第55話

 栄からの唐突すぎる依頼に、四ノ宮はあからさまに面食らっていた。かといって正直に理由を告げることもできないので栄は苦しい交渉を予想した。

「過去の仕事の関係で羽多野さんと連絡を取りたがっている人がいて、でも秘書を辞めて最近では党にも顔を出していないようなんです。なのでどうにか連絡がつかないかと……世話になった人からの相談なので無下にもできず……」

 嘘八百を並べ立て、それでも当惑した様子の四ノ宮に自分の連絡先を伝えてくれるだけでいいからと食い下がった。栄があまりにしつこかったからだろう、やがて四ノ宮は折れた。

「彼女自身も居場所がわからず探し回っていた状態らしいので、聞いたところで手がかりが得られる確証はありませんよ」

「わかっています。それでも一応出来るだけのことはしたくて。本当に申し訳ありません」

「いえ、谷口さんの連絡先を伝えてもらうだけならお安い御用ですし、そんなに申し訳なさそうにされるとこっちの気がとがめますよ。それにしても羽多野さんって、そんなにあちこちから探し回られるほどのことをしでかしたんですか? みんなして借金取りみたいに……」

 四ノ宮の素朴な疑問に対して栄は愛想笑いしかできなかったが、ともかく電話の目的は果たされた。

 終話ボタンを押してから栄はほっと一息つく。ここからはしばらく返事待ちの時間だ。焦って動いている最中よりも待っているあいだの方がよっぽど時間が長く感じられるが、祈る以外にできることもない。しばらく待って「彼女」が栄に連絡をしてこないのならばあきらめるか、さらに他の手を考えるか。念のため四ノ宮の名刺をスマートフォンに取り込んで、栄は再び大使館を後にした。

「お疲れさまです。忘れ物は無事見つかりましたか?」

 そう声を掛けてくる守衛に反射的に「どうでしょう、見つかればいいんですけど」と答えてから会話が噛み合っていないことに気づいたが、訂正はしなかった。

 そんなに申し訳なさそうにされると――帰りの車の中でふと四ノ宮の言葉を思い出す。電話口の栄の態度は、本当にそんなふうに感じられただろうか。

 出会った頃、羽多野からは「いくら愛想笑いして頭下げても、隠し切れないくらい高い自尊心が見えている」と指摘された。仕事だからと必死で謝っているのに悔しそうに見えるとか、丁寧に説明しているようでも相手を馬鹿だと思っているのが透けて見えるとか、思えばひどいことばかりを言われたものだ。だが皮肉にも栄は今、仕事仲間の恋人に頭を下げ、一度しか会ったことのない男に恥知らずにも懇願してまで羽多野を探し出そうとしている。今の自分の姿を見たら羽多野は面白がって笑うだろうか、ふとそんなことを考えた。

過剰な期待をしないよう心がけていた栄だが、意外にも翌々日にはタカギ・リラと名乗る女性から電話があった。

 突然友人経由で見知らぬ男から「あなたの元夫の連絡先を知りたい」と頼まれた場合、まともな女性だったらすぐに返事はしないだろう。もし栄の妹が同じような目に遭ったならば「意味不明」の一言で電話番号を破り捨てたっておかしくはない。なのにリラは不審そうな態度どころか、いの一番に謝罪した。

「私の日本語、完璧じゃなくてごめんなさい」

 言われてみればわずかにぎこちない気はするものの、彼女の日本語は意思疎通には一切不便はない。発音も美しく、ただ外国で生まれ育ったゆえなのか語彙がやや子どもっぽく思えるくらいだ。何より、栄は米国人と接した経験は少ないが、開口一番自分の言葉の不十分さを謝るというのは実に日本人らしい振る舞いのように思えた。

「いえ、こちらこそ急に勝手なお願いをして申し訳ありません。あなたなら彼の連絡先を知っているかもしれないと思って」

 やや低めの落ち着いた声を聞きながら、これが羽多野の元妻で、つまり羽多野は過去の一時期「タカギ」と名乗っていたのだと思うと心がざわめく。だが肝心なのはそんな低俗な感情ではなくここで羽多野の居所が明らかになるか否かだ。栄の胸は高鳴ったが、まるでそんな気持ちを見透かしたようにリラは言った。

