あれがリラの娘、そう認識した瞬間に栄の心臓は跳ねた。しかし、続いてゆっくりとした足取りで店に入ってきた男が優しい声で少女をたしなめる声に落ち着きを取り戻す。
「こら、ママは大事なお話をしているから終わるまで離れた場所で待ってるって言っただろう」
男は明らかなアングロサクソン。そして娘の顔立ちに東洋人の色は薄く、どう見ても羽多野と血縁があるようには見えない。
彼らに小さく手を振ってからリラは「ごめんなさい」と栄に謝った。どうやら話が終わったタイミングで迎えに来てもらう算段になっていたところ、到着が早すぎたらしい。いや、あの様子からすると母親のいない休日が我慢できない娘がここに連れてくるよう父を急かしたのかもしれない。
「じゃあ、いい子にするからケーキを食べてもいい?」
子どもながらに器用な交渉術を見せる少女に、父親は苦笑する。
「わかったよ。代わりにパパと二階に行って、ママの邪魔しないって約束できるかい」
「約束する!」
栄とリラに気を遣うように男は娘の手を引いて階段を上がっていく。その背中をぼんやりと眺めながら栄は完全に拍子抜けした気分だった。
「……再婚、されていたんですね」
「はい」
なんだ、それならそうと早く言ってくれ。思わずそんな言葉まで込み上げる。
羽多野に隠しごとをされていたのはショックだったが、四ノ宮の話を聞いた栄があんなにも動揺した一番の原因はリラの存在そのものだった。もしかしたら復縁しようとしているのだろうか、天秤にかけていいようにあしらわれたのだろうか、考えれば考えるほど怒りがこみ上げた。最初からリラが再婚して新たな家庭を築いていることまで知っていれば少しは冷静に話ができたかもしれない――いや、無理か。あのときの栄ならばきっと、リラの不倫すら疑って羽多野を責めただろう。
「娘さん、かわいいですね。おいくつなんですか」
自分の短気な性格を呪いながら、 わかりきったことを念のため確認する。
「七つになりました」
十年前に離婚した羽多野との間に七つの娘がいるはずはないから、聞くまでもなくリラとあの男とのあいだに生まれた子どもだ。別に子どもの有無で何が変わるわけでもないのに、ほっとしてしまう。
それにしても、言葉の問題もあるとはいえ核心に迫らないままずいぶんと時間をかけてしまった。このままだらだらと思い出話を続けるようだと、肝心な部分を聞く前にあの少女がケーキを食べ終え二階から降りてきてしまうかもしれない。
栄にとって他にどうしても聞きておきたいのは離婚の理由、そしてなぜ羽多野が近くをうろつくだけで決してリラの父の面会に行かなかったのかということだ。改めて質問をしようとしたところで、リラがぽつりと言う。
「多分ですけど、あの子といるところを見られたんじゃないかと思うんです」
「え?」
会話の繋がりを見失った栄に、気まずそうなリラ。だが彼女が続けて口にした言葉には、栄が知りたくて堪らなかったことへの答えが含まれていた。
「病院でタカに似た人を見かけたことがあるとお話ししましたよね。そのとき私、娘と一緒だったんです。もしかしたらそのせいで彼は病室に行く気をなくしたのかもしれません」
離婚して以来連絡を取ることもなかったため、リラは再婚のことも出産のことも羽多野に直接は伝えていないのだという。父の病気の件で電話を掛けたときも近況報告はできないまま。羽多野は学生時代の知人との付き合いはほとんど断っているので、人づてに聞いているということも想像しづらい。
「リラさんが彼を見かけたというのは、いつ頃ですか」
「いつだったかしら。まだそんなに寒くない時期……十月の初めか中旬くらいだった気がするけど」
リラの答えに栄は首をかしげる。なにしろ羽多野は九月にロンドンにやってきて間もない時期から栄が家を追い出す前日まで、毎日のように病院に通い続けていたのだ。リラの娘を見る前も、後も同様に。
「多分、羽多野さんが病室を訪ねなかったことに娘さんは関係ないと思います。ただ、ある時期から病棟内に入らなくなったらしいので、リラさんたちに会うのを避けようとしていたのは事実かもしれませんが……」
