第59話

 羽多野と栄の関係がもし友人ではないのだとすれば? 栄の意地の悪い問いかけにリラは絶句した。子を作れない男など不要だと自分から捨てておきながら、元夫が今は男と寝ていると思えばやはりショックなものなのか。

 あからさまに動揺するリラに気を良くした栄は、さらに言葉を重ねる。

「男性としての機能面を否定されて、あなたたち父娘から捨てられて、もう女性は懲り懲りだと思ったのかもしれませんね」

 そこまで言ってから打って変わって栄はいつもの外向きの姿――穏やかで紳士的な物腰で、にっこりとリラに微笑みかける。

「冗談ですよ、すみません。羽多野さんが気の毒に思えてちょっと悪趣味なことを言ってしまいました。気にしないでください」

「谷口さん……」

 安堵した風な声。だが、一度芽生えた疑いがこんな簡単な言葉で払拭されるはずがないことは織り込み済みだ。

 リラは羽多野を傷つけ、同時に実の父親に悪役を押し付けてまで彼女が望んだ完璧な家族を手に入れた。優しそうな夫と、夫婦の血を引いた可愛らしい娘。大きな幸せを感じると同時に、その幸福の裏側にべっとりと張り付いた罪悪感を抱えて生きているのだろう。

 だからこそ死期の近い父親に謝罪の機会を与え、あわよくば羽多野の許しを得るというのは彼女の後ろめたさを払拭するには最高のシチュエーションだった。リラは羽多野に拒絶され怒りをぶつけられることを半ば覚悟しながら賭けに出て、その賭けに負けたのだ。

 だからこれは敗北者の代償。栄はリラの心にちょっとした重石を加えてやるだけ。いくら栄が「冗談だった」と告げたところでリラは、自分がひどい方法で切り捨てたために元夫が性志向を歪めたのではないかと後味の悪さを感じ続ける。だが、栄だって広い意味ではリラの勝手に巻き込まれた身だ。このくらいは許してほしい。

「俺はただの知人です。偶然ロンドンに住んでいたから彼に部屋を貸す羽目になって、結果的に首を突っ込む羽目になっただけで」

 そして今度こそ栄はリラに背を向ける。彼女はそれ以上栄を呼び止めようとはしなかった。

 店を出て駅まで歩く。ひとりになると段々と後味の悪さが込み上げてきた。感情に任せて余計なことをしてしまっただろうか。別に羽多野のことなんてもうどうだって良かったはずなのに。

 いや――そんなことはない。そんなの嘘で、強がりで、どうだって良くなんかないからこそ栄はアリスを頼って、四ノ宮を頼って、苛立ちのままにリラを責め立てた。そして、これだけ手を尽くしたのに状況は何も変わらず、栄の心のもやもやは大きくなるばかりだ。

 羽多野がかつて失ったものや抱えてきた傷を知れば、これまでのようにあの男の勝手を怒る気にもなれない。かといって栄に何ができる。自分のことでいつだって精一杯で、尚人ひとり幸せにはできなかった。他人を救うとか他人を癒すとか、そんなのは栄の柄ではない。

 出会った頃の羽多野は不器用だったとリラは言っていた。栄は、垢抜けなくて、ただ野心に満ちていたという若い頃の羽多野を思い浮かべてみる。

 そんな男と出会っていたなら、栄は当時羽多野の周囲にいた日本人学生たちと同じように彼を田舎臭くてマナーも知らないくせに態度だけ大きな男だと見下し、それで終わっただろう。なんせあの男には尚人のような可愛げは微塵も備わっていないのだから。そしてもちろん羽多野だって栄のようなタイプを毛嫌いしたに決まっている。

 互いに一番嫌いなタイプであるはずの栄と羽多野が偶然出会って、確かに当初は犬猿の仲だった。しかし羽多野は仕事につまずき恋人を失った栄に手を差し伸べた。過去に大切なものを失った経験ゆえの哀れみだったのかもしれない。そして羽多野に振り回される日々の中で確かに栄が尚人との過去を思って眠れぬ夜を過ごすことはなくなっていったのだ。

 不思議だ。羽多野にも栄にもあまりに多くの物が不足している。割れ鍋に閉じ蓋というのはよく聞くが、欠落が欠落を埋めるだなんて、そんなことがあり得るのだろうか。

 すぐに帰宅する気にはなれずに、栄はひとしきり街中をうろついてから字幕なしではろくに内容を理解できない映画を一本観た。外に出ると小雨が降っていたので、コートの襟を立てて早足で駅に向かった。

