第61話

 栄が尚人との関係への苦い気持ちを引きずっているのと同様に、尚人も栄に対しては罪悪感を抱き続けている。そのことはわかっていた。どのような経緯があったにしろ栄という恋人がいる状況で尚人が未生と寝たことは確かで、その裏切りをいくら栄が許したところで後ろめたさは消えることがないのだろう。

 栄が完全に自信を持って幸せだと言える状況になる、それだけが尚人が救われる方法なのだと思う。ただ、今その言葉を口にしたところで嘘にしかならないし、自分のような厄介で自己中心的な人間が人並みの幸せを手に入れる方法など想像もできなかった。

 そもそも自分にとっての幸せとはなんだったか。学生時代の栄にとってそれは、人より秀でた人間だと認識されることであり、良い成績を上げて良い大学に入ることであり、自分や家族のプライドを満たしつつ何とか谷口家の長男としての義務やプレッシャーから逃れることだった。

 就職してからも基本的には似たようなもので、見た目も物腰にも気を遣って人から良く思われたい、仕事で成果を上げて人よりも出世したいと強く望み、その一方で自分にふさわしくかつ自尊心を傷つけない絶妙な立ち位置の恋人に癒しを求めようとした。

 ふと、いつかの羽多野の言葉を思い出す。〈だれにとってもいちばん不幸なことがあるとすれば〉〈それはだれにもなにごとにも利用されないことである〉。

 羽多野は結婚生活において価値を否定されてリラの元を去る羽目になった。その後の彼は日本で見つけた議員秘書の仕事において求められる汚れ役を完璧に引き受け、利用され尽くして放り出されたことにも恨み言ひとつこぼさず、栄に対してもなお「自分を利用しろ」と言い切った。

 栄は他人に利用されることなんてごめんだと思って生きてきた。目的のために自我を押し殺すことはあっても最終的に自分は尊重され人の上に立つ人間であると信じてきた。だから、人に利用されることに意味を見出す羽多野の価値観などきっと理解することはできない。

 それでもせめて彼が望んだものを想像する手掛かりくらいは、きっとここに。

「そういえばナオ、『タイタンの妖女』っていう小説読んだことある?」

 そんな問いかけでやや気づまりな沈黙を破る。突然の、これまでの会話の脈絡から外れた質問に尚人はやや面食らったようだった。いや、タイミングだけでなくきっと質問の中身にも驚いている。

「ヴォネガットの? 読んだことはあるけど、どうしたの? 栄いつも小説なんて時間の無駄だって言ってたじゃないか。宗旨替え?」

 外国の小説が好きでよく読んでいた尚人ならもしかして、とは思っていたがあまりにあっさり作者名を口にするところからすればよっぽど有名な作品なのだろうか。羽多野も尚人も知っているものを自分だけ知らないということには少しだけ羞恥を覚えるが、今はそんなことはどうだっていい。

「いや、小説は読まないよ。ただ知り合いがあんまり熱心に勧めるから、どんな話かと思っただけ」

「でもネタバレなんて面白くないよ。そっちでも売ってるんじゃない?」

 読書家らしい尚人の余計な気遣いに栄は苦笑する。世界的に有名な作品ならばこちらの書店でも売っているには違いないが、それは確実に英語で綴られている。

「いや、仕事でも英語漬けで正直いっぱいいっぱいなんだ。プライベートまで英語の本なんてキャパ越えだ、勘弁して欲しいよ」

「……そう」

 尚人の声に今日初めて笑いが混じった。何も面白いことなど言っていないのになぜ笑うのか、わけがわからず栄は問う。

「なんで笑うんだ?」

 その言葉がさらなる呼び水になったかのように、尚人はしばらく笑い続けてから答えを明かした。

「栄って前は、できないとか限界だとか自分から言うことなかったよね。だからそういうことをあっさり口にするのが新鮮だなって。……悪い意味じゃなくて、少し肩の力が抜けたのかなって嬉しくて」

 そう告げる声からはすっかり緊張感やよそよそしさが消えていた。

「そうか?」

「そうだよ」

 はっきり言って尚人の指摘は図星だった。かつての自分が同じやり取りをしたならば、意地になって原書に挑んでいたことだろう。だが素直に認めるのも恥ずかしいので栄は曖昧な返事で逃げようとする。

「……俺のそういうところが息苦しかったんだろ?」

「正直、ちょっとだけ」

 軽い調子の、しかし率直なやりとりに栄の心の澱もほどけていくようだった。二年前の尚人であれば栄の激高に怯えてこんな軽口は叩けなかったはずだ。うまく言えないが、自分たちの関係がようやく新しい、望ましい形に近づいているような気がした。

「ごめんな、最初から最後までずっと自分勝手で、俺の価値観押し付けて振り回して。前も言ったかもしれないけど俺、ナオの気持ち全然わかってなかったなって離れてから改めて感じることが多くて」

 自分の趣味の服を着せて、似合うと思う髪形にして、マナーを教え込んで。尚人を理想の恋人に仕立て上げることは楽しかった。でも一番大切なこと、尚人は尚人というひとりの人間であることを栄は十分に尊重できなかった。それが後悔で、乗り越えられない心のしこりだ。

