第54話

 話の流れでトーマスとアリスから夕食に誘われたものの、栄は丁寧に断って帰宅した。楽しく会食という気分にはなれないし、それは多分彼らも同じだろう。

 羽多野が面会に行くか悩んで――おそらく会わないままだった相手が誰なのか。アリスも、羽多野や栄を気にする気持ちと職業意識とのあいだで板挟みになっているようだった。

「その入院患者さんに事情を話してみましょうか。その上で会うと言ってもらえさえすれば、サカエを連れて行ったって問題はないはずだし」

 そう申し出てくれたのだが、栄は気が咎めた。そもそも羽多野との約束を破って栄に話をする時点で躊躇はあったはずなのに、彼女にこれ以上の負担をかけるのは忍びない。

「トーマス、アリス、ありがとう。とりあえず俺の方から何とか彼に連絡を取ってみるよ。その上で力を借りたいことがあればまた改めて相談に乗って欲しい」

 強がり交じりにそう言った栄に、アリスは暗い表情で付け加えた。

「ただ、ひとつ覚えていて欲しいの。もしもタカがまだあの人に会いたいと思っているなら、残された時間はあまり長くはないかもしれない。だから私、約束を破ってこの話をサカエに……」

 その言葉はひどく重い。つまり羽多野が数か月も病院に通っては病室を訪ねることをためらい続けた「彼」の状態は決して良好ではないということだ。だからこそアリスは、羽多野が病室訪問をあきらめたことに本当に後悔がないかを気にしているのだった。

 食欲は皆無だ。帰宅した栄はそわそわと落ち着かない気分でしばらくカウチに座って今日の会話を反芻し、それから客用寝室へ足を向けた。羽多野が出て行って以来空っぽのままの部屋に入り、クローゼットの扉に手を掛ける。そういえば羽多野の荷物には、休暇には不似合いなフォーマルウェアが入っていた。そう、まるで冠婚葬祭に備えてきたかのように。

 腕時計に目を落とす。時刻は午後十時過ぎだ。羽多野がロンドンにいるのならば、ちょうど夕食を終えて好きな酒でも傾けている頃合い。日本に戻っているならば朝。やや早いが、連絡をするのが非常識というほどの時間ではない。栄はスーツのポケットからスマートフォンを取り出し、羽多野の電話番号を呼び出すとしばらくそれを見つめていた。

 ここから先に進もうとするなら、それなりの覚悟が必要だ。

 羽多野は栄に、離婚経験について自らは話さなかった。渡英の目的も黙っていた。会いたい人がいるということも、その人がいる病院に毎日のように通いながらも部屋を訪ねられずにいることも。ネガティブな話を何一つ打ち明けないまま、過去の一部が明らかになっただけであっさりと姿をくらませた。

 でも、何度か細切れに語られた遠い過去の話の中では苦労やコンプレックスを控えめながらも栄に打ち明けた。少年時代に急にアメリカに連れていかれて、慣れない環境で一年間も言葉を発することができずにいたこと。おそらくその頃に周囲の恵まれた日本人――駐在員や外交官の子どもに見下されたと冗談交じりに話していたっけ――への感情をこじらせて、後々の大学時代の強烈な負けん気や上昇志向のきっかけとなったのかもしれない。

 彼が栄に過去を語ることに心の準備や順序が必要だったのだとすると、それは少しずつ前に進んではいた。「もう少ししたら、君にはちゃんと話すつもりだった」その言葉を単純に信じることはできないが、信じたい気持ちを否定することはできない。

 羽多野は本当は何を考えていたのだろうか。

 羽多野というのは本当に、栄が思っていたとおりの男なのだろうか。

 いつも余裕ぶって、地位やプライドにはこだわらない。人のミスを肩代わりしてマスコミに叩かれても、そのせいで仕事を失っても「仕方ない」とへらへら笑っている。あれは果たして羽多野という人間の本質だったのか。それとも内心は若い頃同様のギラギラと負けん気の強い性格を失っておらず、だからこそ栄を目の敵にしたのか。

 わかっているのは、そんなことをいくらひとりで考えたところで答えはでないということだ。

 他人に自分の理想を押し付けて想定外のことが起これば裏切りだと見なす、それが栄だ。だからできるだけ自分を裏切らない、優しくて自己主張の少ない尚人に惚れ込んだ。でも、世の中を知らない若い頃ならともかく、人は永遠に誰かに手を引かれたままで歩き続けるわけではない。尚人との時間が終わったのは、つまりはそういうことだった。

 同じ過ちを繰り返すことも傷つくこともしたくないから、栄は羽多野に対しては、恋でも情でもないというエクスキューズで「期待をしない相手には裏切られることもない」と自分に言い聞かせた。しかし、いくら言い訳をしたところで、一緒に暮らして、その存在にたまには助けられ、肌を触れ合わせれば感情は無のままではいられない。

 今度こそ栄が自分の意思で羽多野を呼び、彼自身の深い部分まで語らせるのならば、きっと無傷ではいられない。羽多野という人間を暴く代償として何か大きなものを差し出すことになる、それだけの覚悟はできているのだろうか。

 答えはまだわからない。ただ、このまま終わりにするのは嫌だと思った。アリスの言うとおり「あまり時間が残されていない」のであればとりわけ。

 栄は一度深呼吸をしてから、通話ボタンをタップした。一秒、二秒……バクバクと体内に響く自らの心音を聞きながら応答を待つ。羽多野が出たら何と言おう。このあいだは一方的過ぎたと謝る必要があるだろうか。いや、でもあの件はどっちもどっちだ。