「期待するといけないから先に言います。私、タカの電話番号もメールアドレスも知りません」

 膨らみ切った期待にリラはいとも簡単に針を刺した。栄は言葉を失い、すぐにはまともな返事すらできない。結局リラも何も知らないというのか。彼女がいるロンドンに羽多野がいるというのはただの偶然で、栄の考えすぎだったというのか。でも、それにしても出来過ぎた話ではある。

「だったら、彼がロンドンに来たのも偶然だったんでしょうか。二ヶ月近くも滞在していたんです。俺はてっきり、リラさんが呼んだからだと」

「ええ。それは、そうだと思います」

「は? ……えっと、すみませんが」

 会話が完全にすれ違っている。栄はもどかしさと苛立ちでテーブルを指先でコツコツと叩いた。これも彼女にとって第一言語でない日本語で話しているからなのか、リラも懸命に言葉を選んでいるようだった。

「えっと、電話、今はできないんですけど。でも、前に一回」

 そこでようやく栄の頭の中で彼女が伝えようとしている内容がつながる。リラは羽多野と電話で話した、だが今はその番号が通じない。つまり彼女も栄と同じ、羽多野から連絡を断たれた状態だと言いたいのだろう。

「ということはやはり、最初に羽多野さんをロンドンに呼んだのはリラさん、あなたなんですね」

「はい、わたしです。でも……」

 気まずい沈黙。彼女がどのような理由で羽多野を探しロンドンに呼ぼうとしたにしろ、その時のやり取りは決して笑顔で振り返る類のものではないのかもしれない。

 栄はどこまでリラ相手に粘るべきか迷った。彼女と話すことはきっと羽多野という人間を知るためにおおきな意味を持つ。だが一番重要な彼の居場所を知る手掛かりにはならないし、かつて羽多野の妻だった女と話すことには予想どおり不快感が付きまとう。

 だが栄の迷いはいとも簡単に払われる。

「谷口さん、電話じゃなくて会って話ができますか? タカがロンドンにいたって……それを知っているってことは、あなた彼に会ったんでしょう」

 リラの側から切り出されれば、断る理由はなかった。

 土曜日の午後、リラが指定したのはわざとなのか偶然なのか、アリスが務めている病院の近くにあるカフェだった。羽多野は病院にいる「彼」に会うために、このあたりまで毎日のように通ってきていたのだ。その男は羽多野にとってどのような存在なのだろうか。

 直に会う約束をして以降、栄の心は落ち着かなかった。なんせ栄がリラについて知っていることはあまりに少ない。アメリカンドリームを叶えた日系人実業家のひとり娘。羽多野の元妻。それだけだ。電話で話した限りだと栄が思い浮かべるステレオタイプの日系アメリカ人とは違い、どちらかといえば控えめな印象を受けた。羽多野の女の趣味など聞いたこともないが、やはり美人なのだろうか。自分より整った顔だったら腹が立つだろうが、逆だったらそれはそれで複雑な感情を抱きそうだ。

 そして当日、約束した店の入口から店内を見回すと奥の席に座った女性が手を挙げた。ほっそりとしたきれいな女性だが並外れて人目を引くようなタイプではない。手入れの行き届いた髪は顎のラインできれいに切りそろえられて、品の良いワンピースにローヒールを履いていた。要するに栄からすれば可も不可もない、ある意味文句の付けづらいタイプだった。

「わざわざ来てくれて、ありがとうございます。高木リラです」

 近くに寄ってみて、栄はリラの白い肌や、やや茶色がかった目の色、日本人にしては彫りの深すぎる顔立ちに気づいた。

「……こちらこそ、谷口です」

 栄が自己紹介をしながら顔を凝視していることに気づいたのか、リラは笑った。

「名前は日本人みたいでしょう。でも私のお父さんは日系アメリカ人で、お母さんはイギリス人なんです。だから私はたくさん混ざっているんですよ」

 そういう意味で見つめたわけでは――と言い訳しようにも嘘をつくタイミングは逸した。品の悪いことをしてしまった自分を恥じながらコートを脱ぐ栄に向かいリラは、母への配慮から家庭内の公用語が英語だったため日本語レベルが中途半端にとどまったのだと言った。

