緊張しながら読んだがメールの内容自体は何ということもない。最近片付けをしていて尚人の古いノートの間に紛れ込んでいる栄の手帳を見つけた、というものだった。もう五年ほど前のものだが必要であれば送る、と。
栄の手帳などただスケジュールばかりを書き込んだ実用本位のもので、大切に保存しておくような価値はない。仕事の関係でたまに前年のスケジュールを確認することはあるので一年ほどは取っておくが、不要になれば迷わず廃棄してきた。尚人だってそのことを知っているだろうに、勝手に捨てることができずに一応お伺いを立てるというのはいかにも彼らしくて、懐かしい気持ちになると同時に胸がざわめいた。
手帳は捨ててくれて構いません――尚人のかしこまった調子に合わせた他人行儀な返信を打とうとして、栄はふと手を止める。尚人のメールの末尾には自動挿入されたらしき署名。律儀にも名前だけでなくメールアドレス、携帯電話の番号、そしてスカイプのID。
邪な心がなかったわけではない。といってもよりを戻したいとかそういった類の感情とはまったくの別物で、尚人の優しく穏やかな声を聞けばこの疲れた心が少しは癒されるのではないかという程度の欲望。だが栄にとってはとるに足りない程度の欲でも、きっと尚人を困らせてしまうだろうとわかっていた。前に送ったメールへの返事がなかったのもどうせ、未生へ遠慮しているからに決まっている。
栄が電話を掛けたら、尚人はどうするだろうか。出てもらえない電話をかけるのがどれほど虚しいかは、つい最近思い知ったばかりだ。馬鹿なことは考えずこのメールを送信してお終いにすべきだ。わかっていながら栄の弱った心は揺れる。でも、もしかしたら。少しくらいなら。
考えているうちにビールは飲み干してしまい、物足りない栄はウイスキーの瓶を取り出した。昔は酒で失敗することなどなかったのに、ここ一、二年は飲むとろくなことがない。これも歳のせいだろうかなどと考えつつ、ちびちびと褐色の液体を口に運ぶうちに自制心は緩む。
栄は勢いに任せてスカイプを立ち上げると、尚人に向けて発信する。呼び出し音、しかし反応はない。よくよく考えれば日本はまだ早朝だ。週末の尚人が未生と過ごしているならば、それこそ同じベッドで抱き合って眠っている頃合いだ。栄は発信終了すると、メッセージボックスに一言「メールありがとう、手帳の件で話したい」と打ち込んだ。
明日の朝になったらきっと、愚かなことをしたと後悔するだろう。そんなことを考えながらやがて酔い潰れるように眠りに落ちた。
悪い夢を見たような気がするが、目覚めたときにはすっかり忘れていた。ついでに都合よくも自分が尚人に一方的なメッセージを送りつけたことすら栄の記憶からはすっぽりと抜け落ちていた。残っていたのは頭痛と吐き気だけ。
だから――午後になって突然スマートフォンが震え、そこに尚人の名前が表示されたときには心臓が止まるほど驚いた。
スカイプコールの呼び出しアイコンが待ち受け画面に踊る。一瞬意味がわからず、それからようやく二日酔いの抜けた頭に前の晩にしでかした愚行が蘇った。
はっきり言って無視したいと思った。昨晩はあんなにも声が聞きたかったはずなのに、通話アイコンをタップするだけで尚人とつながるのだと思えば意外なくらい栄は緊張した。
今は完全に他人のものになってしまった、かつての恋人。どんな態度で何を話すというのか。でも話がしたいと一方的なメッセージを送りつけたのはこっちだ。栄は思い切って端末を手に取った。
「……もしもし、栄?」
マイクを用いないインターネット電話特有の、やや遠い声。だがそれは間違いなく尚人の声だった。
「あ、うん……えっと、メール。手帳のことありがとう」
半ば真っ白になった頭で、なんとか正しい要件を告げることができた。
最後に電話で話してからは一年ほどが経つだろうか。尚人の柔らかい声色はまるで変わっておらず、しかしふたりのあいだに漂うぎこちない雰囲気は時間と距離――物質的にも心理的にも――を感じさせた。
「ううん、こちらこそいまさらごめん。栄が日本にいるうちに気づけば良かったんだけど、最近になってやっと学生時代の荷物を整理したから……」