それが栄にとって精一杯の想像だった。
栄だって尚人とは納得の上で別れた。尚人が笠井未生に惹かれていて、おそらくいずれ彼の元に向かうであろうと覚悟もしていたが、それでも実際に彼らが交際していると聞いたときにはひどいショックを受けた。羽多野も似たような気持ちだったのかもしれない。
「やっぱり複雑なものですよ。別れた相手とはいえ何らかの気持ちはあるでしょうし。ただリラさんたちがそれを気にするのもきりがないというか」
できるだけ当たり障りのない言葉を選ぶが、なぜだかテーブルに置かれたリラの指先が小さく震え出す。まるで、激しい感情が湧き上がるのをどうにか止めようとするかのようにぎゅっと手を握るリラを、栄はなぜだか恐ろしく感じた。
だが、実際にリラの発した言葉は栄の想像を遥かに超えて、不穏なものだった。
「気持ちというのが愛情のことであれば、ノーです。ただ、恨みや憎しみであれば、おそらくイエス」
リラの言葉の意味が栄には理解できない。いくら過去の羽多野がもっと野心的で激しい感情を秘めた男だったとしても、さすがに別れた妻の再婚や出産をそこまで根に持つだろうか。
「憎しみ、ですか? さっきからあなたは怒りとか憎しみとか、おどろおどろしい言葉ばかり口にされますけど、正直俺の知る彼は……」
どう考えたって似合わない。政治スキャンダルの黒幕役を押し付けられ、公共の電波で辱められた上に職を失ったにも関わらず笠井志郎を恨むでもない。それどころか頼まれれば保守連合でへらへらとアルバイトをしていたような男だ。もちろん元妻が幸せそうにしている姿を見てショックを受けるくらいのことはあり得るが、あの羽多野がしつこく誰かを恨むとか憎むというのはさすがに大げさではないか。
だが、リラは彼女の言葉に確信を持っているようだった。間違いありません、ときっぱり言い切って顔をあげたリラは、細い指先どころか今や小さな唇までもわなわなと震わせていた。
「だって、私は彼をひどいやり方で捨てたから」
栄は一瞬、リラは冗談を言っているのだと思った。ひどいやり方で男を捨てるなんて、目の前の穏やかで品の良い女の姿とは対極にあると言っていい。
「あなたが、彼を捨てた?」
間抜けにおうむ返しするだけの栄に、リラはうなずく。
「はい。だからタカは今も私や父をひどく恨んでいるんです。父がどうしても死ぬ前に彼に謝りたいと言うからロンドンに来て欲しいと電話はしましたが、正直断られることは想定していました。……だからむしろなぜ彼がここまで来たのかが不思議で、谷口さんに会えば理由がわかるかと思ったのですが」
淡々とした言葉の中身はひたすらに恐ろしい。リラが羽多野を捨てた。その理由は栄が当初想像していた「羽多野の性格の問題で見限られた」といった類のものではない。だとすれば、あり得るのは――。
「原因は、今のご主人ですか?」
まさかそんなタイプには見えないが、尚人だってそうだった。この世の誰よりも浮気と縁遠いタイプの尚人が、栄との関係に行き詰まった末であるとはいえ他の男と密かに寝ていた。だったらリラが羽多野以外の男に目移りした可能性だって否定できない。
しかしどうやら栄の予想は外れていたようだ。
「夫とは離婚した翌年に出会いました。……タカとの仲に問題はありませんでした。人はいろいろと言いましたが私にはいい夫だったし、大学を卒業してすぐに父の会社を手伝ってくれるようになり、彼の働きは周囲に認められていました」
だったら何だというのだろう。夫婦仲は良く、親との関係も良好。そんなふたりに一体どんなことが起きれば、十年も憎しみが続くような離婚劇に結びつくのか。
「だったら、どうして別れるだなんて」
これ以上もったいぶらないで、いいかげん正解を教えて欲しい。苛立ちまじりの栄を、リラが正面から見据えた。
「彼、子供が作れなかったんです」
胸の奥に引っかかったトゲを吐き出すような、それはひどく苦しそうな告白だった。