「子どもが……?」
いくら離婚した妻とのあいだとはいえ羽多野に子どもがいるというのは栄にとって望ましくない事実だ。だから先ほど現れた少女がリラと再婚相手の子だと知って安堵を覚えた。だが、一般的な家族計画とは縁遠い人間である栄にとってはそこが想像の限界で、つまり子どもの有無こそが羽多野とリラの離婚原因であるという発想は微塵も持っていなかったのだ。
子どもができないから離婚する。あまりに自分自身の価値観から遠い話であるが故に、それがどのような意味かを理解するには時間が必要だった。もちろん男女の結婚において子どもの存在が重要だということ自体はわかっているのだが、どうにも実感が伴わない。栄はただぼんやりとリラの話を聞き続けた。
「私は子どもが好きだし、両親も孫の顔を見たがっていました。タカが大学院を修了してからは早く授かりたいねとふたりで話していました。でも、なかなか妊娠できなくて……一年くらい経った頃にもしかして体質的な問題があるんじゃないかとふたりで病院へ」
リラと羽多野はそれぞれ検査を受けた。その結果わかったのは、羽多野が無精子症と呼ばれる状態にあるということだった。
無精子症、これもまた栄にとっては馴染みのない話だ。一生子どもを作るつもりのない栄にとってセックスひいては男の沽券にかかわる勃起障害は頭を悩ませる大きな問題だったが、正直勃起して射精さえできるのであれば精子の状態などどうだっていい。だが、偶然栄にとって縁遠いだけで、この世の過半数にとって妊娠というのは重要な問題なのだろう。そういえば元部下の大井も、精液が薄い気がするとか何だとか言って結婚前に検査まで受けていた。
かといって羽多野とリラの場合もすぐに離婚の話になったわけではない。無精子症といっても手術や投薬により改善する場合もある。何度も検査を繰り返し、例えば少しでも正常な精子が採取できるのであれば人工授精も可能なのではないかと道を探った。
「ただ、残念ながら彼の場合は、そういった治療の効果も芳しくなくて」
要するに、どのような方法を用いたところで羽多野には子どもを作ることができない。それが最終的な結論だった。
それでもふたりは前向きな将来を話し合った。アメリカでは養子を育てることも珍しくないし、そもそも今の時代、子どもを持たずとも幸せに暮らしている夫婦などいくらでもいる。そんな話をしながら結婚生活を継続する道を模索した。
「だったら、どうして」
栄の問いかけにリラは唇を噛みしめる。
「……最終的には私の心の問題です。家族の形は様々だと頭ではわかっていても、こんなことでタカとの結婚生活を否定するなんて間違っているとわかっていても、それでもどうしても自分の子を抱きたいという欲を捨てきれなかったんです」
さっき店に入ってきた娘にリラが投げかけた控えめながら愛情に満ちた眼差しを思い出す。彼女はどうしても母になりたかった。それが彼女が「羽多野を捨てた」理由なのだった。
もちろん、もしもいくら望んだところで彼女自身が血のつながった子を授かることができないのならば折り合いをつけるしかなかっただろう。一方の羽多野はリラほどは自分の子どもには拘らなかったかもしれない。つまりふたりの立場が逆だったら、彼らは今も夫婦のままでいたかもしれないのだ。
だが、幸か不幸かリラ自身の体は何の問題もなく子を授かり産むことが出来る――相手が別の男でありさえすれば。そして羽多野という男への愛情と自分の子を産み育てたいという希望の間で長く悩み、リラの心はやがて後者に傾いた。
「彼にはっきり告げたんですか? 自分の子どもが欲しいからと」
「それは……」
リラは言葉を濁す。彼女自身も夫の身体的な理由で離婚を持ち出すことがどれほど残酷であるかは十分に理解していた。そして、別れたいと言い出せずふさぎ込むリラに助け舟を出したのは父親だった。
「父はもちろん自分の血を引く跡継ぎを欲しがっていましたが、それに負けないくらいタカのことを気に入っていたんです。だから当初は実子にこだわる必要はないんじゃないかと私を説得しようとしたくらいで。……でも、私がどうしても子どもをあきらめきれないと知り、最終的には悪役を」
リラの父は羽多野の前で土下座をして、子どもを作れない婿にこのまま家にいてもらうわけにはいかないと告げた。ひとり娘であるリラが子をあきらめることは血筋の断絶を意味する。アメリカに渡って苦労してきた祖父や父の苦労を思うと高木家を絶やすことなどできない。だから申し訳ないが身を引いてくれ。そう訴え、さらには十分すぎる金銭的な補償を申し出た。
「そんな、まるでお金で解決しようとするみたいな……」
栄は思わず顔をしかめた。
「ええ、タカはお金も土下座も望んではいませんでした。でも父の覚悟を前にどうすることもできないと悟ったのでしょう。絶望と怒りで……あのときの表情は忘れられません」
そんなの当たり前だ。自分にはどうしようもないことをあげつらって存在を否定され、しかも金を渡すから言うとおりにしろだなんて。栄だったら耐えきれない。
だが――羽多野には受け入れることしかできなかった。リラと両親がそこまでの心を決めていたならば、いくら拒否したところで調停やら訴訟やらに持ち込まれて最終的には離婚を勝ち取られるのが確実だ。そのとき羽多野が得られるのは幾ばくかの慰謝料。結局羽多野が得られる代償など金しかないのだ。
「それで、彼は離婚を受け入れた。そして日本に帰国を?」