声色は明るいが、ややわざとらしい。久しぶりだから、別れた恋人だから、それだけではない戸惑いが尚人の言葉の端々に滲んでいることに栄は気づく。ひどくぎこちなくて、ためらいがちで、でもそれ以外に何か言いたがっているかのような。
「あのさ、僕、栄に謝らなきゃって思ってて」
「謝る?」
思い切ったように切り出され、栄は思わず聞き返す。すると尚人は心底申し訳なさそうに続けた。
「夏前にメールくれたじゃない? イギリスに行く前に。あれに返事をしないままでいたから……」
「なんだ、そんなことか」
栄は拍子抜けして笑った。「そんなこと」どころか散々気に病んで根に持っていたのだが、いざ尚人の謝罪を聞けばどうでもいいことのように思えた。
「ただの一斉メールだったから、返信をくれたやつの方が少ないよ。そんなことを気にするなんて、尚人は相変わらず律儀だな」
それで挨拶メールの件は手打ちになったはずだが、尚人の声はまだ浮かない。
「それと、えっと――」
そこで急にひらめいた。そういえば、栄は尚人が未生と恋人関係にあることを知っているが、それは羽多野から一方的に告げられただけで尚人から直接聞いたわけではない。つまり、尚人は今の彼らの状況を栄に知られているなどとは夢にも思っていないのだ。
正直者の尚人は、この機会に栄に未生のことを話したいのだろう。だが、別れる前に栄が「あいつはやめておけ」と釘を刺したことを覚えているから切り出せないのだ。
「ナオ、何か俺に言いたいことあるの?」
少し意地が悪いが、まずは尚人を促してみる。
「え、うん……実は」
それでもまだ言い淀んでいるので可哀想になって、栄は「ごめん、知ってるよ」と告白した。
「え?」
きょとんと目を丸くする尚人の姿を思い浮かべながら、栄は続けた。
「笠井未生と付き合ってるんだろ。ごめんな、俺と電話なんかしてるの知ったら、あいつ怒るよな」
彼らが付き合っていると最初に聞いたときにはあんなにショックを受けたのに、時間がいつの間にか栄の醜い感情を昇華してしまっていたのだろうか。自分でも意外なくらいに栄の言葉は明るかった。
「ご、ごめん黙ってて……でも、どうして」
一方の尚人は混乱しているようだ。それも当然で、尚人も彼の性志向をオープンにはしていないから、共通の知人を通じて栄に未生の存在が伝わるということは考えづらい。なぜ栄が知っているのか――戸惑うのは当然だ。
「俺は地獄耳なんだよ」
羽多野の話をするのは面倒だったので、栄はその一言で誤魔化した。いや、それだけでは足りない。電話の向こうで黙り込んでしまった尚人は、間違いなく彼が栄との約束を破り、裏切りを重ねたのだと思っているのかもしれない。
「黙るなよ。そういうつもりじゃないんだ。あのときは確かにやめとけって言ったけど、それは、あの頃の様子じゃあいつとじゃナオは幸せになれないと思ったからで……俺は、ナオが自分で考えて決めたことなら尊重するよ。どうも聞いた話じゃあのクソガキもちょっとは人生見つめ直したみたいだし」
聞いたこともないようなFラン大学の不真面目学生だった未生は、あれから猛勉強をして国立大学の看護学部に合格したのだと聞いた。勉強で人間性が改善するわけではないことは自分や羽多野で証明済みとはいえ、未生が自身を変えようと必死の努力をして目に見える成果を出した事実は否定できない。
そして尚人が実際に未生の変化を目の当たりにして、彼と一緒にいることを望んだのであれば――。
「ナオは、今あいつといて幸せなんだろ」
答えは聞くまでもなくわかっていたし、聞いたところで多少の嫉妬心は芽生えてしまうだろう。でも栄はあえて直接的な質問を尚人にぶつけた。尚人の口から正直な答えを聞きたいと思った。
「……うん」
尚人は、はにかむような短い返事をした。それからしばしためらうような素振りを見せて、栄の様子を気遣う質問をする。
「それで……そっちは、栄は元気? 体調崩したりしてない?」
元恋人というよりは家族みたいな心配だなと思う。でもきっと、それは尚人なりに精一杯気を遣っての質問なのだと思う。メール一本で済むような内容なのに、直接話したいなどメッセージを送ってくる男は尚人の目にはどのように映るだろう。少なくとも尚人は、栄に「幸せ?」とは聞き返さなかった。