 家に帰り着くと、雨に濡れたせいで身体中が冷え切っていた。風邪を引いてはたまらないので、バスタブに湯を張ってすぐに風呂場に飛び込む。

 ひどく緊張して消耗した一日を振り返りながら、目の前に浮かんだラバーダックを眺めた。いつも腹が立つばかりの間抜けな顔に、なぜだか今日は慰められているような気がする。荷造りの際の回収忘れだとばかり思っていたが、羽多野はもしかしたら意図的にこれを置いて行ったのかもしれない。「谷口くんを癒すため」と、冗談まじりの羽多野の声が耳の奥に蘇った。

「……なんだよあいつ、格好つけやがって」

 気づけば思わずアヒルにそう呼びかけていた。

 そうだ、期待外れもいいところだ。だって、栄がどれだけわがままを言っても飄々と受け流し動じない、そんな男だと思っていからこそ好き放題に振る舞っていたのだ。今になって実は心の傷を隠していましたなんて冗談じゃない。

 一体どこまで計算しているのか。こうしてわざと姿を隠して連絡を絶って、そうすれば栄が彼を気にして怒りもおさまるとたかを括っているのだろうか。ほとぼりが覚めた頃にひょっこり顔を出して、再び栄を翻弄するつもりなのかもしれない。

 ――いや、違う。

 本当はわかっている。あの日の栄の本気の怒りと拒絶は、それまでものもとは違った。結果的に誤解であったとはいえ、栄は羽多野の嘘と裏切りに本気で怒り、傷つき、全身で彼を拒絶した。そしてきっと羽多野はそれを、かつてリラから受けたのと同じような、決して撤回されない絶対的な拒絶だと受け止めた。

 栄は「ダッキー」を両手でつかみ持ち上げる。鼻先まで持ってきて、まるでそれが今ありったけの文句をぶつけたい男であるかのようにまくし立てた。

「だったら最初からもうちょっと繊細ですって顔してろよ! こっちもちょっとは手加減してやるから。散々余裕ぶって、いざってときに言い返す気力もなしに尻尾巻いて逃げるだなんて、話が違うんだよ」

 出だしこそ勢いの良かった罵りは次第に勢いをなくし、ついに栄は黙り込む。同時に両の手から力が抜けて、ゴム人形はぽちゃんと音を立てて湯に落ちて、ゆらゆら揺れながら姿勢を立て直した。

 落とされても沈められても涼しい顔で、気付けば元どおりの姿で浮かんでいる。自分たちもこのアヒルくらいのレジリエンスがあればいいのに。

 羽多野はきっと日本に戻ったのだろう。どのような心境ゆえかはわからないが羽多野はリラの父と面会しないと決めた。そして栄に拒絶された。彼にはもうロンドンにいる理由など微塵も存在しないのだ。

 日本だとすれば、どこに? 東京のどこかであることは確実だがそれ以上の手がかりはない。リラのルートも潰れた以上、職業上の疑念を受けずに羽多野の居場所を探す方法など栄にはもう残されてはいないのだ。

「まあ、知ったところでな」

 そうつぶやいて、自分がのぼせかかっていることに気づいた。かなりの長風呂をしてしまったようだが、今は心配してバスルームを覗きに来るような人間もここにはいないのだ。

 少々湯当たりしたようで、風呂上りにスポーツドリンクを飲んでカウチで横になった。しばらくそうしていると気分が良くなってきたので、冷蔵庫からビールを取り出して今日一日まともに目を通していなかったメールをチェックする。

 仕事のメールが数件、すべて休日出勤の日本からだが急ぎではないので返事は週明けでいい。後はニュースサイトや情報サイトの新着情報、ダイレクトメール。どれも見出しだけ確認してからゴミ箱へ。そして――その下に、栄は意外な名前を見つける。

 ――Naoto SAGARA、その文字列を見た瞬間に栄はビールのボトルを取り落としそうになった。

「嘘だろ」

 だって、出国前に送った挨拶メールにすら返事はなかった。後に羽多野の口から尚人が笠井未生と付き合っていると聞いて、新しい恋人ができた今となっては栄にメールを送る気にはなれないのだろうと納得した。そう、尚人が栄にメールを送るはずなどないのだ。

 栄は冷静になろうとしてまずはコンピューターウイルスを疑った。連絡先リスト全員に感染者名で怪しげなメールを自動的に送りつけてくるウイルスであれば不思議はない。だが、ウイルススキャンソフトは無反応だし、「お久しぶりです、尚人です」とやや他人行儀な件名の付け方もいかにも尚人らしい。

 栄は訝しみながら件名をクリックした。

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