第63話

 久しぶりの日本――といっても、栄が英国赴任のために羽田空港を飛び立ってからはまだ半年も経ってはいない。

 懐かしいというほどの感慨はないが、そこらを歩き回っている人々がほぼ全員日本語を話していることに奇妙な違和感がある。ロンドンでは道ゆく人の言葉ほとんどが集中しないと意味を取ることができない、栄にとってはいわばノイズのようなものだった。だが、ここでは通りすがる人同士のちょっとした会話や空港内のアナウンスなど何もかもが、その気がなくとも理解できてしまう。ただ歩いているだけで情報量の多さに圧倒された。

 見知らぬ人がごく近い距離にいて、物を食べたり寝たりする飛行機は栄が苦手とするもののひとつだ。かといってさすがに私事旅行でビジネスクラスを使う程の経済力もないので約十二時間のフライトはひたすら苦行だ。こんな余計な苦しみを味わうのも羽多野のせいだと、探し当て顔を合わせた際に謝罪させる材料リストの末尾に加えた。

 理由を詮索されるのも厄介なので、今回の一時帰国については日本にいる家族、友人、同僚の誰にも話してはいない。羽多野の居場所を調べるよう頼んだ尚人に対してすらだ。土産も不要、仕事の予定もないというわけで栄の荷物は最小限で、二~三泊程度の出張に使うソフトケースに多少の着替えや衛生用品を入れてきた程度。それを機内に持ち込んだので、ピックアップエリアで人混みに紛れて預入荷物の搬出を待つ必要はなくすぐにセキュリティエリアの外に出た。

 空港ビルディングには大きなクリスマスツリーが設置され、流れているのもクリスマスソング。アパートメントのコンシェルジュにクリスマスプレゼントを渡してくるのを忘れたことをふと思い出す。そういう風習があると教えてくれたのも羽多野だったが、よりによってその張本人のせいでクリスマスにロンドンを離れることになるとは。羽多野の代わりに大掃除を手伝うという約束だけは破れないので出国前日に高い場所の蜘蛛の巣を払ってきたが、ほこりをかぶって大変だった。

 京急線に乗って都心部へ向かう。東京生まれ東京育ちの栄に都内でホテルに泊まった経験はなかった。最初は銀座あたりの適当なホテルを探したが、霞が関に近いと知り合いと顔を合わせる危険性が高くなるのでやめた。特に忘年会シーズンの銀座は要注意だ。

 そもそもの話、栄は外泊が嫌いだ。仕事柄出張は避けられないし、尚人と付き合っているときには「正しい恋人同士のイベント」として旅行に行くこともあったが、ホテルや旅館といった場所に泊ることは好まない。

 いくら完璧に清掃してあり、シーツや備品が洗濯済みのものに取り換えてあったとしても、どこの誰が入ったかわからない風呂に入り、どこの誰が使ったかわからないベッドで寝るのは落ち着かない。どこかの誰かがセックスをしたであろうダブルベッドはとりわけ苦手で、出張の際などホテルの厚意で部屋をアップグレードされるのをわざわざ断って狭いシングルルームを希望したことすらある。栄に望まぬ外泊。ワンポイント。栄はまた羽多野の罪状を付け加えた。

 午後着のフライトだったので羽田を後にした時点ですでに外は薄暗く、馴染みのある都内の光景が窓の外に広がる頃には完全に日は落ちていた。空港からリムジンバスの直行便がありかつ職場からも実家からも離れた場所をということで予約した西新宿のホテルにチェックインすると、急に気が抜ける。

 手の中には羽多野の住所を書いたメモ。栄が一方的に区切った一週間の期限ぎりぎりになってようやく返ってきた未生の調査結果は、ひどくお粗末なものだった。

「携帯電話はつながらないみたい。この住所も未生くんのお父さんの事務所に勤めていたときのものだから、今もそこに住んでいるかはわからないって……」

「はあ? あの野郎、その程度の情報に一週間もかけたのか? どこまで無能なんだよ」

 申し訳なさそうに切り出した尚人に、栄は思わず不満の声を上げる。と同時に電話の向こうから腹立ちまぎれに何かを蹴とばすような大きな物音が響いた。

「……栄、そんな言い方しないで。いろんな人に聞いてできるだけのことはしたんだから」

 困惑しきって、それでも栄を押さえようとする尚人の声。栄は尚人は前回とは違って一人で電話を掛けているわけではないのだと確信した。それも当然だ、自分が未生の立場だったら絶対に尚人の電話を監視しただろう。監視どころか今、スピーカー機能を使って栄の言葉は筒抜けになっているのかもしれない。