 ひどく緊張したまま時間が過ぎ、しかし呼び出し音は鳴らない。何度かやり直してみたが、やはり同じことだった。焦った栄はテキスト送信を試みるが戻ってくるのは「送信失敗」のメッセージのみ。要するに、羽多野がロンドンで使っていた電話番号がすでに無効になっていることを意味する。

「……ったく、どういうつもりだよ。たった半月だろ」

 いくらプリペイドでも、それくらいの期間は維持しておけよ。苛立った栄は心の中で毒づいて、悔しまぎれにマットレスに拳を叩きつけた。

 羽多野の日本の連絡先。笠井事務所に勤務していたときならまだしも、今では手掛かりひとつない。

 よくよく考えれば間抜けな話だ。二ヶ月ほども一緒に暮らして、あんな恥ずかしいことまでしたのに栄は羽多野のまともな連絡先のひとつも知らない。日本での電話番号も、どこに住んでいるのかも。たまにアルバイトを頼まれると言っていた保守連合の事務局に聞けば連絡を仲介してくれるのかもしれないが、在外勤務中の公務員がいわくつきの元議員秘書について嗅ぎまわるなんてあまりに怪しすぎる。

 羽多野との連絡が取れないのでは、アリスの申し出を受けて入院している「彼」とやらが面会に応じる意思を示したところで無意味だ。もちろん、こういった展開まで予想した上で羽多野が敢えて電話番号を破棄したという可能性もあるのだが。

 でも、羽多野がもう栄と会うことを望んでいないにしても、例の病室にいる人物と会うことを望んでいないにしても――栄は羽多野という人間の真実を知りたい。

 しばらく考え込んで、栄はひとつの可能性に思い当たる。羽多野が会おうとしていたのが「彼」すなわち羽多野の元妻ではないにしても、彼女が羽多野の連絡先を探し求めロンドンに呼び寄せようとしていたことは間違いない。ということはやはり、羽多野と病室の男をつなぐのは彼女しかいないのではないか。

 栄はポケットの名刺入れを取り出して中身を確かめる。しかし受け取った名刺はすべて職場に置いているので目指したものは見つからない。

 明日まで待つか迷うが、思い立った今動かなければ、また弱気が顔を出しそうな気がする。下手に動いて傷ついたり失望したりするよりは目をそらしたほうがいいと、そんないつもの自分が明日の朝には戻ってきているかもしれない。再びコートを羽織りながら栄は配車アプリで車を呼んだ。この手のサービスはあまり好きでないのだが、冬の寒い夜にいつ通りかかるかわからないタクシーを待っている余裕はない。

「すみません、忘れ物しちゃって」

 大使館の前で車を降りると、守衛に聞かれてもいない言い訳をしながら建物に入る。ちょうどどこの部署も急ぎの案件は抱えていない時期で、ほとんどの部屋の明かりは消えていた。

 オフィスに入り照明をつけ、机を探る。先日のイベントでも大量に名刺交換をしたので整理が間に合っておらず、引き出しの中には輪ゴムでまとめた名刺の束があった。それを広げて順番にめくると、すぐに目当ての一枚にたどり着いた。

 奇妙に思われるだろうか。でも他の、役所や保守連合のルートを使うよりはよっぽど面倒はない。栄は名刺に書かれた電話番号を自分のスマートフォンに打ち込んだ。もしこの番号も通じなかったらどうしようと一瞬不安が頭をよぎる。しかし数度のコールの後で、電話口からは「Hello」と男の声が聞こえてきた。

「あ、あの」

 突然の日本語に一瞬面食らったような間があって、相手も「はい?」と日本語で返す。間違いない、この声は四ノ宮だ。

「夜分すみません、先日友安さんの紹介で食事をご一緒させていただいた、谷口ですけど」

 栄が恐縮しながら名乗ると、四ノ宮の声がパッと明るくなる。

「ああ、谷口さんですか。先日はどうもありがとうございました」

 そのままいかにも日本人らしい挨拶を続けようとする四ノ宮を、栄は遮る。本題に関係のない話をする時間は一秒でも惜しい。

「あの、変な話で恐縮なんですが、実は四ノ宮さんにお願いがあって」

「……お願い?」

 四ノ宮の声に戸惑いが滲む。当たり前だ、旧友のつながりでたった一度食事をしただけの人間から突然遅い時間に電話が掛かり、しかも「お願い」だなんて。ここが日本であれば間違いなく宗教かネットワークビジネスを疑う状況だ。栄だったら全身全霊で警戒する。

 だが、今の栄には遠慮している余裕などない。自分でも不審に感じるくらいの早口でまくし立てた。

「先日食事の際に、四ノ宮さんたちの大学の同窓である、元議員秘書の羽多野――羽多野貴明について話をしていましたよね。ご友人が、羽多野氏の元結婚相手から彼の連絡先を知りたいと相談されたと」

「ええ。それがどうか?」

 四ノ宮自身が羽多野と親しいわけはない。食事の席を盛り上げるための共通の話題に過ぎなかったのに、今になって蒸し返されて驚いているに決まっている。だが、少なくとも四ノ宮のルートをたどれば。

「その人経由で、なんとかその――羽多野さんの元奥さんと連絡を取ることはできないでしょうか」

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