第56話

 市街地からは離れた住宅街の一角、休日午後の店内は客入りも半分に満たずのんびりとした空気が漂っている。そんな中で探り合うような緊張感に包まれたこのテーブルは明らかに異質だ、栄はそんなことを考えていた。

「ええと、どこからお話すればいいでしょう」

 口を開きはしたものの、リラはどう話をすべきか迷うかのように視線をさまよわせた。何を知りたくて何から聞きたいのか、はっきりとは決まっていなかっただけに、栄の口から飛び出したのはあまりに不躾な質問だった。

「リラさんと羽多野さんは、別れてから長いんですか?」

 まず離婚の話から、なんて男友達の質問としては異質だろうか。友人なのにそんなことも知らないというのはおかしいだろうか。そもそも羽多野が結婚していたことすら本人の口から聞いたわけではないのだから。栄の脈拍は早まるが、リラはむしろ話の方向性が定まったことを歓迎するかのように白く細い指を折った。

「ええと、もう十年くらい経ちます」

 十年といえば羽多野はまだぎりぎり二十代、学生結婚だったとしても結婚生活は実質五、六年といったところだ。いかにも若気の至り的な結婚――栄の心にそんな意地の悪い考えが浮かんだ。

「別れた理由を聞いてもかまいませんか?」

 デリケートな部分に踏み込む問いかけにリラも一度は黙り込む。それはそうだ、初対面の男になぜ離婚原因など話さなければならない。だが栄にとってはそれこそが知りたくてたまらない部分だった。何より今リラの口から聞いておかなければ、今後首尾よく羽多野をつかまえることができたとしても本当のことを教えてもらえるとは限らない。

 栄はリラの重い口をどうにか動かそうと、愛想笑いを浮かべた。

「すみません変なことを聞いて。ただ俺の聞いた話では、彼はずいぶん熱心にあなたを口説いて一緒になったみたいだったから……その」

 さっきの会話からすれば、羽多野が今も怒りを持続していたとしても不思議はないくらいのトラブルがあって、ふたりは離婚したということになる。だが栄の想像力を総動員したところで、この品の良い女が羽多野を怒らせる理由など浮かばない。

 するとリラは「仲は良かったんです」と呟いた。それと同時に表情がふわりと和らぐ。

「最初は知人のパーティで出会ったんです。友達には、彼は私の家……父の仕事に興味を持っているだけだから注意しろって言われて、だから食事の誘いも何度も断りました。でもあまりに熱心だったから」

 家業目的で近づいてきたなどと生々しいことを口にする割に、リラの言葉には嫌悪のかけらもないのが不思議だった。それにしても学生時代と今で羽多野の様子はずいぶん違っているようだが、何度断られても食らいつくところは同じだ。あの執着が自分だけに向けられていたわけでないと改めて思い知って、栄の胸の奥はチクリと痛んだ。

 一度くらいはデートしてから判断してほしいと食い下がられたリラは、根負けして仕方なく羽多野の誘いを受けた。とはいえ決して前向きだったわけではないので、少し散歩してランチにでも付き合えばそれでいいだろうと思って約束は昼間。申し訳程度に健全なデートをして、やはり気が進まないと断れば羽多野も引き下がるだろうというのが彼女のもくろみだった。

 しかし、初デートはリラにとって予想外のものだった。一世一代の勝負のつもりだったのか、美術館、公園散歩という学生にとっての王道コースの後に羽多野がリラを連れて行ったのはドレスコードの必要なレストランだったのだ。

 そこまで話してリラは思わず笑みをこぼす。

「ジャケットにタイも締めているから妙だなとは思ったんです。ただ、彼にとってはそれが精一杯のおしゃれなのかなと。……語弊ある言い方ですけど、タカが経済的に恵まれた学生でないことは周囲の話から知ってましたから」

 いくら父親が事業で成功しているといってもリラ自身は普通の経済感覚を持つ女学生だった。親に連れられて値の張るレストランや芸術鑑賞に出かけたり、たまには高級店で買い物をすることもあるが、初デートのランチとして彼女が想定していたのはあくまでカジュアルな店だったのだ。

「それは……」

 栄は聞いているだけで寒々しく恥ずかしい気持ちになってしまう。いくら最初で最後のチャンスといえ、付き合ってもいない相手との食事に高級レストランというのはあまりに重すぎる。ランチであれば問題ないと考えたのかもしれないが、それにしたってサプライズで高級レストランとは最悪だ。もしもその日のリラがレストランに入れないようなカジュアルな格好をしていたら羽多野はどうするつもりだったのだろう。借金まみれの貧乏学生には、彼女の服装一式をその場で買い揃えることなど不可能だ。