「……栄、ちょっと待って」

 だが突然の栄の謝罪に、尚人はなぜだか語気を強める。

「もしも君がそんなことを思ってるなら、間違いだから」

「ナオ?」

 栄は戸惑う。先程の軽い調子のからかい以上に、尚人がこんなにも栄に強い口ぶりで話しかけることは珍しい、というかほぼ記憶にない。しかも明らかに彼は今、栄をとがめようとしているのだ。

「確かにちょっと窮屈だったことは否定しないよ。栄の仕事が忙しくなってからは、すれ違いが増えて辛い気持ちにもなった。でも、それ以上に栄は僕にたくさんのものを与えてくれたってわかってる?」

「ナオ……」

「地方から初めて東京に出てきて周囲に馴染めなくて、いつも自分だけ場違いな気分で下を向いてばかりいた。……そんな僕が今、堂々と顔を上げて東京を歩けているのは全部、君が手を引いてくれたおかげなんだ。そのことは忘れないで」

 強い言葉には優しさが滲む。栄がもはや肯定できなくなった過去を尚人は拾い上げ、栄の目の前に突きつけ、それは意味のあるものだったと断言する。尚人と離れてから過去を振り返るたびに重さを増していたはずの栄の後悔は力強い言葉の前に少しだけ軽くなる。

 それと同時に――優しいがそれ以上に弱く、いつだって栄の顔色をうかがってばかりだった尚人が見せた意外なほどのたくましさに栄は感動に似た気持ちを覚えた。もちろん、尚人をこんなふうに変えたのが自分と別れてからの時間と――未生の存在であることは悔しいが疑う余地はない。

「……うん、わかった」

 どう返事すべきかわからずただうなずく栄に、はっとしたように尚人は声のトーンを落とす。

「ごめん、話が逸れたね。小説の話をしていたのに。えっと、『タイタンの妖女』ってたくさんの登場人物が出てくるしストーリーもあちこち飛ぶから難しいんだけど……それでも無理やりまとめるなら……そうだな」

 柄にもないことを言ったと自分でも思っているのか、はにかみが混じりに尚人は半ば強引に話を軌道修正した。

「運命に無理やり番わされた男女が、長い時間をかけてようやく愛し合うんだ。彼らは互いのことなんて最初は全然好きじゃないし、運命に抗おうともがくんだけど、長い長い時間をかけて人生のほんの最後の一年に気づく――〈人生の目的は、どこのだれがそれを操っているにしろ、手近にいて愛されるのを待っている誰かを愛することだ〉って」

「へえ」

 それはとても抽象的な話で、小説を読み慣れている人間であればピンとくるのかもしれないが、栄にはどうにもピンとこない。だが、少なくとも羽多野はその物語に何かを見出していたはずだ。

「日本語で読みたければ送ろうか? 電子書籍でも読めたはずだけど、栄は苦手だって言ってたよね」

 どんな内容か知りたいと言っておきながら反応の薄い栄を不思議に思ったのか、尚人は親切にも日本語版の入手方法にまで気を遣う。だがそこまでしてもらう必要はない。

「ありがとう。でも、いいよ。どうしても読みたければ自分で取り寄せるから」

 栄は礼を言って断るが、尚人はそれを遠慮と思ったらしい。

 「遠慮しなくても、手帳を送るなら文庫本一冊一緒にしたって変わらないよ」

 そういえば、忘れかけていたが電話の名目上の目的は手帳の処理方法についてだったのだ。――もちろんそんなのはただの言い訳で、栄は手帳などそれこそ小説本以上に必要とはしてはいないのだが。

「手帳ならゴミに出しちゃっていいよ、どうせ見返すこともないから」

「そうなの? でも……」

 尚人は言いよどむ。いくら所有者の許可があったところで、他人の手帳を廃棄するのは気が進まないというのも当然の心理だ。かといって五年も前の手帳をわざわざ送料をかけて送ってもらうのは馬鹿らしい。

 喉元まで「だったらあいつに捨てさせろよ」と出かかるが、さすがに嫌味と思われそうでこらえる。だが未生にわたせばきっとすぐにでも栄の痕跡などゴミに出す――下手をすればその場で火をつけて燃やしさえするかもしれない。なんせあいつは人の恋人を寝取るようなろくでなしだし、あの笠井志郎の息子だ。

 そう、未生は笠井志郎の息子なのだ。

「……あれ、待てよ」

 そこでふと栄は思い立った。

 未生の実の父親である笠井志郎は元衆議院議員で、羽多野が政策秘書として仕えている人物でもあった。だから未生と羽多野は面識がある。それに笠井志郎は昨年の総選挙では落選したものの、議員返り咲きをあきらめてはいないと聞いているから保守連合とのパイプもあるだろう。いち公務員である栄が政党経由で人探しするのは悪目立ちしすぎるが、未生であれば。

 もちろん栄は、未生と自分が生涯わかり合えない敵だと認識している。とはいえ栄は未生に大きな貸しがあるのだ。幼い弟の不登校に悩んだ未生が尚人の助けを借りたいと頭を下げてきたとき、栄はそれを許した。

 あの代償を取り立てるのだとすれば、今しかない。