「仕事は準備するといったんです。そうでなくとも、タカならばアメリカで良い仕事を見つけることは可能だったでしょう。でも彼は、もういいと。疲れたから日本に帰ると……絶望したようにそう言い残して出て行ったのが最後です」
それが、羽多野が日本に戻ってきた理由だった。そして本人曰く、特にやりたいこともなくぶらぶらしているところに声を掛けられて、アルバイトのつもりで議員事務所で働きはじめた。
学生時代と今とで羽多野の性格や価値観が変わってしまったのはなぜか。今の栄にはたやすく想像することができる。羽多野は栄に「どうしようもないことはある」と言った。誰が悪いわけでもなく、どうしようもない、変えられないことはあるのだと。あの言葉はきっと、彼の経験から生まれたものだった。
思うようにならない少年時代に反骨精神ばかりを培って、かつて彼を見下した人間の多くを見返せるだけの人生を手に入れたはずだった。一流の学歴、美しい妻、アジア人実業家の跡継ぎの地位。だがそれは、羽多野本人にはどうすることもできない理由で崩れ去った。
他人に期待をしない、あきらめることの上手い男は決して最初からそうだったわけではない。理不尽な運命にあまりにも傷ついて絶望して、変わらざるをえなかったのだ。栄が己の高いプライドを守るため「穏やかで賢くて心の広い紳士」の仮面を身に着けたのと同じように、羽多野もまた彼なりの方法でこれ以上の傷を避けようとしていたのではないか。
「……ひどい」
自分の声が震えているのがわかった。沸々と湧き上がるのは怒り。
リラの気持ちはわかるし理解もできる。だが、土下座をしたのは父親で金を払ったのも父親、リラ本人は何も失っていない。それどころかちゃっかり再婚後に娘を授かって、理想通りの生活を手に入れている。何もかもを失った羽多野との落差はあまりに大きい。
「あんまりに……残酷ですよ。だって彼には何の非もないのに」
短気な性格は自覚しているが、今感じている怒りは栄にとって馴染みのないものだった。いつだって怒りは自分のため。もちろん家族や恋人が貶められれば腹が立つが、それも広い意味では彼らの価値が毀損されることがそのまま栄の価値までも貶めてしまうからだ。だが今は――栄は羽多野のことを哀れだと思い、ただ純粋に彼のための怒りを感じていた。
それはもちろん、生き様を変えるほどひどく羽多野を傷つけたリラへの怒りだが、同時に、羽多野の言葉や態度の裏にある空虚に気付くことなく一方的なわがままをぶつけ続けた自分への怒りでもあった。
「わかってます、ひどいことをしたって。だから、彼に恨まれるのも当然なんです」
苦しげなリラの姿にも同情はない。それだけのことをした自覚があるのならば、なぜ放っておいてやらない。死ぬ前に謝罪して楽になりたいだなんて、謝る側のエゴだ。羽多野はちっとも救われない。リラや父親だけが罪を償ったつもりで楽になって、一方で妻に捨てられ仕事も追われ、失ってばかりの彼は――。
だが、感情に任せてリラに叱責の言葉を投げつけそうになる栄を止めたのは羽多野がここにやって来ていたという事実だった。
羽多野は毎日のように病院まで足を運んで、もしかしたら病室にいるリラの父に会うべきか、会うとしたら何を話すべきかを必死で考えて、でも会わなかった。許すことはしないが恨み言も言わない、それが羽多野にとって精一杯の矜持であるならば今の栄にできることは――。
「すみません、余計なことを言いました。……娘さんをあまり待たせてはいけませんね。行ってあげてください」
そう言って話を打ち切るのが栄にとっての精一杯だった。外に出て、頭を冷やして、これからのことはひとりでゆっくり考えよう。そんなことを考えながらテーブルの伝票を手に取り立ち上がろうとしたときだった。
「あの、谷口さん。もしもタカに連絡がついたら――」
そこでふつりと糸が切れた。連絡がついたらどうだというのだろう。電話を打ち切られ、病院には来たけれど会わないまま帰られ、十分すぎるほどの答えを得て、リラはこれ以上何を欲しがっているのか。
「あなたのお父さんに会うために病院に来いと伝えなきゃいけませんか? 彼を不要だと追い出したのはあなたたちの側だと知った以上、俺にそんなこと言えるはずがないでしょう」
思わぬ怒りを投げられて、ハッとしたように再びリラの顔が真っ白になった。お上品でお綺麗なお嬢様。わがままではあるが彼女は彼女なりの幸せを追求しただけ。悪意などないし、死期の近い父の望みを叶えたいという行動原理自体は完全なる善意だ。ただ、彼女は絶望的に鈍感で、切り捨てられた側への想像力が働かない。
「そうですね、ごめんなさい……」
だが、小声の謝罪程度で栄の気はすまない。昔の栄はリラと同じ側の人間だったからきっと、離婚の経緯を聞いたところでただ羽多野を運の悪い気の毒な男だと哀れんだだけだったろう。だが、栄はもう、切り捨てられる苦しみも失う辛さも知ってしまった。
「そういえば彼、今は女性には興味がないみたいんですよ」
栄はまだ座ったままのリラを見下ろしてそう告げた。こんなこと言うつもり微塵もなかったのに、抑えきれない苛立ちが悪趣味な言葉に化けた。
弾かれたように顔を上げたリラは、栄の表情の中にこれまでひた隠しにされていた意地の悪さと傲慢さを見ただろう。そして、自分が過去の汚点をぺらぺらと話してしまった相手の素性を初めて不安に感じたようだ。
「谷口さん、あなたタカとはお友達だって」
唇を震わせるリラに、栄は不敵に笑って見せた。
「違ったら、どうします?」