 だが、羽多野の醜態はそれだけでは終わらない。そもそも美術館の時点で無理をしているのはあからさまだった。有名作品の前で立ち止まっては明らかに突貫で勉強してきた内容を得意げに喋る羽多野に、リラは苦笑いを隠すのに必死だった。そこに来て高級レストランのランチだ。「この店の予約をしてある」とドアの前まで連れていかれた瞬間、リラは用事をでっち上げて逃げ帰ろうかと思ったほどだったという。

 話の続きを聞きながら、栄は自分の身に起きたことでもないのに羞恥のあまり消えてしまいたくなった。

「でも、結局そのまま付き合ってご結婚されたんですよね。つまり彼は、レストランで評価を挽回したんですか?」

 いたたまれなくて栄は少しでもまともな羽多野の話を聞きたいと思うが、返ってきたのは残酷な言葉だった。

「それどころか彼、ドレスコードのあるレストランに行くのは初めてだったんです。美術館と同じで一生懸命マナーを予習してきたんでしょうけど、表情も手つきも硬くてせっかくのお料理の味もまったく感じてなかったと思います。エスカルゴを殻ごと床に飛ばしたときなんて真っ青になってましたから」

 懐かしそうに微笑むリラを見ながら、栄は以前に羽多野と交わしたやりとりを思い出す。長尾の代打で羽多野を食事に誘ったときのことだ。

 あのとき栄は、かつて自分が良かれと思って尚人を連れ回しマナーやら何やらを教えたのは、彼にとっては迷惑だったのではないかと愚痴をこぼした。そして羽多野はきっぱりとそれを否定した。

 羽多野は、彼自身の洗練された食事作法については大学時代に恥をかきながら学んだのだと言った。そして、自分はその体験に助けられたから、きっと尚人も栄のおかげで世界が広がったことに感謝しているに違いないと言い切ったのだった。あの言葉は栄を確かに救った。もちろん普段の羽多野と似つかわしくない優しさを当時の栄はただ不気味だとしか感じられなかったのだが。

 果たしてぎこちない手つきで食事する羽多野をリラはどう感じたのか。いや、聞かなくたってわかる。栄が上手くカトラリーを使えず恥ずかしそうな尚人を見て微笑ましく感じたように、きっと彼女も――。

「おかしな話なんですけど、それでタカへの印象が変わったんです。南部訛りの英語を話す性格の悪い日本人だって彼の前評判は散々でした。でもいざ向き合ってみると、日米の慣れない環境を行き来しながら彼なりにずっと戦ってきたのだとわかりました。わたしにも必死に準備して向き合おうとしてくれたんだと思うと、いいかげんな気持ちでデートを受けた自分が恥ずかしいくらいで」

 羽多野はあのときの会話で、尚人に彼自身を重ねていたのだ。と同時に栄をリラに重ねたからこそ、普段からは考えられない優しい言葉を口にしたのだろうか。そう考えると胸の痛みが増した気がした。

 リラは懐かしそうに、美しい大切な思い出であるかのように羽多野の話をする。そして羽多野はきっとあの日、栄と食事をしながらリラのことを考えていた。そんなふたりが別れ、連絡もままならない状況にあるのはなぜだろう。もしかしたら自分はからかわれているのだろうか。そのうちどこかから羽多野が飛び出してきて、これは壮大な仕掛けだったと意地悪く笑うのではないかと、そんなことすら栄の頭をよぎった。

「……そして、お二人は結婚を」

「ええ。私がタカとの結婚を考えるには、彼ならばきっと父の眼鏡にかなうだろうという打算もありました。立派な志を持った日本人男性と結婚しろというのが、わたしが子どもの頃からの父の口癖でしたから」

 リラの父の父、つまり祖父は幼くして親族に連れられアメリカに移民した日系一世だったが、やがて起こった戦争中に日本人収容所に収監されたりと苦難の多い人生を送ったらしい。そして、親の苦労を聞かされて育ったが故にリラの父は人並外れて強い日本への愛着と、成功への野心を抱くようになったのだという。

 そういえばブラジルの日系人社会にも、第二次世界大戦中に敵国人として辛酸を舐めたが故に過剰な愛国心をたぎらせ、戦後も頑なに日本敗戦の事実を認めなかった一派がいると聞いたことがある。それは極端な例にしても、日本を離れているがゆえに母国への執着を強くし、古い日本人気質を強く受け継ぐというのは決しておかしな話ではない。だが、だとすればなおさら――。

「つまり、お父さんも彼を気に入り、あなたも彼も望んでの結婚だったわけですよね。それがどうして……」

 栄は思わず身を乗り出した。一体彼らが結婚してから五、六年のあいだに何があったというのか。

「……幸せだったんです。その頃までは」

 遠い目をしたリラが呟いたそのとき、店内の空気を切り裂くように小さな子供の声が響いた。

「ママ―!」

 けたたましい声に思わず視線を向けると、小学校に入るか入らないかくらいの年齢の少女がカフェのドアをくぐり、リラに向けて一目散に走ってきた。