者の部屋番号を聞こうとしただけで、あとは病棟に入りもせずに毎日ウロウロと病院の周囲を歩き回っていただけなのだという。

 なぜ彼は、彼女に会わなかったのだろう。そして、どうして急に病院に通うことを止めるなどと言い出したのだろう。その時点ではまだ、ロンドンの滞在先を失っていたわけでもないのに。何よりそもそも羽多野をここに呼び寄せたのは元妻その人であるのだ。

「あの、羽多野さんが病室を聞いていたその人ってもしかして」

「サカエ、『her』ではなくて『his』よ。……あ、いけない」

 核心に触れようとした栄の質問をアリスはすかさず訂正し、すぐに気まずそうな顔をした。たとえ性別だけだろうと不用意に栄相手に患者の情報を明かす訳にはいかないのだろう。

 だが、アリスの言葉は栄に新しい衝撃を与えた。「her」ではなく「him」、それは羽多野が見舞いに行こうとしていた相手が女ではなく男であることを意味している。

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