「……それを、未生くんに?」
住所でも電話番号でもいいから羽多野の連絡先を調べて欲しい――栄からの頼みを聞いた尚人の返事は明らかに困惑していた。
「第一どうして急に、未生くんのお父さんの元秘書の人の居場所を知りたいだなんて。あの、お見舞いの人だよね?」
「事情はどうだっていいだろ、とにかく急ぎで連絡を取る要件があるんだよ。……ところで今あいつ、近くにいるの?」
近くにいるならこの場で親に連絡を取らせたって構わない。性急な考えに突き動かされる栄だが、尚人はあわてたように否定する。
「いないよ。週末にはここに来ることが多いけど日曜の夕方には帰るんだ。大学の近くに住んでるから」
それもそうか、と思う。未生がいるのと同じ空間から尚人が栄に電話を掛けるはずがない。というよりは、きっと未生が帰るのを待っていたから栄へのコールバックに時間がかかったのだろう。栄と電話で話をしたこと自体を未生には伏せておきたいであろう尚人にとって、「栄の頼みを未生に伝えること」がどれほどハードルが高いかは想像に難くない。
「でも、未生くんとお父さんとの関係は相変わらずで連絡もとってないみたいだよ。頼んでみたところで……」
「ナオ、これは頼みじゃない。あいつは俺にでかい借りがあるだろう、それを返してもらうだけだ。それにいくら不仲だって、たまには親子のコミュニケーションくらいは取ってみた方がいいんだ」
未生に頼んだところで無駄だと遠回しにあきらめるよう促してくる尚人に、栄は強気と詭弁で押す。降って湧いたようなこの機会を手放すつもりなどない。それどころか尚人の幸せそうな姿に、多少の無理を言っても許されるだろうと安心を得たくらいだった。
最終的に尚人は栄の頼みを嫌々引き受けた。父親の伝手を使ってでも未生に羽多野の連絡先を突き止めさせること。しかも、回答は一週間以内。
「……よくわからないけど、一週間って現実的な締め切り?」
不安そうな尚人に、栄はわざとらしく傲慢な声色を出す。
「短すぎるって文句言うようだったらだったら、『谷口栄が、そんな簡単なことを一週間で調べられないような無能にナオはやれない、て言ってる』って言い返してやれよ」
「そんな」
完全に狼狽した風な尚人だったが、奇妙にもため息のあとでこぼれたのは笑いだった。
「何が面白いんだよ」
「いや、栄って、そんな物言いしてたっけ? なんか、強引というかちょっと子どもっぽいっていうか」
図星で顔が熱くなるが、電話なので尚人から見えないことは幸いだった。
「俺なんてそんなもんだよ、本当は最初から」
自分を良く見せようとするのでもなく、過剰に卑下するわけでもなく、栄はやっと今、等身大の姿で尚人と向かい会えているような気がした。
電話を切ると、栄はそのままスマートフォンの画面にカレンダーを表示する。クリスマスの週には完全に仕事の動きが止まる。今年は帰国も旅行もしないと職場で公言しているので前言撤回するのはやや気まずいが、大きな問題にはならないだろう。
日本人のホリデーシーズンと被っていないとはいえ、航空券はそれなりに高かった。それでも今のこの勢いを逃すわけにはいかないとばかり、栄は休暇の確約もとれないままにウェブ上の購入ボタンを押した。
メールで送られてきた搭乗券情報を見ながら、羽多野はロンドンへの航空券をどのような気持ちで購入したのだろうかと考える。
突然のリラからの電話で、かつて自分の価値を否定した元義父が末期がんであると知る。当時のことを謝りたいから会いたいと、航空券もホテルも手配するからロンドンに来てはもらえないかと一方的な、勝手すぎる話に思わず電話を切るところまでは想像できる。だがそれから何を思ってロンドンを訪れることを決めて――どんな気持ちでひとり長時間のフライトを過ごしていたのだろうか。
最初に強引に誘い出されたとき、恥ずかしいほど典型的な観光ルートを付き合わされた。わざとらしくはしゃいで見えるようだったあれは、憂鬱な滞在目的からいっときでも目を逸らしたかったのかもしれない。
*
翌日出勤してすぐに栄は休暇予定の変更を願い出た。親類の体調が優れないので一度見舞っておくようにと実家から連絡があった、とどこかで聞いた話を改変したような言い訳をでっちあげると、周囲は同情して正月明けまで日本でゆっくりしてくればいいとまで言ってくれた。
とはいえ全員が栄の出まかせをそのまま受け入れたわけではなく、ひとしきりの休暇交渉が終わるとトーマスが栄の袖を引いた。仕事について打ち合わせをしたい――そんな言葉で人気のないミーティングスペースに栄を連れていくと、小声で「日本に行くんですか?」と確かめた。
「ああ、そうだよ」
他の同僚もいる場所で今ちょうどその話をしたところだ。もちろんトーマスもその場にいた。にも関わらず彼が敢えて同じことを聞いた意味は明白だ。