「お父さんからは、日本人なのにそんなんじゃ駄目だっていつも叱られてました」

「リラさんのお父様は、日本のどちらご出身なんですか?」

「住んだことないですよ。お父さんもアメリカ生まれだから日本への憧れがすごく強くて、アジアのものを輸入する仕事をはじめたんです」

 話を聞きながら栄は複雑な気分だ。リラが嫌味な女だったり、何かしら見下したくなるような要素があればまだ気持ちの置き所が簡単だ。しかし彼女は過剰ではないものの美しく、品よく、感じの良く、賢そうな女性だ。それこそ自分がもしも異性愛者でこんな女性と結婚したいと言い出したならば、両親がもろ手を挙げて喜んだくらいに。そんな彼女が羽多野の妻だったのだ。冷静に考えればむしろ羽多野のような男にリラは出来すぎた女性のようにも見える。

 いや、でも彼らが夫婦だったのは過去のことだ。リラは羽多野の今現在有効な連絡先を知らないのだから、復縁などしているはずもない。今の彼らはその程度の関係なのだと自分に言い聞かせる。とにかく今日のところは邪念を捨てて、情報交換だ。羽多野を探すという意味ではきっと、栄とリラの利害は一致している。

 そこから先は、日本語が完璧でないリラと英語が完璧でない栄のあいだで折り合いをつけつつ、双方の言葉を行ったり来たりしつつ話を進めた。

「谷口さんは彼とはどういう関係なんですか? お仕事って言ってましたけど」

「きっかけは仕事です。でも、ご存じかと思いますが彼はトラブルに巻き込まれて仕事を辞めたので、その後は……友人みたいな……」

「お友達だから、いろいろご存じなんですね。それで、タカがロンドンに来ていたというのは本当ですか?」

「え? だって呼んだのはあなたでしょう? そうおっしゃったのはリラさん、あなたじゃないですか」

 栄は思わず聞き返した。なぜ羽多野を呼んだ張本人であるリラが、彼がロンドンにいたのは本当かなどと言い出すのか。するとリラは気まずそうにうなずく。

「ええ、でも、連絡先を探り当てロンドンに来てくれないかと話をしたら、返事もなしに電話を切られてしまって。その後は電話も通じなくなってしまったんです。てっきり彼は怒っていてロンドンに来る気もないのだと。一度だけ病院で似た人を見かけた気がしたんですけど、声をかけようとしたら姿が見えなくなって、それきりです」

 その言葉から、ふたりのあいだに復縁のような甘い話がないことを確信して栄は安堵した。

 リラは「病院で」と言った。だとすればやはり、羽多野がロンドンに滞在していた目的はアリスの病院にいる人物なのだろうか。

「実はこの近くにある病院に羽多野さんがよく姿を見せていたようなんです。結局見舞いには行かなかったようですが、ある男性入院患者の病室をたずねたこともあったらしくて。リラさんはその方に心当たりがあるんですか?」

 例えば羽多野に子どもがいて、その子どもがひどい病だとか――最悪の想像をしながら栄が質問を投げるとリラは視線を窓に向けた。窓の外に見えるのは枯れた庭木と冬の空、そしてずっと先には病院がある。

「……あの病院には、私の父が入院しているんです」

「リラさんの、お父さん?」

 ここ最近ずっと気になってたまらなかった病室の「彼」とはリラの父、つまり羽多野の元義父だった。数年前に経営を引退してから、余生を故郷で暮らしたいというリラの母の希望で夫妻はロンドンに移り住んだ。肺がんが発覚したのはようやく生活が落ち着いてきた頃で、まさに晴天の霹靂だったのだという。

「夏前に余命宣告をされて、父が一度タカに会いたい……謝りたいというから連絡先をあちこちに聞き回って。でも、そうですか。やはり病院までは来てくれていたんですね……」

 そう言ってリラは顔を伏せた。病床にある父のことを思ってなのかその表情は曇り、今にも泣き出すのではないかと思ったが、彼女はただ黙って込み上げる感情を堪えていた。

 離婚してそれなりの時間が経っている元婿に、死ぬ前に謝りたいというのはどういう意味だろうか。そして、リラが「彼は怒っていて」と感じていること。きっとそれは羽多野とリラの別れの理由や、羽多野が日本に戻ってきたこと、かつてと別人のように振る舞うようになったこと――何もかもとつながっているはずだ。

「失礼ですが、あなたたちご家族と羽多野さんのことを聞かせてもらえませんか」

 栄が切り出すと、リラはゆっくりと口を開いた。