 元恋人と現恋人の両方に気を遣ってどうにも歯切れの悪い尚人の言葉を整理すると、どうやら未生は直接父親に聞くという方法は取らなかったようだ。尚人は「辞め方自体が円満というわけではなかったから、下手なことを聞けばやぶへびになっただろうし」と未生を弁護するし、栄の知る笠井志郎のキャラクター的にもその懸念は理解できる。とはいえ未生が父に連絡を取らなかったのは理屈よりは感情によるものだと断言できる。それでも未生は彼なりに羽多野の連絡先を探しはしたのだろう。結果得られたのが古い住所だけだというのはあまりにお粗末な結果ではあるのだが。

「だったら、今もその住所にあいつが住んでるかくらい見に行ったんだろうな」

 背後で怒りと苛立ちをたぎらせているであろう未生の耳に届くよう、栄がゆっくりはっきりそう言うと、今度は尚人が電話機のマイク部分をふさぐ気配があった。物に当たった後は、暴言か。ガキっぽいのは変わらないが、正直その点においては未生のことを言えた筋合いではない。

「栄、未生くんは毎日大学で忙しいんだから、あんまり無理は――」

「ああ、わかったよ。いいよいいよ、古い住所でもないよりましだ」

 本音は「週末に尚人の部屋でセックスしまくってる暇はあるくせに」くらいの嫌味を言ってやりたいところだが、さすがに品がなさすぎるのでやめておく。

 根拠のない楽観もここまでなのかもしれない。この住所を訪ねたところで空振りで、トーマスの言うとおり航空券を取るのは早まったという結果に終わるのかもしれない。だが未生は一応最低限――本当に最低ラインだが――の仕事はこなし、未生に言うことをきかせるためには尚人も相応の苦労をしたことは確かだ。

「……ナオ、お礼になんか送るよ。果物か、そいつがいるなら肉とかのほうがいいか」

 栄の申し出に、今度は尚人がマイクをふさぐより先に憮然とした「いらねえよ」という声が聞こえた。あまりに幼稚な反応に怒るどころか栄が思わずふき出すと、尚人も体裁悪そうに笑う。

「また借りが増えるのは嫌だってことみたい……」

 身勝手な年上男の相手をするのはいいかげんうんざりだが、躾のなっていない年下男の相手というのもなかなか楽ではなさそうだ。栄は少しだけ尚人に同情した。

「わかったよ。じゃあまたいつか、帰国したときにでも」

自分と尚人が再び直接顔を合わせる日がくるとはとても思えない。言葉はただの社交辞令であり、日本に行くことを隠している栄にとってささやかな方便でもあった。だが、ほんの数か月前にはこうして電話越しに会話を交わすことすら二度とはないと思っていたのだから先のことなどわからない。

 いつか栄と尚人が向き合って「あんなこともあった」と過去を懐かしむ日は来るだろうか。そのとき尚人の横には不満そうに栄をにらみつける未生がいて、栄の隣には――?

 電話を切る間際、尚人が言った。

「栄、その人にいいね」

 栄は尚人に、羽多野を探している理由を話してはいない。計算などできない尚人のことだから、何かを見透かしているわけでも含意があるわけでもなく、ただ単に人探しが成功すれば良いという意味なのだと思う。だが、その言葉はやけに心強く感じられて、だから栄は敢えて否定しなかった。

「うん、そうだな」

 うなずいて電話を切った後、栄の手の中に残ったのがこのメモだった。

 四谷の住所を検索すると、さして新しくはないが駅からそこそこ近く、永田町からタクシーを使ってもたいした金額にはならない、いかにも議員秘書に適した立地のマンションが出てきた。そのことが逆に栄を不安にする。

 経験上、独身男というのはまめではないし、必要に迫られない限り引っ越しなどしない。だが、どう見ても秘書業務のために選んだ立地のマンションに、あんな経緯で秘書を辞めて以降も留まり続けるものだろうか。鈍感な羽多野ならば気にしないはずだと、今の栄はそんなふうには思えない。

 とにかく明日はこの住所を訪ねるしかない。だから今日はゆっくり休んで時差ぼけを直して――と考えていると、手の中のスマートフォンが震えた。もしかしたら尚人から、追加で有力な情報が入ったという連絡だろうか。わずかな期待を胸にディスプレイに目をやる。

 画面に表示された名前を見つめ栄は息をのむ。そして、電話を取るかどうか、少しのあいだ迷った。

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