「谷口さん、親類のお見舞いって言ってましたけど、それってもしかして……」
すでに羽多野を巡る騒動に巻き込んでしまっている以上、トーマスに嘘は通じない。かといってこの週末にあったことを何もかも話すかといえば、それもまた困難だ。羽多野やリラ一家のごく個人的かつデリケートな内容をそのままトーマスに伝えてしまうことはできない。
栄は少し考えて、差し支えない範囲で正直に今の状況を告げる。
「いろいろあって、アリスが言っていた例の患者の家族って人に会えたんだ。事情はちょっと複雑ですぐには話せないんだけど、それで……やっぱり一度羽多野さんと話をしてみた方が良いだろうと思って」
「いえ、それはいいんですけど……彼、やっぱり帰国していたんですね」
弁えているトーマスは、患者の性別すら知らなかった栄がどうやってその家族と会うことができたのかを聞かない。だがそんなトーマスでも、さすがに栄が羽多野の居場所を把握していないとまでは思っていなかったようだ。
「いや、多分日本にいるだろうと思うだけで確信はない。こっちの電話番号、もう通じなくなってるんだ。日本で以前使っていた携帯電話はロンドンに来る前に解約したみたいで、家も知らないんだけど」
「だったら、日本まで行っても空振りってこともあるんですか?」
できるだけ考えないようにしているシナリオに言及されて、栄は渋い顔をする。
「一応信頼できる友人に居場所を探すように頼んではいるけど、結果によってはそういうこともあるかもしれない」
もちろん未生が頑なに栄の頼みを拒む可能性も、羽多野が今では保守連合経由でも居場所がわからないような状態にある可能性も存在はするのだが、ネガティブな想像にはきりがないので頭から排除した。というよりは、栄は日本で羽多野と会うことができるかについてはなぜだか、ひどく楽観的な希望を持っていた。
第一に、未生の性格だ。常識知らずで失礼なクソガキであることには変わりないが、弟のことになれば不倶戴天の敵であるはずの栄に頭を下げたり、尚人にいいところを見せようとしてたったの半年でFラン大学レベルから国立大学合格を達成したりと無駄なガッツはある。栄の嫌味なメッセージがそのまま尚人経由で伝わっているのであれば、未生は意地になってでも期限内に羽多野の居場所を探り出すだろう。
「だったら結果を待ってチケットを取るという方法もあったんじゃ」
「今でさえ片道で十七万もしたんだ、ギリギリになったらいくら払う羽目になるのかわからないし」
「まあ、それはそうですけど」
とにかく何でもいいから行動せずにはいられなかった、などという恥ずかしいことは言えない。栄は日々じりじりと値を上げる航空券価格を持ち出すと、トーマスも一応は納得したようだった。
「羽多野さんに会って、お見舞いの相手のことを伝えるんですか? アリスが言っていたように、面会する気があるのならば早めに来た方が良いという話を……」
何も知らないトーマスは栄の親切心を疑わない。
だが、実のところは栄にも日本に行く本当の目的はわからない。自分が本当に羽多野に会いたいのか、会えたところで何を話して彼に何を望むつもりなのか。でもきっと、実際に顔を見ない限りはその答え自体が永遠に見つからないのだ。
「何を話すべきかは正直決めてないけど、顔を見たら浮かぶのかもしれないな。とりあえずは俺は彼がロンドンにいるあいだにはいろいろと振り回されて迷惑をかけられたから、そのお返しをしてやらなきゃと思ってね」
栄がそう言って笑うと、つられたようにトーマスも笑顔を見せた。彼は羽多野と栄のあいだに起きたことを何も知らない――だが、ふたりの関係を怪しむ程度の勘を持ち合わせてはいる。
そういえば、たとえ栄にその気がないにしたって、羽多野は栄に気があるように見えると言ったのはトーマスだった。
羽多野は栄のことをどう思っていたのか。栄が疑ったように嫌いなタイプを弄びたいだけだったのかもしれない。もしくは羽多野にとって、尚人を手放した空虚を抱えたままの栄は〈手近にいて愛されるのを待っている誰か〉に見えた――というのはさすがに考えすぎだろうが。
密談は終わり、オフィスに戻ろうと立ち上がる栄にトーマスが声を掛ける。
「谷口さんって、意外と」
「ん? どうかした?」
半ばひとり言のようなつぶやきに栄は聞き返すが、若い秘書は遅れてソファから立ち上がりながら緩く首を振った。
「いえ、何でもありません。私は休館日以外は普通に出勤するので留守はお任せください。あと、お土産ははずんでくださいね」
意外と抜け目のないところもあるトーマスに栄は、アリスの分まで含めてとっておきのお土産を買ってくるつもりだと答えた。